2020年7月30日木曜日

今日ウチラの地方の梅雨が明けた

 昨日のブログで梅雨明けはまだかと書いたが本日気象庁から四国の梅雨明け宣言が出た。今年の梅雨明けは10日びゃぁ遅くなった。

 これからいよいよ蒸し暑い真夏の到来だが、今年はコロナのせいでマスクが口元から離せないため顔に熱がこもって余計暑い思いをせにゃならん。夏になればコロナも少しはおさまるかと期待していたが、なにがぁ~、こんじゅワルのコロナのこと、ざまぁみさらせとばかり、ここ徳島では昨日一日当たり史上最高7人もの感染者を出した。一週間くらい前までは総患者数が一桁だったのに、あっちゅう間に23人になった。ますますマスクをつける必要に迫られている。もう、このくそ暑いのにこらえてほしわ。

2020年7月29日水曜日

梅雨明けと思ったが

 朝から晴れて暑い。昼頃にはあちらこちらの方角に入道雲が発生し始めた。そして午後2時過ぎ、大きな水たまりができるほどのかなりの降りとなったが一過性で夕方にはまた晴れ間が広がった。しかし山の方を見ると雨雲がかかっている。昨日も午前は晴れていたがやはり午後2時過ぎるころから土砂降りとなっている。九州地方が一昨日梅雨明け宣言を出したので午前の青空と太陽を見た時は四国も続いて梅雨明けかと思ったが、お天とうさまはまだまだ降る気充分のようである。
 正午過ぎの入道雲

 東北地方が梅雨末期の豪雨でかなり被害が出ているようである。昔は梅雨末期の集中豪雨は西日本に多かった。北日本(東北)では梅雨の集中豪雨は少なかった。そもそも北へ行くほど梅雨は明瞭ではなくなり、北海道まで行くと梅雨そのものがなかったはずだ。しかし最近は北海道でも梅雨らしい気候が長く続くのが常態化していると聞く。地球温暖化の影響で昔の気候帯が北上しているから東北の集中豪雨、北海道の梅雨化が起こっているのではないだろうか。

2020年7月26日日曜日

コニアイランド洗濯板



 二年前に封切りされた映画のこのシーンの曲に妙な懐かしさを感じたので、いったいなぜかとさぐってみた。だいたいワイのような歳になって懐かしさを感じるのは感受性の高い少年から青年期にかけて似たような音楽を浴びていてたぶん好ましく聴いたからだろう。この映画は最近作られたものではあるが50年代のニューヨークコニーアイランドが舞台である。映画の色づかいはあえて今風でなく、カラーが普及しだした50年代映画のようにどぎつくけばけばしい色になっている。死語となったが「総天然色映画」という言葉がぴったりするようなレトロな色調になっている。上記以外の他の挿入音楽も懐かしいスィングあるいはデキシーランドジャズであったり、また恋情が燃え上がるところではなぜかタンゴ(エル・チョクロだった)が流れていた。

 まず、上はなんちゅう曲か知らねばならない。大昔と比べ情報検索の文明開化が進んだおかげでググルとすぐ分かった。『CONEY ISLAND WASHBOARD 』日本語で言うと「コニアイランドの洗濯板」、なんか日本語にすれば不思議なネーミングだ。「ポルトガルの洗濯女」という楽曲が確か存在するがそういった意味(コニアイランドの洗濯する女)かしらんと思い、なおもググルの説明を読むと、洗濯する女という意味以上に洗濯板から発する音を楽器にみたてていることがわかった。。英語の歌詞を日本語に訳したものを下にあげておくと次のようになる。

[ヴァース]
海辺にとっても初々しい娘が住んでいた
一言すると彼女の可愛いいのは
洗濯板で音楽を奏でる姿さ
町のいたるところから人が集まって、彼女の演奏をきくんだ。

[リフレイン]
彼女が奏でるはコニーアイランドの洗濯板。
遊歩道で彼女の演奏を毎日だって聞けるよ。

石けんの泡だらけになり、地面には小さなしゃぼん玉
小さな盥からラブ・ア・ダブ・ア・ダブ、彼女には音楽が聞こえる。

小さな指抜きがはじく音で
洗濯しながら男の子たちに "チャールストン" を弾いてあげる。

新品のブルー・ジーンズの膝の間からは彼女の即興が聞こえる
ああ、コニーアイランドの洗濯板のラウンデレイ。

 全曲をヨウツベから共有して貼り付けておく (1926年発表)

