2021年11月30日火曜日

晩秋最後の散策

  ここのところの朝夕の気温の低下、寒い風にさらされていると初冬の雰囲気だが、昨日は山の紅葉・黄葉を求めて山を散策したのであえて晩秋の散策としたい。

 幸いなことに風もなく日中はたっぷり陽のさす穏やかな天気だった。歩いたのは以前にも行ったことのある徳島市入田の山寺「建治寺」である。県道沿いにある入田郵便局横から入る登山道を歩いて約一時間余りの散策である。


 以前来たときは鐘楼の横の紅葉の色が際立ったいたのだが、時期を外したのか、それとも今年の気候の加減かあまりさえた色ではなかった。


 ご本尊は金剛蔵王権現さまであるが、四国三十六不動尊の寺でも有名で、本堂の上り口にはお不動さんの眷属・波羅波羅童子がお迎えしてくれている。


 この童子横を石段で降りると広場になっており、不動尊石仏の前で柴燈護摩の儀式が行われる。


 開けた山の中腹に(頂上に近い)あるため眺めがよい。徳島平野とその真ん中を流れる吉野川が見える。


 少し東に視界を向けると徳島市内が見える。蛇行して流れる鮎喰川も見えている。


2021年11月23日火曜日

二人の遭遇

  寂聴さんが亡くなった訃報を聞いて、追悼の念もあり、何かを読もうと思ったが小説はちょっと敬遠するものがあったので、徳島に関する「随筆集」を読んだ。その随筆集の中に意外な記事を発見した。よく私のブログで取り上げていたあのモラエスさんと寂聴さんは遭遇していたのである。モラエスさんは徳島に住んだ外国人(当時は異人さんと呼ばれていた)ではあったが、生まれはポルトガルで1854年、日本でいえば嘉永7年、まだ江戸時代である。寂聴さんは生まれは1922年、大正11年である。同じ徳島の文学者と言いながら、時代が70年近くも違うため、交流はおろか遭遇もなかったものと思っていた。しかし彼女の随想文、題は「青い目の西洋乞食」として、彼女が小学校一年の時の思い出としてモラエスさんとの遭遇の話を書いているのである。

 モラエスさんは享年75歳、昭和4年・1929年になくなる、寂聴さんは1922年生まれ、最晩年に逢ったと思われるから彼女は7歳になるかならずである。当時、モラエスさんは伊賀町の長屋に住んでいた。対する彼女はまだ小学校一年生、家は今とほぼ同じ位置西大工町の仏具店である。校区は新町小学校、モラエスさんは伊賀町の実家から追慕の女性だったおヨネ、コハルの墓のある潮音寺に詣でるのが毎日の日課だった。潮音寺は今のロープウエイのある阿波踊り会館のすぐ横である。伊賀町から眉山山麓の道を真っ直ぐとると新町小学校を抜け、墓のある潮音寺に着く、ということは新町小学校に通う寂聴さんとまさにクロスする。当時としては珍しい外人さんである。毎日通うモラエスさんを見ることは幼い子供の好奇心をそそったに違いない。男の子はからかい囃したてたようである。毎日のように墓参するモラエスさんには何回もであったであろうが、寂聴さんは初めて会った時の印象を次のように述べている。

蝙蝠の低く飛ぶ晩春の黄昏時、モラエスさんは墓参りの帰り潮音寺の土塀のどこかから出てきたのであろうが、幼い私はまるでその人が地の底から湧いて出たように感じた。その異様な姿に(ドテラを着てデンチュウを羽織り、鳥打帽をかぶり、アイヌの長老のような髭モジャだった)、たぶん噂は聞いていて「西洋乞食」という言葉を思い浮かべた。大きな体のその人は放心したように、ゆっくり歩いていた、息をつめて見つめている私には気づかず、青い目に物悲しい色をたたえ、歩き続けていた、年老いた異人さん貧しげな姿が物哀れであり、歩くのに思わず手を取ってあげたいようなはかなげなものを感じた、つけていった私に気づくふうでもなかった、そして小学校を通りすぎ瑞巌寺の門前までついていった、そこは伊賀町へ曲がる横丁がある、そこでふっと、異人さんは振り返った、ぎょっとして立ちすくんだ私に目をとめ、じっと青い目で見つめたが、私が泣きそうに力んでその顔を見つめていると、にっこりして、ふかくうなずいた、何か言いかけたが、私は急に怖ろしくなって、身をひるがえし、我が家の方へかけ戻った。とある。

