2020年12月31日木曜日

雪になると思っていたが

 天気予報では今日の大晦日から年をまたいで寒波が到来するといっていた。日本海側は大雪、ここ四国でも未明から雪が降り積雪 も予想されていた。だが朝起きてみると、まったく降った形跡がない。空は快晴、目に見える範囲の山も雪はかぶっていない。ただし明け方気温はかなり下がったようで外の水たまりの表面が結氷していた。近年暖冬が続き特にこの数年、結氷など見たことがなかったので写真に撮った。


 足で踏むと容易に割れた。ガラス板くらいの厚さもない。

2020年12月29日火曜日

今年最後の通院

  だいたい月一で持病のため通院しているが、今日が今年最後の日となった。今年は入院したりして病院とのお付き合いも以前よりいっそう深まった。歳ぃとるにしたがってこれからもますます病院とは親密になりそうだ(いやなことだが)。

 ワイが通っているのは地元の総合病院で、歯科を除きすべての科にお世話になっている。だからもし発熱などの症状があった時は、見てもらうつもりだ。しかし、コロナで休校、休業が始まった4~5月頃に持病で見てもらっている科の医師に

 「発熱の症状があるときはどうしららエエんかいなぁ?」

 と聞くと、うちへ来てもらっても困るけん、まず保健所か県の係に電話して指示を仰いでください、という。そして電話で「発熱外来」を紹介してもらう。しかし、同じ医師によると、ウチはまだ発熱外来が整備されてないから、ここら辺では「阿波病院」が担当になるという。阿波病院っちいやぁ、ウチからだと大河吉野川を渡ったはるか向こう。ウチには自家用車もないし、歩いていけば半日かかる。もしものときどないして行ったらよいか、不安になる。

 そして今日、診察の時、再び

 「これから冬に向かい、発熱などの症状があった時はどないしたらエエんかいな?」

 と聞くと、前回とは違い、この病院かかっている患者なら、この病院へ電話連絡してもらい、病院の救急外来の入り口に、今プレハブの発熱外来ができているので、そこで診ることになる、とのことだった。別棟の(プレハブ小屋だが)発熱外来がこの病院にもできたのだ。これは朗報である。

 診察が終わり薬をもらって帰るとき、救急外来(救急車の搬送口)のあたりを見ると、確かに以前はなかったプレハブ小屋が急造されて建っている。ウチの家からこの総合病院はごく間近、いざとなりゃぁ、這ってでも行かれる距離である。大いに安心できる。

 写真右にある物置小屋のような直方体の建物が発熱外来となる、感染予防のため隔離した診察室ではあるがずいぶん狭い。


2020年12月26日土曜日

コロナコロナで今年も暮れた

  昨日まではクリスマスのお飾りがあったアミコのホールはいつの間にかえたのやらこんなお飾りに代わっていた。


  竹を大胆に組み合わせ、季節の花や実を使ったアートフラワーである。材料としては椿、南天、梅によく似た花、枝付きミカンなどを使っている。お正月の飾りを意識した作品である。

 ふと気づくと新年まで一週間もない。子どもの頃、♪~もういくつねると~おしょうがつ~♪、歌ったものだが、舌足らずの幼児の頃は、この「もういくつ~」を「もう五つねると~」という風に歌い、あと5日でお正月という歌なんだなぁ、と思いこんでいたが、それはまさに今日この頃のことである。

 今年を振り返ると、コロナにあけ、コロナに暮れそうである。ワイはこのようにウェブで日記をつけているので、今年一年の記事をめくってみるそれがよくわかる。初めてワイのブログにこの新型コロナの記事が登場したのが1月25日のブログ(ここクリック)、それを読むと中国国内で蔓延して大変なことになっていること、それが外国にも飛び火し、日本にも数例の患者が出ていることが述べられ、世界的大流行になるかもしれぬと書いている。でもこの頃は国内はいたって平穏、対岸の火事と見ていた。

 2月に入ってのブログはコロナ関係の記事が二本あるが、それでもまだのんびりしている。2月11日には淡路に菜の花みて、神戸須磨まで足を延ばし、須磨寺と敦盛塚を観光に訪れている。しかし4月から5月になると、あちらこちらで自粛が始まり、連休前後は人出も止まるほどだった。ガランとした汽車に乗ってお寺に参拝したら、山門の仁王様がマスクをしていたブログを作ったのもこの頃だ(ここクリック)。

 この辺りが、コロナのピークと思っていたが、そうは問屋がおろし金で、だらだら流行は続いた、ワイのブログもコロナの話や、それに関連した一世紀前のスペイン風邪の話などが多くなっている。夏を迎え、少しはおさまるかなと思ったが秋から冬に向かうにつれ、最近はまた大きく感染が拡大し、爆発的流行になるのではと心配されるまでになっている。でも考えれば、コロナウィルスの病気は寒い時が本番だから、そうなるのは当たり前だったのだ。

 天界からの予兆かもしれぬ木星と土星の大接近についてのブログを書いたのはつい5日前、当然、疫病コロナパンデミックの凶兆かもしれぬとブログでは書いている。一年間、コロナはブログのネタとしていろいろ話題を提供してくれてのだが、今年を限りに終わりそうにない。

 今までコロナのブログを他人事のように書いているが、これから厳冬期に向かい、老衰のうえ、普通の爺さんより呼吸器が弱いので、ワイじたいコロナに罹る可能性が大いにある。罹っても治れば、それも奇貨として「コロナ闘病記」なるブログでも作ろうと思うが、そのまま、ホテ死ぬのがワイにふさわしいブログのオチかもしれない。 

2020年12月24日木曜日

十年前の今日

 十年前の今日、クリスマスイブの日、アスタムランドで、ネイティブのウイグルの音楽を聴いた。入場者も少なく、なんでイスラムのウイグル人がこのクリスマスの日に生演奏しているのか、今思うと不思議だ。