アメリカの洗濯板をご存じだろうか、調べると日本の洗濯板とそう変わりがない(左の写真がアメリカの洗濯板)。とはいっても今、ワイの歳より若い(ということは70歳以下)人は洗濯板そのものを知らないだろう。わかりにくいが板にはゴツゴツした起伏のある波状の横筋が刻まれていて、ここに水と洗剤で濡れた衣服を押し付けごしごし手洗いするのである、手と洗濯板双方の摩擦や圧搾の力で汚れを落とすようになっている。電気洗濯機が普及する昭和30年代後半以前は大きな盥とこの洗濯板が洗濯の必須アイテムであってどこの家庭にも備えられていた。

 手と洗濯板でゴシゴシこすっても大した音はしないだろうが、歌詞を読むとこのお嬢さんは「指ぬき」をしている。その固い部分が洗濯板の規則正しく刻まれた波状の突起部分に当たると音楽の伴奏になりそうな音を出すのである。そういえばラテン音楽に使う「ギョロ」という楽器はそのような刻み目を棒でこすって音を出す楽器じゃなかったか知らん。大昔大阪の夫婦の漫才師で旦那は舞台でギター伴奏しながらヴォーカル、奥さんの方が花柄のムームーを着て太い体を醜く揺すりながら、このギョロをザッザッとこすってリズムをとり、アァィヤー、などと奇声を発しながら舞台狭しとドスドスと四股を踏むように右へ左へと跳ね回る漫才があった。そしてオチはそれを見た旦那が
「ねぐらへ急ぐダンプカー!」
とかいって笑いを誘って締めくくっていたのを思い出した。これもググルと「暁伸・ミスハワイ」の漫才師じゃった。この漫才師を知ってる人はワイ以上の歳じゃわ。漫才師のミスハワイはんは、ザッザッというギョロをこすりお笑いをとったが、コニアイランドで洗濯板をザッザッとこすって音を出すお嬢さんは、そのことによって、ブクブク泡立て洗濯をする可愛い娘、若い男の子のあこがれ、恋のロマン、そして軽快なチャールストンのリズムのイメージを醸しだす。

 そこまで考えが及んで、ようやくワイの懐かしさの源がわかってきた。そう軽快な「チャールストン」のリズムである。今の若い衆にとっては「チャールストン」はヒップポップダンスの基本ステップの基礎としてけっこう知られ、ヒプホプダンスの習得の一環としてそのステップ練習をしている。そんな現状から言えば「なんで70歳のジイヤンがチャールストンを懐かしがるんぞぃ?」といわれようが、ワイらの年代にとっては結構なじみのあるものなのである。

 感受性の高い子どもの時に感動したり、好ましく思ったりする曲は記憶に強く焼き付けられる。そうワイがまだ小学生の頃だ。その時の白黒テレビゴールデンタイムの番組はほとんどがアメリカのシリーズものドラマで占められていたが、その中で1920~30年の禁酒法時代を描いたドラマがあった。その時代はギャングの時代ともいわれる。ギャングや警察などと同時にギャングが出入りする華やかなクラブの踊り子にも注目が集まっていた。題名は忘れたがギャングかFBIが主人公のドラマだったと思う、その踊り子に「ピンキーピンカム嬢」というのがでてきた。題名は忘れてもその踊り子の名は覚えている。その踊り子(歌も歌った)が舞台上で踊り歌ったったのチャールストンだった。

 このチャールストンの踊りにはかなり衝撃を受けた。昭和30年代、徳島のド田舎である。踊りといえばゆっくりとした二拍子の阿波踊りか、運動会で無理やり踊らされる「お遊戯」くらいが踊りと思っていたのである。テレビを見ると影響されてすぐ真似たくなった。軽快なステップを踏みたくて見様見真似で足を跳ね上げ、体をくねらせ、手を大きく振り子のようにふった。今から思うと似ても似つかぬものでむしろ「一遍はんの踊念仏」とか「ミスハワイはんのお笑いギョロ伴奏踊り」に近かったんじゃないかと思う。

 猿まねの踊りに夢中になっていたため伴奏の「チャールストン音楽」には注意を払わなかったが自然とそのメロディーやリズムのパターンは耳にしみ込んでいっただろうと思われる。日本でもこれらのアメリカのテレビ番組の影響からかまもなく和製チャールストンの曲が流行した「五匹の仔豚」(昭和37年)である。こんな子供の時の経験が上記映画の挿入曲を懐かしくさせたのだろう。
 五匹の仔豚はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=5OcS4PhVGRs

2020年7月23日木曜日

仏さんの果物とは?