 寂聴さんとモラエスさんの遭遇したときは昭和4年の晩春である、ということはモラエスさんはそれから二ヶ月もたたず自宅で孤独死を迎えている。(孤独死が発見されたのは7月1日である)徳島の文豪二人のはかないつかの間の遭遇であった。

 白塀に囲まれた墓地が潮音寺のおヨネ・コハルの墓のあるところ、塀の終わるところを右に曲がれば新町小学校、そして伊賀町へと続く。


 下の写真、山へ向かって進めば潮音寺、左へ行けば新町小学校の道、その角の小公園にモラエスさんの記念碑がある。小学校一年生の寂聴さんが潮音寺から出てきたモラエスさんに逢ったのはこのあたりかも知れない。この後方の大通りを少し左に(紺屋町の方へ)進むと今も(寂聴さんの里)瀬戸内仏具店がある。


 寂聴さんの作品はただ一つ、時代小説で鎌倉時代の宮廷の女性が書いた古典・日記文学「とわずがたり」を基にした「中世炎上」を読んでいただけであった。たった一つしか読んでない作品で彼女の文学全体を評価するのはどうかと思うが、その作品は私には強烈な印象を与えすぎて、そのほかの作品は読む気がうせてしまった。むしろそれに刺激を受けて原典ではどうなっているのだろうと、古典文学「とわずがたり」のほうに興味が出て、そちらのほうを読んだ。「小説・中世炎上」で強烈な印象を与えたのは性的な描写であった。小説の最後のほうにある、かっては愛し愛された人の末期の病床の場面の描写である。

 臨終の院(上皇)が二条の手を取り、「さ、別れをしてやっておくれ」と(院が二条の手を)夜具の中に引き入れていく、二条はされるままに手を寄せていくと、柔らかな小鼠のような手触りの懐かしいものに触れた時、院の頬にあるかないかの微笑がさした。そして翌日、院は崩御するのである。

 柔らかな小鼠、とは男性器(チンポ)のことである。チンポを鼠に例えるのは一つの例を除いて知らないが、三島由紀夫の小説の中にその一例がある。三島は、水死したネズミのような性器が股間にぶら下がっている、との比喩を用いているが、これはどちらかというとみじめな男性器の描写であろう。しかし寂聴さんの描写は同じネズミでもものすごくエロティックな表現となっている。女性から見た愛しい男性のチンポは「柔らかな」「小鼠のような」「手触りの懐かしい」ものである。私も大胆な性描写の小説を読んだりするが、それはほとんどが男性の作家である。小説中、女性の立場に立った性描写にしてもそれは現実には決して女性の肉体にはなれない男性作家が想像して書いたものである。だから女性作家によるこの描写は真実味がある。彼女の男性遍歴、性の経験がこのようなうまい表現になったのだろう。

 女性作家によるそのような性的な描写を別に嫌悪したわけではないが、どうも寂聴さんの小説は私には向いていないと思い、そのあとは読んでいない。

2021年11月19日金曜日

徳島公園の晩秋

  徳島公園の下にみえる芝生広場、様々な種類の木が植わっているが、真ん中に銀杏の木が一本ある、上部はかなり葉を落としているがそれでも真っ黄色に色づいている。この場所、春はこの銀杏の老木の横にある豪奢な枝垂れ桜の満開が目を楽しませてくれる。


 この反対側の藩祖の銅像のある周りにも銀杏の木が数本ある。こちらはまだ落葉も本格的ではない。晩秋の黄色味を帯びた陽光をうけて、見事な黄金色に輝いている。


 少し近寄ると、プゥ~~ンと強烈な匂いが鼻をつく、畑にまく肥しと同じ匂いだ。知る人ぞ知る、これは銀杏の味が熟して落ちて、それから香ってくるものである。近寄ると下一面隙間もないびっしりとその実が落ちている。踏みつぶしながら近寄るのをためらう。

 しかし、銀杏の実ってにおいの元である果肉を洗い落とし、硬い外殻を割ると翡翠色の柔らかい実が得られる。これ、すごくおいしく、貴重な食材となる。ごくたまに茶碗蒸しなどの底でお目にかかり一粒たべるが、殻付きの実を炒って供せば、ピィスタチョやアモンド、クルミなど以上に素晴らしい酒のあてのナッツになるのだが、ここではそんな銀杏の落下した熟実をとって食材にしようという人はいないのか、落下した実が絨毯のように広がっている。やはり実の匂いに辟易するのだろうか、そういえばほかにも素手でこの熟実をつかむと手が荒れると聞いたが、ともかく食材にするには厄介なのだろう、採取する人は今のところいない。銀杏は雌雄異株であるため、最近は街路樹には雄の木を植えているそうだから、実をつける銀杏も減っているようである。