 十年間ちゃぁ、過ぎたら早いもんじゃ、この時ワイはまだ50代(かろうじて)だった。(動画は10年前のブログより引用)ガラケーの動画撮影なので画質は極めて悪い

2020年12月22日火曜日

生活していれば思わぬ出費もある、頭の痛いこっちゃ

  我が家は市の上水道は引いていない。自家水(地下水)をくみ上げてそれを上水にしている。本来、このあたりの地下は江川の綺麗な伏流水が流れていて、それを汲み上げて飲料水にするのは何ら差し支えなかったばずだ。しかし近年宅地造成が進み、地下水も汚染されている可能性もある。しかしそのまま我が家が建ってからだから35年ほど自家水を使用している。もうこの歳だもの、よほどのことがない限り水質は気にはしない。(昔から飲料水は煮沸したのを使っているし)

 最近、その汲み上げの配水ポンプの調子が悪い。使っていないのにモーターが5分おきくらいにオン(10秒ぐらいモーターが動く)・オフ(休止が5分ほど)を繰り返す。そこで今日午前中にメーカーから(川本ポンプ)から修理調整に来てもらった。見てもらった結果、配水管の漏れはないようなのでちょっと安心した。もし配水管の漏れがあると、敷地の中に埋めた配水管もあるためどこから漏れたかわからないし修理といっても大ごとになる(再配管になれば設備費が大きくかかる)

 結局、ポンプの電子制御装置の中を微調整(感度を弱くしたそうだ)してもらった。修理の人とポンプのそばに20分ほどいたが、オンにはならないようだ。とりあえずこのままでポンプを運転し、以後しばらく様子を見るということだ。修理の人が帰った後、しばらく耳を澄ましていたが30分たってもオンにならないので外出した。

 もうこのポンプは三代目である。これも8年近くたとうとしている。見てもらったメーカーの人に聞くとだいたい10年で取り換え時期が来るとのことだ。なんとか私の寿命ほどは持ちこたえてほしいと思っていたが、今からこの調子だと遠からずポンプを新品にすることも考えなければならない。

 外出から帰ってポンプを見ると静かだ。だが何十分かに一回ほどはオンになるようだ(若干の漏れがあるのかもしれない)。ポンプの台座をみると台座のコンクリブロックに水がしみ込んでいる。少し漏れているのか。手で探ってみたが雫や水滴は確認できなかった。目に見えないところからにじみ出ているのかもしれない。修理屋さんが分解したときに漏れ出したのか。(以前は台座ブロックは乾燥していた)


 とりあえず、使っていないのにポンプがオンを繰り返し休止期間が短いのが(5分ほど)問題だから、それが改善されれば良しとしよう。ポンプもそろそろ寿命(メーカーのよれば10年という)、今度不具合があればポンプ全部を新品にすることも考えなければならない。

 追伸(23日、朝)

 早朝、また断続期間が短くなった。9分ほどでモーターが動く。静かなのでよくわかるし耳にたつ。

 出費を抑えてつつましやかに生活しようとしているが、思わぬ故障で出費がかさむことがある。9月上旬には私の足首がポキリと折れ修理した(?)もちろん保険のカバーはあるがそれでも私には結構な出費だった。また10月下旬には洗濯機が壊れ、新品を買った。洗濯はやろうと思えば、昔の金盥に洗濯板で、ゴシゴシ手洗いで洗濯できぬこともない。しかし今回の上水ポンプだけは、水がなければ生活ができないので費用をケチってやめるわけにもゆかぬ。

 わずかな年金しか収入がないのに頭の痛いことである。

2020年12月21日月曜日

意外と知らない今日の天文現象、占星術あるいは陰陽道では凶か?

  中世では日本でもヨーロッパでも占いは大流行りである。今でこそ「占い」なんどは、出まかせを言って迷信深い人を引っ掛ける怪しげぇ~な商売くらいにしか思われてないが、中世日本、中世欧州では全く違っていた。西洋の「占星術」は中世欧州で最も学問的権威の高い「パリ大学」でその研究が行われており、大真面目に天文現象が地上に及ぼす効果を信じており、それを読み解くのが学者の仕事とされていた。

 中世欧州を襲い、人口の二分の一から三分の一を屠った「黒死病」(ペスト)の原因について、パリ大学医学部が1345年3月20日に宝瓶宮で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している。(最高権威のパリ大学が公式にですぞ!

 日本でも同じである。太政官の律令官制(つまり政府の公式役所)には「陰陽寮」というのがあってそこの頭(かみ)博士が天文地象、天体の運行などを観察し、それを陰陽理論によって解釈し、その吉凶を太政官に報告したのである。中世においてはヨーロッパはパリ大学の医学部、日本は太政官陰陽寮、どちらもこれ以上の権威はないといいうほどの公式な、星の運行とその人間界への影響に関するコメントを出していたのである。

 古典の中でも親しみ深い、『大鏡』にこんな記述があるのを知っておられる方も多いと思う。時は平安時代中期、陰陽寮の頭はあの有名な安倍晴明である。大鏡の中でも最もスリリングな政変は、だまされて天皇の位を降りることになった花山天皇の出家騒動であろう。出家の寺に向かう天皇の牛車が深夜の都大路を通った時、安倍晴明の家の前を通りかかった。すると家の中から安倍清明が手を打つパンパンという音が聞こえ、外の大路にも聞こえるように

 『帝おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでに成りにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束せよ』

 実は後の研究でこの清明が観察した「天変」は二つの星の「合」木星と土星がきわめて接近することであったことがわかっている。中世ヨーロッパは三重の星の「合」が黒死病の大災厄をもたらしたが、日本でも木星と土星の二重「合」は帝の位が変わる凶変だったのである。