 暑くて汗をかく季節、おいしい果物は水分補給にもなるしバテ気味の体にはビタミン・ミネラル補給になる。いつもよりたくさん食べたいのはやまやまだが、果物はたいへん高い、スポツドリンクや炭酸飲料が100円そこそこなのに比べ、今が旬の水蜜桃、西瓜、そしてもう少しすると旬を迎える葡萄、梨、金瓜(今は○○メロンなんどと称する)などそれ一っちょ買おうとすると飲料のぺトボトルが5~10本も買えたりする。ワイの子供のころの感覚でいうと異常としか言えないが今の若い衆などは生まれた時から果物はかなり高額だったのでそれが当たり前と思っているのかもしれない。

 昔も夏の果物は西瓜、桃、金瓜、葡萄、梨だが、今のそれとはいわゆる品種が違う、かなり付加価値の高い(ということは見た目がきれい、大きい、甘い、水分が多い、味がマイルドになっていて、口当たりは大変良い)品種である。日本の果樹園芸が生き残るにはこのように付加価値の高い果物の品種にシフトせねばやっていけなかったのも頷けることではある。

 ワイが小んまい時の桃も葡萄も梨も、ごく近まの地元でとれたもので小さく、葡萄なんかは非常に小粒で紅褐色をしていた。梨も硬くて水分が少なかった。それだけに安かった。そのころのサイダやラムネ、ミカン水の瓶のほうがそんな果物よりはるかに高かった(それらの瓶一本の値段で小籠に幾つも盛った果物が買えたわ!)、西瓜の大玉だけは昔もそれなりの値段はしたが他の物価と比較してそんなに高くはなかった。

 昔のこれらの(古い品種の)桃、梨、葡萄、金瓜の果物は安くてワイらのおやつにもなり、また真夏の果物であったため仏壇におあげする果物として八百屋・食品雑貨屋(駄菓子屋も)の店頭にたくさん並べてあった。これらは水菓子として子供のおやつにもなったがまた「仏さんの果物」でもあった。

 近年、これだけ果物が高くなると頻繁には食べられない、でも果物は食べたい。汁気の多い甘い果物で安いのが見つかればよいが、ワイの好みの桃、金瓜(メロンと称する)はやすいのなんかない。それにひきかえ果物の缶詰は異状に安い。黄桃や白桃の缶詰が税込みでなんと98円、ドナツ型輪切りパイナップル缶詰が144円、どうしてこんなに安いのか。トラックで運んでいて誤って小便タンゴにドブンと浸かったので安いんじゃないかと思ってしまうが、そうではなくてこれらすべては輸入物である。いかに日本国内の果物が高いのかという証拠でもある。

 もうすぐボニである。小ンマイ時から仏壇に仏さんの果物をあげるが今年も例の果物をと思っていたが、最近、仏典をちょろっとオベンキョして意外なことがわかった。「仏さんの果物」でもっともふさわしいのは仏典では何かということである。仏典では桃でも梨でも葡萄でも金瓜でも西瓜でもない。仏典で聖樹といわれる樹木はいくつかあるがその中で果物がなる木はマンゴー、仏典では「菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅」と称する。つまり仏典を典拠に「仏さんの果物」といえばマンゴーとなる。

 そこで今年はマンゴーにしようかしらん、と考え、果物屋をのぞいてみた。宮崎産の太陽の卵、とかずいぶん大げさな名前の付いたマンゴーが並んでいた。大きさは林檎のデカいサイズである。それの値札をみておぶけた!3780円、超大玉西瓜より、メロンより高い。これじゃ、なんぼぅ仏さんの果物とかゆ~ても買ってお供えするのもビビるわ。