 そうそう、永井荷風さんの小説を読んでいて知ったのだが、この銀杏の葉っぱ、本に挟んでおけば紙魚(紙を喰う害虫)の予防になるということだ。予防効果はともかく銀杏の落ち葉は柔らかく、あまりない扇形をしているので、葉として栞に用いるのはなかなかいいと思う。

2021年11月14日日曜日

徳島市図書館の街角散歩ツァーに参加して

  毎年一度しかない上記のツァーに参加した。二年ほど前にも一度参加したことがある。その時の主題は、モラエスさんと徳島城跡、だった。今回は「興源寺界隈を訪ねて」である。いつもは定員15名なのだがコロナ下ということもあり10人に絞っていた。

 興源寺は阿波の藩主蜂須賀家の菩提寺であり、代々の墓がある。説明ガイドはボランティアの人である。藩祖から順に説明してくれたが、だいたい知っていることばかりだった。


 興源寺へ行く途中にある神社や寺も説明してくれたが、その中で私が全く知らなかったのがこれ、「お七延命地蔵尊」。お七はご存知の八百屋お七である。江戸の娘だが何のゆかりでこの徳島に?と思ったがガイドさんの説明によれば、義理の母親が阿波の人だったところから万福寺境内に供養の意味で作られたそうである。ただ昔からのお七地蔵は(銅製だったのだろう)戦争中に供出させられ、下にみるお七地蔵はその後再興されたものである。


2021年11月12日金曜日

初冬の風情

  三日前は宵から未明にかけて時雨とは思えぬほどの大雨となり、渇水期にもかかわらず江川も鮎喰川もみぎわまでまけまけ一杯に流れている。しかしその後、一昨日も昨日もそして今朝も天気は時雨もよい、日が射すかと思えば曇り、雨もパラパラ、まことに初冬らしい定めなき天気となった。

 初冬を区切る行事といえばわが徳島では昔は(ワイが20代のころ貞光あたりの山のほうではまだその行事があった)「おいのこさん」がそれにあたる。旧暦10月の最初の亥の日である。子どもが各家をイノコ槌を手に回り、お菓子などをふるまわれる行事である。これは欧米のハロウィン祭りに似ている。時期もよく似ている。初冬を区切るといったが江戸時代はこの日(神無月の亥の最初の日)はまた「こたつ」を出す(開く)日でもあった。欧米でも万霊節(ハロウィンの翌日)が済めばもう冬の到来と思われたのであるから、まさにハロウィン=おいのこさん=冬の到来であったわけである。ただ近年おいのこさんはほぼ絶滅してしまったため、強いて考えればハロウィンが初冬の到来の区切りとなる。

 今年の旧暦10月の最初の亥の日(昔のこたつ開き)はいつか調べると今年は太陽暦では昨日となっている。ワイんくではもう先月の中ごろから唯一の暖房具ホットカァーペトを出しているから今よりも寒かった江戸時代にはずいぶん寒くなるまで暖房なんどは我慢したのである。

 江戸時代だけでなくワイの子供の時はまだ「炬燵」という暖房器具があった。何やら難しい漢字だが旁は巨と達でキョ、タツと読み、あと扁が「火」だから、そう覚えば書くことも難しくない。この「炬燵」は今の人がコタツという言葉を聞いてイメージする暖房具とはおそらく違っている。ワイの(70歳以上)年齢くらいにならないとおそらく「炬燵」は正しくイメージされない。

 子供のころジイチャン、バァチャンの寝床の布団の中にはこのようなものがあった。

 我が家のものとはちょっと違っているがおおむねこのようなもので間違いない。中の素焼きの円筒には灰が入っており、その中に木炭というより、消し炭の「燠」(おき)が半ば灰に埋もれて入っている。そして四方が開いたカワラケの容器に入れ、それを布団にいれ寝るときの暖房にするのである。