 大鏡では安倍晴明は花山帝の牛車が通るときにあたかもこの「合」を観察し、急いで奏上の準備にかかったとされているが、これは歴史物語「大鏡」のフィクションであり、ホントは安倍晴明は毎夜の観察から木星、土星の大接近をずっと前から知っており、もちろん陰陽の頭として早くに報告していた。この清明の奏上した天文現象を「凶」としてとらえ、帝が位を降りるように、圧力の一つとして藤原氏が使ったというのがどうも真相のようである。その陰謀に安倍晴明も一枚かんでいたという説もある。

 さてそこで、今日12月21日である。今日の夕刻、その木星・土星大接近が起こる。昔、安倍晴明が観察した「木星・土星大接近」は、寛和2年(西暦986)夏であった。二つの遊星大接近の間隔は天空上角度で0.7°といわれている。ところが今日の木星・土星大接近はこれよりずっと近寄った(ほとんど重ならんばかりの)わずか0.1°である。もし平安時代、安倍晴明の観察した二つの遊星の「合」(「犯」ともいう)が「凶事」なら、それをはるかに上回る今日の木星・土星の大大接近は「大凶」ということになる。

 今、寒くなりコロナがますます勢いづいてきている。欧州ではコロナの変異種が出現したという。中世パリ大学は游星の天空上での「犯」(合)が疫病を引き起こしたといっていた、今夕のこの遊星の「犯」(合)が、コロナという疫病の蔓延と一致しているのはなんやら不気味である。

 下は午後5時40分ごろの西の空、木星と土星がきわめて接近しているのがわかる。


 少し経つと二つの星はきわめて接近したのかほとんど重なったように見える。


 しばらくたつと二つ星は西に沈み、午後7時前には西の山に没した。このようなごく間近の木星・土星の大接近は400年ぶり、普通の大接近でも次に起こるのは60年以上先という。

 なにごともなきゃぁええが・・・

冬至に摩崖仏をお参りする

  今日は12月21日、冬至である。昼の(日が出ている)時間が最も短くなる。冬至の時刻も細かくわかっている。本日の19:02である。なんでこんな細かく時分までわかるのか?この時刻の意味は地球の公転軌道の起点(春分点)からちょうど270°の点を地軸の中心が通過する瞬間である。この瞬間はおおむね12月21日だが22日になることもある。

 正午ごろ田舎道を歩いていたが、太陽南中時にもかかわらず、私の影がこんなに伸びきっている。昼が最も短いばかりでなく、南中時の太陽高度ももっとも低くなる。日の光も弱いため、気温が低いこともあって背中に日をいっぱい浴びても全然ぬくもらない。


 この田舎道をあるいて山川町山崎の摩崖仏まで参拝してきた。この山の中腹に露出している自然石に江戸中期ころ「大日如来」「不動明王」「弘法大師」の三体の摩崖仏が彫られていて古くから人々の信仰を集めている。


 今日お参りしたのは今日が冬至ということまあるが、ちょうど一年まえの今頃、この山川町山崎の摩崖仏をお参りに行ったことを思い出して運動がてら参拝してきた。

 この摩崖仏は江戸中期に掘られたものであるが、ずっと古くから、おそらく古代から祭祀、礼拝の場としての聖地だったと考えられる。まず、この摩崖仏の彫られている山腹に露出している岩だが、これは古代の聖地の「磐座」であろう。その祭祀伝統の上に真言密教がかぶさり江戸時代になって三体の摩崖仏が彫られたのであろう。

 この磐座の後方にある「石殿」と言われる、石板で囲まれた粗末な祠のようなものが最も古い社形式であるといわれている。


2020年12月19日土曜日

お寺の宝物

 先日(15日)、徳島城博物館で企画展『眠れるお寺の宝物展』をやっていたので入館して鑑賞してきた。明王院(山川町)、春日神社(徳島市)、東福寺(貞光町)、観音寺(徳島市) の四つの寺社のお宝展示である。

 この中で東福寺以外は何度かお参りしたこともあり、ブログも作成していた。しかしあくまでも境内や外観、そしてお参りに許される堂内のみで、秘蔵されている「お宝」は見ることができなかったのでちょうどよい機会だった。

 残念ながら企画展示室内は撮影禁止なので、入り口の外から一枚だけ撮影した。下は観音寺ゆかりの蜂須賀蓬庵像、寛永16年(1639)頃の作とされている。


 四つの寺社の中で山川町の「明王院」は一年前のちょうど今頃(12月16日)にお参りしてブログを作っていた(ここクリック) もちろんこの時は寺宝などは拝観できなかった。今回の見学で撮影はできないが、詳細なパンフレットがついていたのでその図像から主なものを下にあげておく。

 江戸時代作『仏涅槃図』


 下左が『南泉斬猫図』、右が『弘法大師家系図』、『南泉斬猫図』は江戸中期・月僊(僧)作。禅の公案、南泉和尚猫を斬る、を描いた禅画である。この話、禅の公案に詳しくなくても三島由紀夫の小説「金閣寺」での有名なエピソードとなっているので知っている人は多い。


 ところで東福寺(貞光町端山)はまだお参りに行ったことないが、この寺宝展で意外とおおくの寺宝が秘蔵されているのを知った。境内には東福寺美術館も作っているようだ。あたたかくなって機会があれば行って見たいと思っている。またその時、寺のお宝については(撮影は無理なので)今回貰ったパンフレットの図象から引用して紹介したいと思っている。