 それで思い出したのが、外国産の缶詰にすればずいぶん安いということ、果物屋でなく食品雑貨の量販店の缶詰部でマンゴの缶詰を探した。あった。値段をみてまたまたおぶけた!これが一缶98円、缶コヒより安い。下がそのマンゴの缶詰である。Doleとあるからわりと知られたメーカーである。小便タンゴに浸かったようなものではない。今年は安い梨、ブドウと並んでこのマンゴー缶をお供えしよう。

 マンゴの別名「菴摩羅」は仏典では人名、高級遊女アンバパリーと同名である。遊女アンバパリーはマンゴ林と関係しているところからつけられた名であろう。この遊女アンバパリーは「大般涅槃経」によれば仏陀の最晩年、涅槃への最後の旅の途中、彼女に説法し、彼女の供養を受けたとされている。その時、マンゴ林を寄進したともいわれている。後に彼女は仏教に帰依し、出家をとげ、当時としては珍しい比丘尼となるのである。彼女はマンゴ林に捨てられマンゴ林の番人に育てられたためマンゴと同じ名を持つという伝説もある。

2020年7月19日日曜日

三谷寺

 先月の28日のブログに鴨島の地表水という題でブログを書いた。鴨島を源流とする中河川の「飯尾川」と用水の関係についてが主なテーマであった。(そのブログ、ここクリック) その飯尾川であるが町内のいくつかの小河川を集めて飯尾川となっている。その支流の一つである「三谷川」という河川がある。その三谷川を今日は少し遡ってみた。

 呉郷団地の南東に四国山地の谷の一つから流れてきた三谷川が平地に出て屈曲しながら小扇状地をつくっているところがある。そこに一つの橋が架かっている。橋を渡ると三谷川沿いに遡り四国山地の谷川まで続くのである。下がその橋のたもとの写真である。

 橋のたもとには地蔵が立っている。上の写真で見えているのは御影石で作られた新しい石像であるが、その横に古い地蔵と光明真言塔がある。
 下の写真は正面から撮った古い地蔵と「光明真言塔」である。江戸時代後期にこの光明真言塔はずいぶん流行したらしい。信仰の石造物を流行したというのはおかしいいい方でもあるが、それほどこの時期、阿波の各村、いや集落ごとといっていいほどたくさん建てられている。だいたい百万遍唱えたというものである(光明真言については何度もブログに取り上げたが光明真言とはマントラ、おん、あぼきゃ、べいろしゃなぅ~、まかぼだら、まにはんどま、じんばらはらばりた、うん、で一遍である)、中には一億万遍唱えたという石塔(井戸寺の近く)もある。この真言塔は上部が欠けていてかなり傷んでいる。相当ふるいものかと思われようが文政年間の光明真言塔である。(今から200年ほど前)

 光明真言の功徳を説いた人で有名な人に明恵上人がいる。この人は鎌倉時代の人でもちろん真言密教の教義についても詳しいお坊さんではあるが、この人はまた古くから奈良・南都伝わるいくつかの流派の教義全般についても深い学識を持つ碩学である。強いて言うならその南都六宗の華厳宗に属するといわれている人である。この時代から光明真言の有難い御利益が説かれているが、大流行したのは先にも言ったように江戸時代後期になってからである。なぜ鎌倉時代にすでにありがた~~~い光明真言の御利益が説かれているのに流行ったのが江戸時代後期かについては、またいずれ調べてみようと思う。

 この橋を渡り100mほど上流に行くと三谷寺がある。もう50数年昔の話であるが、私が高校一年の時、ちょっとしたことでこの寺の御住職さんと知り合いになった。もう代も変わっているが寺の庫裏、鐘楼などの様子は半世紀前の姿をとどめている。前に流れる川が三谷川。

 半世紀以上前、息子さんはまだ若く、たしか役所に勤めていたこともあって、法要や盆の棚経回りなんかはお母さんが袈裟をきて勤められていたことを記憶している。もれきくともうその当時の息子さんのさらに息子さんの代になっているそうだ。
 門柱を読むと真言宗・東光山・三谷寺となっている。東光山とあるから御本尊は「薬師如来」さま(薬師如来は、東方瑠璃光世界にいらっしゃるので、東と光が薬師を連想する)と思ったが、後で町史を調べると御本尊は「地蔵菩薩」さまであった。