 そしてこれに木枠をつけ、布団を被せれば置き炬燵となり、座って下半身を温める暖房器となる。いま電気コタツはこれが原型となる。したが昔の本来の「置き炬燵」

 しかしこれを使ったのもワイの小学校低学年ころまでで、その後は床を真四角に一段下げて、底部に練炭火鉢をいれ、練炭の掘り下げコタツとなった。またジイチャン、バァチャンの寝具の中も豆炭アンカから、すぐ電気アンカとなった。しかし練炭の掘り下げコタツはワイが高校を卒業するまで使われ、そのあと電気コタツとなった。



時雨降るとき、コタツでゴロンと横になりうたたねするのはまことに気持ち良い。歌舞伎あるいは文楽で有名シーンで「時雨の炬燵」(心中天網島)というのがある。はっきりしない意志の弱い男が時雨の炬燵の中でグズグズしているという設定だが、何となくわかる気がする。(左図は文楽より心中天網島・時雨の炬燵

 時雨降る中コタツでウトウトしていると子どもの時、やはりコタツでうたたねしていた時の気持ちの良い感覚がよみがえってくる。そんなとき60余年の時は須臾の間であったような錯覚を覚える。祖母の「そんなところでうたたねしてると風邪ひくでよ」という声が聞こえてきそうである。時雨とはよく言ったものである。「時」が雨のように降るのであろう、降りこめられたコタツのなかでつい昨日のように甘い子供の時の夢を見る。

※ 数日前、気象庁が南米沖でラ・ニーニャ現象(海水温の異常)が起こったと言っていた。これが起こると日本の冬は寒冬、多雪傾向となると付け加えていた。久しぶりに昔の冬らしい冬となるのか。

2021年11月4日木曜日

季節感

  うす曇りということもあろうが日中の弱日を見ていると季節は晩秋に向かってすすんでいるんだなあと思う。しかし気温は高いようで、外を歩いても秋冷が身に染みるということはない。昨日、市内で映画ロケ地周りをしたがシャツ一枚になっても汗が出てきた。これも地球温暖化の影響なのだろうか。

 桜は黄や赤の病葉となりかなり葉をおとしたが、まだ紅葉と落葉の季節には早いようである。曼殊沙華が咲いた時から感じていたが季節はどうも遅れがちになっているようだ。その一つだろうかキンモクセイの香り始めるのが今年はずいぶん遅いような気がする。花は小さくて目立たないが強烈な芳香はキンモクセイが咲いたことを強く意識させる。昨日ロケ記念碑のそばでも強く匂っていた。やはりすぐそばに丈の低いキンモクセイが小さな花をたくさんつけていた。

 モクセイは主に香りでもって人に官能的に作用し、どちらかというと魅惑的な気分をもたらす。これと反対に視覚では舞い落ちる枯れ葉などを見ると秋の哀愁というかモノ悲しさをそこはかとなく感じる。嗅覚と視覚では秋の雰囲気がずいぶん違う。(マッタケなどに食欲をそそられるのも嗅覚である)。では五感の中でもう一つ重要な聴覚はどうか?秋といえば虫の音を思い浮かべる。しかしどうしたことか、最近はコオロギの鳴き声をとんと聞かない。歳ぃいってコオロギの音に老化した耳が反応しないのだろうか。それとも環境の変化の影響だろうか。

 哀切をおびたもの悲しいコオロギの音は晩秋の寂しさを一入感じさせるものであった。子どもに詩心はわからなくともなんとなくわびしい気持ちになったものである。小さいころの我が家は陋屋と言っていい住まいであった。障子はいたるところ破れ、土壁も部分部分が崩落し、壁土が落ちたところから竹の格子がみえた、また開放的な縁の下もあって、家じゅう隙間だらけだった。そのため夜、家の中でもコオロギの音を聞いた。寝ていてリーリーとなくコオロギの音は、夜が深々と更けわたりほかの物音が途絶えるなかよく聞こえた。日中でも雑草に覆われた家の敷地のそこかしこでもコオロギの音は聞こえた。深まりゆく秋にここを先途と鳴くのだろうか。一年に満たないはかない命の終わりはもう迫っている。

 有名な秋の詩に ポール・ヴェルレーヌ/訳:上田敏 『落葉』がある。

秋の日のヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 ヰ゛オロンとはバイオリンのことであるが、コオロギの哀切を帯びたなき声を聴くとヰ゛オロンとはコオロギの音ではないのか、とこの詩を思い出す。秋のヰ゛オロンの音はコオロギの音にふさわしい。

 今日、私の親しい人が手術を受ける。遠く離れ何にもしてあげられないがせめてお祈りをと、滝のお薬師に手術の無事と病気平癒をお願いする。お参りする前後、パラパラと雨が通り過ぎた。仏様の大慈大悲の涙雨か、願いをご受納くださった徴であると思っている。