2020年12月14日月曜日

12月14日

 午後4時前、時雨もよいの空の下、西の方に高越山を見る。あすから寒くなりそう。

 毎年のように暖冬傾向が続いているが、それだけに寒波が来ると老いた身にはこたえる。日中から気温が下がり、冷たい風が強まり、雲の切れ間からたまに陽が射すが、いつのまにやら雲が空の大部分を覆ってしまい、時雨もパラパラ、寒波が来る前触れのような天気である。予報を聞くとやはり今冬初めての寒波がやってくるようだ。北陸以北は雪、ここ暖国阿波でも雪がちらつくかもしれないといっていた。

 今日、14日は赤穂浪士討ち入りの日である(旧暦だが)、忠臣蔵の話は明治、大正、昭和、そして平成と時代が変わっても大衆に人気がある。ところが今年はその傾向も変わりつつあるのか、今日のTV番組表を見ても、地デジ・BSとも忠臣蔵番組はほとんどない、わずか一局で一時間の番組『吉良上野介の実像』があるのみ。

 現代に敵討ちの話など流行らなくて当然といわれそうだが、忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)が江戸から現代まで根強く人気を保ってきたのは、敵討ちがメインだからではない、その中には、恋もあり、冒険譚もあり、また推理ドラマのような殺人事件もあり、多様なワクワクするような筋がたくさん詰まっているからである。その一部を取り出してドラマに仕立てて十分通用する面白さを持っている。逆にいえば舞台にする場合、最後の敵討ち成就の場面などほとんど取り上げない、つまり人気がないのである。それより仮名手本忠臣蔵の中の恋や、道行、廓の話、故殺事件の話の舞台のほうがだんぜん人気があって面白い。

 意外と知らない人がいるようだが、幽霊話の最も面白い(というか最も可怖い)のは「東海道四谷怪談」だが、これ実は忠臣蔵の外伝(つまり関係者が引き起こす話)である。そう考えると忠臣蔵の話は単なる敵討ちの話だけではなく、大きなエンタメとしての『世界』を持っていてその中で展開するエピソードはすべて忠臣蔵の話となるのである。何やら忠臣蔵の本質を換骨奪胎して別物にしたような気がするが、それでいいのである、江戸時代から現代まで、忠臣蔵モノ、義経モノ、曽我兄弟モノは一応それを標榜(つまりちょっとでも関係)していれば、内容は本筋からずれて面白いものにしていいのであり、そうやって忠臣蔵、義経、曽我兄弟の話はいろいろと発展し生き残ってきたのである。

 いま世は鬼滅の刃が大人気である。これなどは伝統を重んじる立場からいえば、各地にある「鬼退治伝説」の一つに見える。そこでどうだろう、忠臣蔵外伝として、なにか鬼退治の話を作って忠臣蔵の世界に加えてはどうだろうか。TV番組で『忠臣蔵外伝・鬼切丸』などとタイトルを打ってそれらしくドラマをつくれば(少しでも忠臣蔵つながりを入れること)、鬼滅に浮かれる今の世、視聴率を稼げる気がするが。

2020年12月13日日曜日

憂しと見し世ぞ今は恋しき


 小松政男さんが亡くなった。つい数か月前に5話連続のドラマに需要な役で出演していたのに、78歳であったとはいえ急逝感は否めない。ワイは連続ドラマなどまず見ないのだが、このドラマの題『すぐ死ぬんだから』というタイトルが気になって途中から見てしまった。後期高齢者の中には、自分にいいきかせているのか、あるいは家族から何か言われた時のいいわけか、はたまた開き直りか、口癖のように「もうすぐ、死ぬんだから、ええでぇ~」という人がいる。若い人が聞いたら、ジジ・ババの口実、言い訳、あるいは老人特有のワンフレーズのしょうもない繰り言くらいにしか受け取らないだろう。だが自分も後期高齢者に近づくとその心理がよくわかってくる。

 ドラマを見ると案の定、後期高齢者のドラマである。その中で小松政男はヒロイン三田佳子(といっても79歳のばぁさまだが)の若い時からの友達として出演している(上記写真)。もちろん自分も79歳のジイさん役である。若い時は喜劇系の役者だったが、そんなことはみじんも感じさせない、飄々として歳枯れたぴったりの役を演じていた。

 題が題だけにあまり暗くならないようにドラマの筋は夫が亡くなった後、隠し子がわかって大ショックを受けたり、あるいは主人公の子や孫を描いて家庭内の小ドラマを作り出し話を面白くさせている。それでも中心は80歳に近い後期高齢者とそのお友達(小松政男も含め)である。日々の生活の中、友達の病気見舞いが増え、また思わぬ訃報に接し、通夜などで顔を合わせる友達も一人消え、二人消えして人生の終末のわびしさが漂う場面も多い。

 その中でワイが印象に残った場面がある。病気見舞いか、お葬式、あるいは墓参りの帰りだろう、主人公と小松政男、それと同じ年の友達、数人で帰り道、しみじみと語りあっている。

「今から思うと、60代の時は元気も気力もあったねぇ、もう一度あの頃に帰れたらねぇ」

 その言葉にみんな同意して、一同大きく頷く。

「ほんと、60代は元気で若かったね、いい時だったねぇ」

 とまぁ、同じセリフではないが、このような意味のことを語り合い、全員、同意するのである。

 若い人から見れば60代も80歳のジジババも同じに見える。この人たちだって若い時はそのように見ていたはずだ。だが中年から初老になり、60歳を迎えるころになると、否が応でも肉体的衰え(老化)を強く感じるようになる。そして60歳を区切りに今まで一生懸命打ち込んできた仕事も一段落する。そんな身の衰え、生活の変化をうけつつ60歳を迎えたとき、「いい時代」は終わったと感じる人もいるだろう。還暦を迎えたとき一括りに「老人」といわれる人生の晩期に入ったと憂鬱になる人もいるだろう。