2020年7月17日金曜日

廃園になった遊園地は今

 今日、成人病検診の一つを受けてきた。受けたのは市内ではもっとも大きな総合病院である。ここは十年前(正確には平成23年)まで四国内では最も大きな遊園地であった。この遊園地は私が小学校の時はすでに存在していた。病院で検査結果を待つ間、遊園地の名残がないか散策してみた。

 病院前の泉のそばに旧遊園地のいわれ(来歴)の記念碑が立っていた。これによると完成したのは昭和6年とあるから私が生まれずっと前から遊園地はあったのである。この写真の人が二万坪の土地を提供し、私財をなげうって遊園地を作ったとある。昔の大分限者(おぶげんしゃ)には徳の高い人が多かったのだと感心する。

 でも名称こそ遊園地とついていたものの私が小学校の時は鉄棒やブランコのどの簡単な遊具と猿園、そして広大な庭園が広がるばかりで、前のブログで紹介したような大遊園地の風情はなかった。いつから遊園地らしくなったのか、この記念碑の横にある説明版に解説されていた。昭和44年四国博覧会を機に遊具や遊戯機械のそろった大遊園地の改変されたとある(そういえば今思い出した!この年私は高校三年、クラスの遠足で四国博覧会の会場を見学に来たわ)。これ以後「吉野川遊園地」となり、県内外から多くの子供や遊園地ファンをひきつけたのである。

 香川県まで見通せた大観覧車の跡地は今は駐車場となっている。

 遊園地の名残を探してみたが遊園地当時のものとして残るのは老木数本と写真にある桜並木・紫陽花、そして前の泉だけである。

2020年7月16日木曜日

梅雨明けはいつ

 断続・長短・強弱(夜のほうが多かったが)の差はあるものの毎日毎日降っていた雨も昨日くらいから曇りがつづく一日となり、ベトッとしていた湿気も幾分か下がったようだ。さらに今日はときどき薄日のさす天気となったため、何軒かの家は恐る恐るベランダなどで布団や敷物を干している風景が見られた。

 いつもなら梅雨明けの頃に開かれるのが京都・祇園祭だが今年は鉾・山車の巡行はない。ここ徳島蔵本の「ぎょんさん」も例年なら明日17日から例祭が行われ、露店の並んだ夜店などで賑わうはずであったが今年はコロナの影響で神事のみとなり寂しいものとなる。ここ四国の梅雨明けは例年18日頃だが予報では遅れて月末くらいになるようだ。

2020年7月14日火曜日

長雨がつづく

 これだけ雨の日が続くとうんざりしてくる。雨の日は決して嫌いではない。暴風雨などは論外だが、雨雲が厚く昼でも暗いような雨の日は、かそけき雨音以外は外の世界全体が静かになり、雰囲気がしっとりかつしめやかになるのは好きだ。室内で読書をしたり、あるいは大昔の名作の映画をみるのもいい。歳ぃいって心身の活発さが奪われつつある身には「瞑想」や「古代インドの正当な瑜伽(ヨーガ)」などをやって室内で時が止まったように固まっているのもいいかもしれない。(※古代インドの仏教徒は活動の制約される雨季には「雨安吾」と称して、屋内で瞑想したり、仏教について深く考えたようだ)

 しかしこの雨の日、あまりにも長く続きすぎる。さすがに雨好きの私でも、もうおこらぇなして!と言いたくなる。晴れ間もなく雨が続くため、室内のものまでべとべとしてきて不快である。他県や中国では大雨が続くため水害が起こっていると聞く、ウチの家の前の川の水際もだんだん上昇してきているが幸いに道路冠水まではまだまだ余裕がある。

 家の近くの水際公園には人口の河原があり7~8mの幅の砂利敷が水際まで続いているが川の増水ですっかり水没してしまっている。

 若干盛りは過ぎたようだがまだアジサイは雨にぬれて公園のそこここに花を見せている。アジサイは晴れの日より、雨の日のぬれた花のほうが目をひいて美しく見える。アジサイ(hydrangea)の英語名の接頭詞にhydr-(ギリシァ語で水の接頭詞)がついてるだけのことはあるなと思う。高地にある大川原高原(佐那河内)では今、アジサイの群落が真っ盛りとニュースで報じていた。