2021年11月3日水曜日

昭和16年・徳島を舞台にした映画のロケ地を回る

  昨日、県立図書館の視聴覚ライブラリで昭和16年制作(マキノ雅弘監督)『阿波の踊子』という映画を見た。時代劇で、徳島ではおなじみの阿波十郎兵衛が家老の悪巧みによって処刑された後、その弟が阿波に帰ってきて家老を討つ話である。しかしお堅い勧善懲悪の筋ではなく、若い娘の恋情あり、道化たキャラの滑稽なシーンもふんだんにあり、また映画の最後のクライマックスは怒涛のように踊り狂う阿波踊りがあり、その踊りの渦の真ん中で仇が討たれる。その踊りのシーンはけっこう長く、これでもか!というくらいたっぷりと阿波踊りを見せてくれる。この映画の野外ロケのほとんどが当時の徳島で撮影されている。映画の徳島城下は江戸時代の町並み設定ではあるが、実際は80年昔の徳島の町並みをそのまま使っている。

 昭和16年4月にロケをした、ということはこの年の12月に真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まるからその直前である。戦争前だからまだこのような娯楽性の高い時代劇が作られたのであろう。野外ロケが多いが、当時の市街地の家はまだ藩政時代の情緒を残す木造の町屋である。しかしこの時の徳島の市街は約4年後の徳島大空襲でほぼ焼けてしまっている。それとともに藩政時代を髣髴とさせる町屋も消滅してしまった。今、時代劇の町屋のシーンで、町並みがそっくり使えるところは脇町のごく一部の通りくらいのものだろう。現代の徳島の市街地をそのままに時代劇なんどは撮影できるはずもない。しかし、戦災前の徳島市街地では違和感なく時代劇の町屋の野外ロケができるところがあちらこちらに存在したのである。

 能書きたれはこのくらいにして、それでは市街地の野外ロケシーンを映画から見てみよう(一部ではあるが)

 

 橋のシーンが二か所出てくる。同じ橋を別のアングルから撮ったのかと思われようがよく見ると橋の形態が違っている。最初の橋は平橋であるのにたいして次に出てくる橋は真ん中が高くなる太鼓橋である(曲率は緩いが)。

 さてそこで今日はこの橋のあった場所を探して町をうろつくことにした。もちろん80年も昔の橋が今残っているはずもないが、川や山まで消滅したわけではなく、この二つの橋のあった場所には今でも新たな橋があるはずである。

 手掛かりは遠くに見える山である。川は護岸工事をしたりして岸やあるいは流路も少し変わるかもしれないので当てにはできない。そこで80年たってもまず変わらぬ山の形をみてロケ場所を特定することにした。最初の橋の向こうに見える小山はどう見てもこれは城山に間違いないということは助任橋か?さっそく行って眺めてみた。

 助任橋北詰より


 似ていそうだ、すると一つ目の橋は助任橋か、次に福住橋に行って城山の方を眺めたがビルの陰で城山が見えない。


 次に福島橋の方へ回った。途中には護岸の松並木などがあり、松並木の近接シーンだと今でも時代劇のロケ地として使えそうだな、と思いつつ、松並木の尽きるあたりまで来るとこんな石碑があった。

 なに!「阿波の踊り子」と彫ってある。これって昨日見た映画の題じゃ!裏を見ると


 な、な、なんと!昭和16年ここでこの映画のロケをした記念ではないか。ということは上の二つの橋の一つは昔の福島橋である可能性が高い。映画のシーンではこれ


 しかし福島橋に立ち城山の方を見るがビルにさえぎられて城山が見えない。


 ググルマップの立体図で福島橋あたりの上空から城山を見ると下のようになる。


 城山の形の見え方からしてまず最初の橋は福島橋に違いないと思った。じゃぁ二つ目のこの橋はどこだろ?