 しかし、このドラマのセリフにあるように、80歳近くになると、60代は素晴らしかったといっているのである。80歳から見ると60代は全然違っているのである(もちろんいいほうに)。還暦を迎えたとき憂鬱になったのに、今からふりかえると、なんといい時代60代であったことか!全員感嘆しきりである。

 身に染みて60代と今(79歳)の違いを実感できるとするなら、つぎのような未来予見もできる、

「今、60代を懐かしむように、また十年後、90歳近くなったら、もっとヨボヨボ、もしかすると車いすかもしれない、その未来の時点で、ああ、十年前はよかった。まだあちらこちらに歩いて行けたのになぁ、と同じような感慨にふけるだろう」

 百人一首第84番にこのような歌がある。(詠み人、藤原清輔朝臣

(永)ながらへばまたこの頃(ごろ)やしのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ今は恋(こひ)しき

 これはまさに上記に述べたように、さらに老化した未来を先取りした感慨であり、ドラマの老人たちの感嘆の言葉である。百人一首は、ワイは高校の古典の入門編で、ソラで言えるように暗記した。昔はこの一首、わかりにくい文語である以上に言っている内容意味がよく把握できなかった。だが古希を迎えるこの頃、実感を伴ってこの句の意味がよく理解できる。 

2020年12月9日水曜日

御祈祷

  昨日、滝薬師の前を通りかかると、堂内から十三仏の真言が声高らかに聞こえてきて、続いて太鼓の音とともにまた別の真言が聞こえてきた。ああそうだ。今日は8日、護摩祈祷の日である。十三仏は不動明王に始まり、虚空蔵菩薩に終わる仏はんである。御祈祷になぜその十三仏の真言を唱えるかの説明もいろいろ言われているが、そんなことは実はどうでもよい。護摩壇でメラメラ燃え上がる祈祷の炎とともに、声高らかに真言を唱える僧の行為そのものが信者にとってはありがたいのだ。祈願者も一心不乱になれば、法悦に入り、いわゆる宗教的エクスタシーを得られるかもしれないし、もちろん心願も容易にかなう気になれる。呪文のようなマントラを夏のセミのように間断なく唱え、そして本尊前の盛大な炎、強く漂う魅惑的な香の匂い。このような宗教的演出は千数百年の歴史がある。日本では密教系宗派が主にそれを担っている。

 現代人は宗教を容認している人でも、やはり宗教は高尚でなければならないと思っている人が多い。現世利益的な、効能ばかりを強調する、祈祷系の宗教は低次なものとうつるようだ。だがそんな人でも、心の中に、こうあってほしい、そうなってほしい、という願いや希望を抱かぬ人はいまい。御祈祷を信じる人も同じである。ただ信じる人は、一心不乱に願うその心のエネルギーをなにか形にして、あるものに向ければ成就への道が開けると思っているのである。そういうと超自然現象肯定者や神秘主義者と思われるかもしれないが、そんなたいそうなものではない。「願い事」を強く思い、それが心いっぱいに満たされたとき、思わず「あるもの」に向かって合掌したり、首を垂れるのは自然なことである。

 そうならおのれ一人で静かに行えばいいことではある。もちろんそのような祈祷もある。し、とやかく言うことではない。だが人は魅惑的な宗教儀式にあんがい強く惹かれるものである。願い事を派手なパホーマンスにのせてやることで、宗教的というのがいやなら、心としてもよい、その心に満足感を得るのである。護摩祈祷などは盛大にボンボン火を燃やし、真言を高らかに唱えるため、なにか、人の持っている目には見えない祈祷のエネルギーが、火炎やマントラのように、目に見え耳に聞こえる形としてあらわれ、本尊の前で湧出するように思える。いかにも効きそうである。例えが適当でないかもしれないが、効かないと思って飲む薬より効くと思って飲む薬の方が、効果が大きいのとよく似ているかもしれない。

 そのためか真言密教の護摩祈祷は、今の世でも結構人気がある。最近の寺は檀家離れが進み、また無宗教の葬儀が増えているため収入が先細っている中で、この「護摩祈祷」はいい収入源である。今はどうか知らないが大昔は、祈祷のお坊様は、まず美声の持ち主であることが第一番、そして美男ならなおよい、とされたのは頷けることである。

 通りがかっただけなので堂内に入るのは遠慮した。外から太鼓の音と真言が流れているのを動画撮影した。十三仏を唱えた後なので太鼓の音は聞き取れるが真言は先ほどより声量も小さくなり、何を言っているのか外からはわからない。

2020年12月8日火曜日

ロチを読んでいる

  図書館の新刊書棚に左の本があった。著者のピエール・ロチという名前に聞き覚えがあった。それで手に取り、パラパラと目を通した。明治の初年、日本に来たフランスの海軍士官が書いた旅行記と言ったらいいのか、日本についての気ままな随想を述べた本であるようだ。外国人の目に映った明治や大正時代の日本の風俗はどのようなものであったか、興味があったので借りて読んでいる。

 それにしてもピエール・ロチという名、いったいどうして記憶に残っているのか?かなり古い記憶のようだ。思い出してみる。まずその名、ロチ、外国人の名前にしても変わった名前だから一度きいたら頭にずっと残っていそうである。しかし、そんな印象的な名の著者が書いた作品なら、その作品も頭に残っているはずだがそんな記憶はない。どうも別の、たぶん日本人作家の作品の中に出てきたんじゃないかとまではわかったが、それから先、その日本人作家は誰だったか、作品は何だったかは思い出せない、しかしどうも中学か高校の時の国語の教科書の中の作品のようである。はてその作品は?