2020年7月13日月曜日

遊園地の観覧車

 私の知り合いがある小さな遊園地で遊具の係のアルバイトをしている。土日祭日だけの勤務らしいがなかなかきついらしい。遊園地でも劇場小屋でも人に夢を売る商売は客にとっては楽しいものだろうがそれを支える現場の裏方の苦労は大変だろうと思う。キツクて給料も安いのが相場である。

 最近、DVDの映画を見た。制作はごく最近だが映画の設定は1950年代のアメリカ、ブルックリンのはずれ海岸近くにある大きな遊園地の中にあるレストランの中年女のウエイトレスが主人公である。かなり年上の夫は遊戯機械のメンテナンス係である。50年代を再現したような映画の強烈な色彩、それに色どられた全盛期の「遊園地」は表面上は夢見るような世界である、しかし裏では世俗にまみれた人間ドラマが展開する。その展開に合わせて50年代のスィングジャズやタンゴがバックミュージックとして流れ、ドラマを生き生きとしたものにしている。

 それに影響されたのだろうか急に「遊園地」がなつかしくなってきた。実はわが町には十年ほど前まで四国の中ではかなり大きい遊園地が存在したのである。しかし大規模な遊園地は時代遅れとなったのか、またこんな田舎に大遊園地はふさわしくなかったのか、客の減少が続きとうとう十年前の夏に終焉を迎えた。その最後の夏の一か月間、感謝セールとして入場料が無料となり開放された。その時惜別のブログを作っていた。(その時のブログ、ここクリック

 そんなブログを見ているとますます遊園地に行きたくなった。この歳で遊園地もないだろうと思うが、無性に遊園地に行きたいという思いは募るばかり。わが県には今、ごく小規模な遊園地が徳島動物園に隣接してある。入場はフリーなのでそこでもいいと思い立って知り合いも誘い昨日行ってきた。年寄り二人が遊具でたわむれるのはおかしいが、唯一「観覧車」なら別に大人二人が乗って眺めを楽しむには不思議でもないし、現に大人だけで観覧車に乗る人も多くいる。昨日は曇りだが雨も上がりさわやかな微風も吹いているので遊園地に入場し観覧車に乗ってきた。

 植物園から見た観覧車遠景

 ホントに小さな遊園地だが、定番の回転木馬(メリゴウランド)と観覧車がある。

 観覧車ゴンドラから撮った動画

 昭和30年、家にはまだテレビもなくもちろんゲームもない時代である。楽しみは限られていた。そんな時代、子供にとっての遊園地は、言葉では言い表せないほどの楽しみであり喜びであった。初めて行ったのは昭和30年代ごく初期ということしかわからない。父親に連れられて大阪の親戚を訊ねたついでだったのだろう大阪にある遊園地に連れて行ってもらった(今となっては大阪のどの場所かもわからない)。初めて見るそこは全くの異世界であった。日常では決して見ることのない変わった建物が建ち並んでいて、けばけばしいがちょっとうっとりする様な色にいろどられたお伽の世界であった。極彩色のカンバンには心ひかれるもののちょっと恐ろしいような人の顔が描かれていたりする。あれはピエロを描いてあったのだろうか。

 あまりにも小さかったためか、しびれるような愉悦に浸されていた感覚は覚えているが、不思議にも具体的にどの遊戯機械に乗ったのかは思い出せない。回転木馬にも観覧車にも乗ったはずだが記憶がよみがえってこない。唯一思い出せるのは「でんぐり返しの部屋」というアトラクションである。客が部屋に入り両端にある長椅子に向かい合って腰を下ろすようになっている。書割で部屋の壁に窓とか額縁、家具などが描かれてあった。今から思うと床とそれに固定された椅子が一体、そしてもう一体の箱型の部屋の壁と天井は別々に回転するようになっていたのであろう。やがて父親と一緒に並んで座ると部屋がブランコのように前後左右に揺れだした。そのうちに壁や天井が別の揺れ方をするようになったと思う間もなく、我々の座っている床・椅子が真っ逆さまに回転し始めたのである(今から思うと感覚器官の錯覚ではあるが)、私は恐怖にかられ叫び声をあげた。泣いていたのかもしれない。部屋の動きが止まって外へ出た後、嘔吐したのも覚えている。