 ネットで「ピエール・ロチ、中高教科書、日本人作家」などのキーワードを打つとすぐわかった。芥川龍之介の作品『舞踏会』である。なるほど芥川龍之介なら好んで中高の教科書にとりあげられる作家だし、またこの『舞踏会』は短編でもあるので題材としては適当であろう。芥川龍之介の作品は短編が多いが味わい深いものがある(だから教科書にも取り上げられるのだろうが)。『蜘蛛の糸』、『羅生門』などは中高の6年間のいずれかの国語に載っている。それらと比べるとこの『舞踏会』は出現頻度はグッと落ちる。ロチという名も知らずに大学に入る学生もいるから、ごく一部の教科書に載っているだけである。ロチという名は一度この作品を読んだものは忘れはすまい。この短編小説『舞踏会』の締めくくりは読者に強い印象を与える。それを与えるのがこの「ロチ」という名になっている。そのため読書後にロチという名が頭に刻み込まれるのであろう。

 ロチの日本についての評論はちょっと評判の悪いところがある。いま借りて読んでいる『日本秋景』もそうだが、日本人の容姿について、彼はあまりにも率直に感想を述べているため、それを読む日本人としてはかなり衝撃を受ける。日本人の容姿をみて、いわく「・・・これほど醜い人々はめったにない」「・・黄色いサルのようだ」、よくて「小さくてかわいらしいサル」云々。日本人としては読んでいてムッとする。しかし、一方、西洋人からみたらそう感じるわな、と思う。彼の美醜についての感想はいつも率直である、容姿についてはかなり聞きづらいが、日本の美術、工芸、自然の美しさに関しては感嘆し、賞賛を惜しまない。つまり彼はお世辞などいわない、見たまま感じたままの心をそのまま文にしているのである。当時の西洋人が見た日本人および日本を率直に述べたものである。

 だからか、この旅行記ともいうような『日本秋景』を借りて読みつつ、彼の日本に関する小説も読もうと作品『お菊さん』を図書館で探した。ところが蔵書がないのである。全県図書館検索システムで探すと県立の蔵書戸棚にたった一冊あった。それで借り出したのが左の本である。もう長期間読まれた形跡はない。もう本はボロボロ(よく貸出禁止にしないものだ)見ると、なんと私が生まれた年発行の岩波新書である。ネットで調べてももう半世紀以上新版の発売はない。ということは読む人が少なく人気がないことを表している。やはり日本人の容姿をかなり手ひどく描いているのがみんな気に入らないのかもしれない。

 とりあえず、いまピエール・ロチの作品『日本秋景』と『お菊さん』二冊を読んでいるところである。この小説のお菊さんのモデルになった女性が長崎にいた。このお菊さんはロチの短期長崎滞在中の「現地妻」であったとされている。

 わが郷土にいたモラエスさんと(その現地妻?)おヨネとコハルを思い出しつつ、お菊さんのモデルの女性の写真を下にあげておく。二枚の写真とも同じ女性で、これがお菊さんのモデルだといわれている。いや、別人だという主張もあるが、当時の写真館でとる写真はかなり写真屋さんの修正も入るのを考慮してほしい。皆さんは見て、どう思いますか?どの写真も立っている男二人の右がロチである。


2020年12月7日月曜日

徳商の阿波おどり

 昨日アミコ二階正面広場で徳島商業高校の阿波踊りクラブが踊りを披露していた。

 動画で見ると、ご覧のように女子が多い。

 

 男子は鳴り物にいるだけ


かと思ったら、女子の総踊りのあと、男子二人がダイナミックな踊りを披露してくれた。こちらの動画も撮りたかったが二人が舞台を縦横無尽に動き回るのと、前の観客らが邪魔になり撮影できず、激しい動きの合間にある「ストップモーション」時に写真を撮った。


 徳島商業高校はアーティスト・米津玄師の母校でもある(最初ワイは名前からイリュージョニストつまり大魔術師かと思ってた)。校風になにか芸術的才能を育てるものがあるのかもしれない。

2020年12月6日日曜日

先週始まった朝ドラ、え、え?そうだったんじゃ!

  昨日は土曜日、朝、ぼんやりとBSでMHKを見ていると、一週間分の朝ドラの総まとめをやっていた(6話分だから15×6で1時間半か)。

 「あぁ、そういやぁ、今まであった朝ドラ、古関裕而を描いたエールが済んで、今週から新しいのがはじまったんや」

 途中から見たので物語の出だしは見逃したが、流れている場面は、見たところどうも明治か大正の農村の雰囲気である。貧しそうな家、頼りなさそうな父(たぶん)そして継母だろうか着飾っている、おそらく敵役だろう、主人公は7~8歳の女の子で弟がいる、とここまで見ればだいたい今まで見なれたパターンの、苦労をものともせず成長につれてだんだんに大成していく女子を描いたものであることがわかる。

 時代や身につけているボロな着物、そしてまだ幼い女主人公を見ると大昔に見た超人気の朝ドラ「おしん」を思い出した。ところが見ていくと、この女の子、おしんのように「辛抱」するような子でなく、継母と負けずに堂々とやり合っている。なかなか気の強い子であるようだ。見たのは一週間のまとめの最後の方だけであったが、おしんとは性格の違う気かん気満々の、ぷっくり頬の膨れた顔、幼女とはいいながら、大人になってもおそらくはそう美人にはなりそうもない顔、でもワイはこんな明治大正の子どもの歴史顔って好っきやわ。明治大正頃にはどこの農家にもいるような少女の容姿、そしてガイな性格といいちょっと興味がわいてきた。

 ところがギッチョンチョン!次週の予告を見てずっこけた。


 なんと、いつのまにやら大きくなって田舎田舎したきかん気の女の子が韓流や華流の時代劇のお姫様もかくやとおもわれるような(一応着物だけは粗末になっているが)楚々とした美女になっているではないか。ファッションモデルや美女アナなら似合いもしようが、なんであの田舎のおぼこな子ぉが、こないになるんぞぃ!

「体が痩せすぎじゃわい!顔が綺麗ぃんはしゃぁないとしても、少なくとも下半身は頑丈で太ぅなきゃぁあかん、大根足、デカ尻ならなおよい」

「首も細すぎる、いったい何者のキャラにするつもりぞぃ、やるのは女の丁稚はんか女中はんやろが」

 とツッコミを入れたくなる。それみたらもう見る気ぃ失せてしもうたわ。「もう見ちゃれへんわ」と決心してこの話はそれで終わった、と思った・・・

ところが 

 図書館には最新に購入した新刊本貸し出しコーナーがあり利用者の便宜のため入ってきた入り口に近いところに、内容を確認できるように表紙を上に平で並べてある。今週はたくさん入ったようで30冊以上並べてある。ふとその中の一冊に目がいった。左の本である。タイトルに覚えがある『水のように』、たしか浪速千栄子はんの自伝だったと思ったが、よく見ると間違いないこの表紙の写真は浪速千栄子さんである。(若い人は知らんやろなぁ、亡くなってもう半世紀近くなる

 なんと珍しい、この本、覚えがある。ワイが高校生の一年のときやから、ええと、昭和41年、1966年、いまから54年も昔、高校の図書館の貸し出しカウンタの真向かいの書棚にあった。なんで覚えているかというと、当時は女優の自叙伝なんかは珍しく、また高校の図書室の本の中では異色の軟派な本であるため、覚えていたのだ。目が行っただけではなく、多分借りて読んでいるが、内容はきれいさっぱり忘れている。

 「なんで、また、そんな大昔の本を、それも浪速千栄子はん亡くなってもう半世紀近くもたつのに、復刻の新刊でだしたんやろ」

 初版の出版は1965年とあるから、まさにワイが高校の時読んだのがその初版だったのだ。内容はともかく、ワイが高校の時その図書室にあったというその懐かしさが先にたち、借りて読むことにした。(最近、老人性痴呆涙腺症がすすんだのか、高校時代のゆかりのものなどに触れると涙が出るほど懐かしくなってくる

 そして数ページ読んで、今日見た朝ドラの題とこの本が結び付いていることに気が付き驚いた。数ページ目に浪速千栄子はんはこう書いている。

「おちよやん」と申すのは、大阪弁のニュアンスをご存じない方にはちょっとおわかりにくいでしょうが、下働きの年齢の下女を総称して、そう呼ぶのが当時のならわしでございました。

 この本に出てきた「おちよやん」の言葉で、おそらくこの浪速千栄子さんの自伝が元になり今回の朝ドラがつくられたに違いあるまい、それで55年も前の大昔の本が復刻され新発売されたのも納得できると思ったが、念のためネットで調べるとやはりその通り今回のドラマのオリジナル本(もちろん脚本はそれに基づいて現代の脚本家が描いているのだろうが)であった。

 浪速千栄子はんは若い時、確かに美人だったがそれは明治大正期の別嬪さんである。なんぼぅなんでも今流行の韓流や華流時代劇TVのお姫様のような美人とは全く性質が違う。今回のヒロインはどう見ても後者の方じゃろ。ワイとしては配役ミスとしか言いようがないが、今様の美人でなかったら朝ドラのヒロインにはなれん!と言われればそれまでだ。こういうヒロインの一生を描くドラマでは往々にして子役のイメジとその大人になってのイメジとの差が大きく、違和感を抱くが、ドラマを見続けるには慣れるしかない。まあワイは、本の方は古い復刻版でもあり、懐かしく読ませてもらうが、朝ドラの方は遠慮しますわ。

 ちなみにワイの独断と偏見で言わしてもらうなら、子役の子ぉが大きぃになった役でいちばん似つかわしいのは「近藤 春菜」か「山崎 静代(シズちゃん)」がいい。どちらもお笑いのイメージが強いというなら、「安藤サクラ」なんかが適してると思う。

2020年12月4日金曜日

イルミの季節だ

  夜が最も早い時期、すなわち日没が一番早いのは今日この頃である。冬至(12月21日)ではないのかと思うがそうではない。その地学的な仕組みはよくわからないが、たぶん地球が楕円軌道を公転していて速度に遅速があることや地球が完全な球体でないことが影響しているのだろう。

 だから早く暗くなるし、寒いし、夜がわびしくなる。そんな中、目を楽しませてくれるのはさまざまな電飾だ。発光ダイオードが普及していろんな色の電飾が見られ、その形も複雑で、あるテーマ(童話などが多い)を表現した大掛かりなものや、また芸術的のものも見られるようになった。

 先月にはなかった電飾が今月に入るとあちらこちらで見られるようになる。下は今晩の市体育館前の電飾(イルミ)である。時刻は午後6時過ぎ。親子連れがたくさん見られた。

2020年12月1日火曜日

大分限者

 上記のタイトル、わが地方では訛って「おぶげんしゃ」という。今は死語と化しているが、昔の大金持ちのことである。この言葉が使われていたのは江戸、明治、そして最近私のブログでもよく取り上げる大正時代から昭和前期くらいまでだろう。昔の大分限者はわかりやすかった、立派な門構えの広い家屋敷をもち、そして必要条件として蔵(白壁の土蔵)がなければならなかった。住み込みの女中、下男がいて、ほかにも使用人がたくさんいた。

 先日、上板の方へ渡る潜水橋を探していて、迷って重文指定の旧家の横を通った。時間があるので立ち寄って見学しようと思ったが、当分の間、コロナ防疫のため見学禁止とのことで、外から撮影させてもらった。




哀愁の廃線・鍛冶屋原駅

  前回たどった廃線は、大正時代に存在した。私の祖父の青春時代の話である。昔話に撫養へ行った話を祖父から聞いたことがあるので、おそらくこの路線にも乗ったに違いない。私に昔話として話した時点で、その連絡船と組み合わさった路線はとうの昔に廃線になっていた。祖父の心の中まではわからないが、何か懐かしさを感じるものがあったのだろう。今になって思えば、祖父の昔話をもっとよく聞いておくんだったなと後悔している。