 そんな恐ろしいアトラクションの記憶を含んでいるのに、そこはこの世ならぬ極楽のような世界であった。子供心にも、ああこんな素晴らしい世界があるんだと大きな衝撃を受けた。できれば「こんな素晴らしい世界で永久に暮らせたらどんなにかいいだろう」とおもったものである。そのことが強烈に記憶に刻まれる一方、おそらく同時期、別の感情も芽生えていた。子どもにとって天国のような異世界に対する羨望と同時に恐れである。

 それはなぜだろうと考えてみた。ウンと小さいころの子供の記憶に浮かんでくるのは、遊園地・サーカス・曲馬団という一連のある恐ろしいイメージである。いったいどこの誰がそんなイメージを吹き込んだのかはわからないが、そこに登場する悪魔は子供専門の人さらいであった。子どもをさらったあと監禁し、毎日、酢を飲ませ体を柔らかくし、ムチかなんかでたたかれて芸を仕込まれ、見世物に出すのである。確かにこの時代、手に負えない悪い子供に「悪いことしよったら曲馬団に売るぞ」と脅すことはあったようだが、そんなことを漏れ聞いてそのことが影響していたのかもしれない。

 もう少し大きくなって絵本を読める頃になると、遊園地・サーカス・曲馬団などにうつつをぬかすとどうなるか、絵本の挿絵とともに蘇ってくる記憶がある。それは『ピノッキオ』である。ピノッキオは遊び好きの子供である。毎日遊んで暮らせる「遊びの国」へ行く馬車に嬉々として乗ってしまい、遊びの国に行って楽しく暮らしたピノッキオはどうなったか?やがてロバの耳が生えてきて、最後にはとうとう本物のロバになってしまうのである。ロバになったピノッキオはもはや遊びの国にはいられず、死ぬまで重い荷を運ぶ苦役に従事させられてしまう(この後さらに冒険は続くのだが)。子どもごころにもこれは遊び呆けた報いだとわかった。

 そんなこともあってか、おぼろげながらも遊園地などに対するエクスタシーはホンのチョッピリ味わうもので持続してはいけないもの。永久に続く快楽は恐ろしいしっぺ返しをもたらすものと思ったものである。

 こんなことを書くとそれからの私はピューリタン的(禁欲、清廉)な人生を目指したのかと思われようがまったくそんなことはない。大きくなるにしたがって現実がわかり、楽しい世界の裏も見えるようになり、最後にはそれらはすべて虚構だと思うようになった。したがって子どもの時のような恐れも抱かなくなった。しかし同時に夢見るようなあこがれの異世界も消えてしまった。

 下の動画は前世紀遊園地が最も栄えた時のアメリカの大遊園地の一コマ、大観覧車や水平にくるくる回る遊具がみえている。そうそうちょっと面白いような怖いような不思議な顔が大写しで現れている。
 

2020年7月9日木曜日

鮎喰川増水

 ここのところずっと雨の日が続いている。雨の降り方として特徴的なのは今回の雨は日中は小康状態を保つが夜~未明にかけて大雨になる傾向があることである。梅雨の期間中だから雨の日が多いのは当たり前だが夜に集中して降るのはなぜだろう、たまたま重なったためか、なんか他にも理由があるのだろうか。地球温暖化の影響で気候の常識が次第に変わってきているのでその一環かもしれない。

 下は鮎喰川鉄橋のようす


 このあたりではよく鵜やシラサギが川魚を狙っている。シラサギは増水で流れがあるのは苦手だが、鵜は増水で流れがあってもペンギンのように潜って魚を捕る。下は川の護岸にいた鵜。

2020年7月6日月曜日

山まで下りてきた乱層雲

 南九州の方では集中豪雨で多くの人的被害も出ているがウチラの地方では数日前からずっとじとじとジメジメ降る梅雨特有の雨が続いている。先ほど南の四国山地の方を見たが低く垂れこめている乱層雲がさらに乱れて(?)下におりて漂い、山霧のようになっている。雨は今、止んでいる。気象庁の天気予報もなかった大昔、古老はこのような天気現象をみて明日の天気を占った。山霧は二通りの解釈がある、一つは晴れる直前に山に層雲の一部が切れて漂う時、いま一つはたっぷりと水分を含んだ大気がさらに雨を降らせる予兆の山霧である時、さて昔の古老だと今日のような山にかかる雲をみて明日の天気をどのように判断するだろうか。
  ちなみに気象庁の予報ではまだ数日このような天気がつづくと報じている。