 祖父には懐かしかったかもしれないこの(吉成~古川)間の廃線だが、私の生まれるずっと前の話で、その廃線跡を辿り、ところどころここかなと立ち止まって写真を撮っても特に思い入れなどはない。しかし、今日のブログで取り上げる廃線には複雑な哀愁がある。その廃線は国鉄・鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原間6.9km)である。大正12年に開通したが、高度経済成長が始まりモータリゼションの波が急激に高まり列車利用者が減ったため昭和47年に廃線になった路線である。

 私が3歳か遅くても4歳まで(昭和29頃)この路線のタミナル「鍛冶屋原駅」のすぐ近くに家がありそこに住んでいたのである。鉄道と並行に走る駅裏の道から少し下ったところに家があったのを覚えている。小さな家だが一戸建てで、そこで父、母、妹の三人で住んでいた。今の言葉で言えば「夫婦と子供二人の核家族」である。わずか3歳だった幼児の私にその時の鮮明な記憶はない、ただ、定かとは言い切れない夢のようなおぼろな記憶が断片的に残っているだけである。

 あやふやな記憶らしきものにはいくつかあった、家の台所棚にガラスのコップ、それと同じ棚にラジオがあった、なぜそんなものが記憶に残っているのかわからないがほかの物の認識はない。そして外出するとき(誰に連れられてかわからないが)まだ乳飲み子の妹が縁の手すりにつかまって、アァ~ンとこちらを見て泣いていたこと、また別の記憶では祖父だろうと思うが家に迎えに来て連れていかれるとき家の奥には母がぽつねんと座っていたこと、などわずかである。家の周囲(つまり駅付近)の記憶はただ一つ。それは夜である。たぶん駅裏の家のあたりの夜景だろうと思う。転轍機(ポイント切り替え機)の上についている赤や青のやけに寂しい信号機の明かりが唯一である。 

 私は事情があって上記の時(3~4歳)以後、そこから10kmばかり離れた祖父母の家に引き取られ、以後祖父母に育てられた。つまり鍛冶屋原駅裏のこの小さな家でのこのおぼろな記憶は、唯一、両親と妹と私の4人の一家団欒の時代があったことをしめすものだ。世の中には片親やあるいは祖父母に育てられる子は多い、そんな中でも幸せに暮らす子も多いが、やはり二親のもとで育てられるのが子供にとって一番いいに決まっている。もう取り戻せない過去ではあるが、その一家団欒の記憶がほとんどないのが残念である。いやむしろ小さすぎて記憶などが全然ないほうがいいかもしれない(妹はようやく乳離れした幼児だったのでこの時の記憶などは全くないだろう)。断片的におぼろな記憶があるだけに、よけいにこの時代を哀切とともに振り返ろうとする、ところが悲しいかな記憶が残るギリギリの幼児だったため、そのおぼろな記憶も大してよみがえってこない。このもどかしさは何とも言いいようがない。

 その大切な珠のような貴重な記憶も70年近くも生きると少しづつ風化し、霧消していきつつある。老化、ボケとともに大昔の記憶もなくなっていく。10代や20代の時はもっと記憶も多く鮮明であったのは確実である。というのも、あれは忘れもしない小学校6年生の時だ、やはり昔の楽しかった家庭への懐古がやみがたかったのか、自転車で10km近くある鍛冶屋原の駅裏のその小さな家まで、遠出して見に行った記憶がある。そして実際その家を見つけた。8年以上たっていたがその家は、ちゃんとあった(もちろん別の人が住んでいる)。その行動を今から考えてみると、小学校6年当時の私の記憶は、駅とその家の位置関係、そして家の形などを確実に覚えていたのである。

 その廃線の鍛冶屋原駅跡を歩いてみた。

 駅だったことを思い出すよすがとなる物は残っていない。昭和47年に廃業ということはほぼ半世紀前である。せめて地形にでも(線路あとの盛り上がった長い丘のようなもの、プラットホムの石造の跡など)と探したが見つからない。お上や当局者が意図して駅の遺構となるようなものを残さなければ栄枯盛衰激しいこの世の中で消滅もやむを得ない。

 ただ最近作られたであろう御影石のこのような記念碑が立っていて辛うじてここに昔駅があったことを示している。


 この記念碑から北の方角を見ると道路にしては広い場所が広がっている。これはここが昔駅前であったことを示している。広場の隅に消火栓を大きくしたような大昔の赤い郵便ポストが立っているが、もしかすると半世紀前、駅があった時からの遺物かもしれない。

 

 駅舎跡は今は商工会議所と銀行のビルが建っている。鍛冶屋原駅はタミナル駅(終着駅)であったため駅構内は広かったと思われる(多数の線路、引き込み線、蒸気機関車の時代は円形の機関車の向きを変えるターンテブルもあったはずだから当然広い)、今その構内あとは大部分が運送会社とそのトラック駐車場になっている。

 記憶では我が家は駅裏(つまり線路がいくつも走る構内の南)の道にあった。まずその場所で間違いないと思われるところに行って写真を撮ってきた。もちろん当時の家はなく新しい家が建ち、整地したため地形も少し変わっていたが、道路より少し低い敷地に建っているのは昔のとおりである。小学校6年の時にも訪れ、記憶を確認していたためわかった。


 もう父母、祖父母、みんないない。おぼろなこの記憶も遠からず私とともに消え去るだろう。残るのは廃線の鍛冶屋原駅跡を示す墓標のような碑のみである。私にとってはなんとも哀愁漂う廃線・鍛冶屋原駅跡の探索であった。