2020年7月4日土曜日

今日は7月4日、徳島では

図書館のカウンター近くに30冊くらいの本(パンフレットではない、最後まで読むと154pもあった)が平積みされて置いてある。確か前日はなかった記憶がある。横にご自由にお持ち帰りくださいと書いてある。左の本がそうである。表題は「語り継ごう、徳島大空襲」である。内容は徳島大空襲を受けた人の体験談を書いてある。

 パラパラとめくるとおよそ50人の空襲当時の恐怖の体験談が載せてある。目次にはその人々の現在の住所と名前が並んでいる。ふとその名前の一人を見るとなんと私の小学校6年生の時の担任だった人の名前と同じである。同姓同名もあるので住所を見ると私の住んでいる町となっている。その体験談を読むと間違いないことを確信した。その先生は若い時軍隊に入っていていろいろな訓練を受けたことを教室で話されていた。防毒マスクの使い方とか、実際に催涙ガスを使って訓練を受け、装着が甘くて涙や咳が止まらず困ったことなど面白く話してくれたのを思い出した。体験談には空襲当時は蔵本の連隊で訓練の隊長をしていたことが書いてあり、そのことからも間違いなくその先生である。昭和37年の頃、39歳だったので、昭和20年の体験談の年齢ともあっている。恩師の名前を発見したこともあり、その冊子を頂いて帰った。

 154pもある冊子であるが非売品で発行者は「徳島市」となっている。今の時点から見ると徳島大空襲は75年前であるが、この冊子の発行日は平成23年となっている。空襲から数えると66年経過している。おそらくこの平成23年頃が空襲の体験談を集められるギリギリのタイムリミットではなかったのかと思う。それからさらに9年、戦後75年もたった現在、令和2年になると体験した人もほとんどは鬼籍に入っており、原稿を集め編集するのも難しいと思われる。まだ多くは読み進んではいないが、原稿は当人が原稿用紙に文章を綴って寄稿したものばかりでなく、聞き取ってもらって文章にしたものもあり、生々しい貴重な空襲の体験談となっている。

 そして私がこの冊子を手に取ったまさにこの日、7月4日は徳島大空襲の罹災日だったのである。その日に合わせて図書館にこの無料の冊子が置かれたのであろう。75年前のこの日の午前0時を過ぎたころから空飛ぶ要塞といわれた戦略爆撃機B29の編隊による焼夷弾投下の波状攻撃を数時間にわたって受け、徳島市街は阿鼻叫喚の焦熱地獄となったのである。正確な数は不明であるが約1000人の人が亡くなったといわれている。夜が明けると徳島市の大半は焼失していたのである。

 体験者の多くが亡くなった今、このように冊子にして体験談を後世に残すのは大切なことであると思う。しっかりと読ませていただきたい(さっき35pまで読み進んだ)。この体験談を寄稿した私の恩師、生きていれば97歳だ。成人してからのち、同窓会にも参加せず、あえて恩師の消息も聞かない不義理を重ねてきたことが恥ずかしい。小人は歳ぃいくと恥多し、というがホンマやな。

2020年7月1日水曜日

今日はモラエスさんの命日

 中洲から東新町を自転車でぶらついた。中洲の市場も東新町のアーケド街も驚くほど衰退している。アーケド出口からいつも利用している佐古の駐輪場に向かうため、今日は寺町を通って佐古へ抜けようと思いつつ、なにげに寺町のあるロープエイ下の方へ自転車の方向をきったとき、まったく突然に思い浮かんだのが、「あ、今日は7月1日、確かモラエスさんの命日じゃ」である。ロープエイ下公園のモラエス石碑で確かめると、間違いない今日はモラエスさんの命日である。

 ロープエイ下の横にある潮音寺にモラエスさんの墓がある。お数珠や経本(コンパクトサイズなのでいつも持ち歩いている)も持っていたので境内の墓地に入り、参拝し手を合わせた。誰もいなかったが命日なので新しい香華が手向けてあった。なんか短いお経をと、観音経偈か般若心経を思いついたが、大乗仏教や哲学にも造詣が深かったモラエスさんには般若心経の方がふさわしいと考え般若心経をおとなえした。