 わからないので、ここで橋めぐりは中止して図書館へ帰り、文献で昭和16年のロケ地を調べてみた。するとこのロケの阿波踊りは福島橋と徳島橋の間で行われたとある、え?徳島橋?聞いたことない、どこにある橋やろ?徳島橋を調べると、聞いたことのないはずである。この橋どころかその下を流れる川ともども消えてしまっていた。つまり大規模に埋め立て川の流路全域が無くなっていたのである。その川の名は『寺島川』、下図のように流れていた。見えにくいが文化センター・青少年センターの裏にあるJR牟岐線の線路がほぼ寺島川にあたる。そして中洲市場あたりで新町川と合流する


 徳島橋は青少年センターから鉄道線路の跨線橋を跨いで市役所に行く陸橋のあたりにあった。いまその跨線橋の上に立ち、眉山を眺めるが、ドデカい市役所ビルに隠され眉山はほとんど見えない。


 徳島橋があったあたりからググルマップな鳥瞰図を見るとこのようになる。遠景に見える眉山の左になだらかに下る稜線が二つ目の橋のバックにある山の形と似ているように思う。

2021年11月1日月曜日

本日の雑感

 新聞を買いに走ったこと

 普段、新聞なんど銭がもったいないので購入しない。ニュスなんどはテレビのBSデタバージョンで文字を読めば済む。しかし今日は総選挙の結果も気になって、朝、駅のスタンドに全国紙を買いに走った。しかし買って損したわ。よく考えると当たり前の話やが、今日の朝刊は日曜日の選挙結果が最終確定する前に締め切って印刷される。だから最終結果をもとに分析され、論評を加えた記事は載っていない。締め切りの深夜となれば概ねの傾向は出ているものの、それに基づいた論評しかしていないので、今日買うべきではなかった。明日にすればよかった。そのためもあって今朝の朝刊の(某全国紙)見出し記事を見ると、今朝BS文字放送の最終結果を見た私のリアクションとは違和感がある。

 見出し、自民過半数を維持、これは事実としてまぁそうだろう、立・共の共闘一定の効果!やと!糞ごじゃぶらぁぬかすな。途中結果を見ても共闘してへっとるやないかぃ!「一定の」っつうところにこの新聞の見出しをかいた人の小ずるさが表れている。確かに、例えば10ある事例のうち1つでもあれば、そりゃぁ、10のうち1でも一定といやぁいえんこともないが、この特定野党(RM党)は自民党とおんなじくらい減っている。だから母数の比率からすれば減少率はもっと高い。ワイの客観的に見るところ

「自民党に国民はやいと(灸)をすえる。特定野党(RM党)にもやいと(灸)をすえる」

 がもっとも客観的な見出しとなるのじゃないだろうか。

信念の人

 供託金没収となった。本人も覚悟の上だろう。一世一代のプロパガンダ活動となったのだから本望かなぁ。銭がもったいない、というのはワイのような小物の俗人だろう。わざわざ彼に入れようと投票所へ足を運んだ人が2000人近くもいた。ごく小さく等級も低いが彼にとってはこれが立派な「勲章」であると思いたい。

とんぷく薬

 一昨日の深夜、辛抱できぬことはないがそれでも安眠できない持続的な腹痛に襲われた。臍の下あたりだから下腹部というのだろうか、激痛でないにしても深夜のこのような腹痛はホントに心身を言いようのない暗い状態に落ち込ませる。対処方法は漢方胃腸薬を飲み電気毛布で寝床を暖かくする以外ない。しばらくするとムカつき、それと便意を催してきた。それからは水様の便が出だし、トイレを何回も往復するようになる。

 食あたりのような症状だ。昼に食べた握り寿司がいけなかったのかしらん、上に乗ってる鮭、ホタテ、牡蠣フリャァ、のどれかがが怪しかったかのなぁ。

 次の日は日曜、どこも病院は開いとりゃせん、日曜診療の特定病院もわが町にあるにはあるが、症状もおさまったことでもあり、売薬で済ますことにした。といっても医師でも薬剤師でもない私である。適切な薬はわからなし、薬剤師に相談しても、医師の処方でなければ購入できなくすりもある。でも実はそんなことは言い訳で、すでにもう買う薬を決めていた。そして店が開くと同時に購入した。その薬は

 「征露丸」

 ワイの小ンまいとき、腹痛、下痢など必ず飲んだ薬である。もちろん常備薬で家に常備しているボール紙で作っている引き出しの四角い薬箱にそのほかの頓服薬と一緒に入っていた。最新の「征露丸」は昔のようなウサギの糞様ではなく糖衣錠に包まれているためあの独特のニオイもない。その服用が効いたのか腹痛もおさまり、ヨンベは再発することなく眠れた。

 昔の頓服薬は一年に一度回ってくる売薬行商が置いていったこんな段ボール紙の薬箱に入っていた(ワイの子どもの時の記憶と色は違うがこんな形、素材の箱だった


 あ!それで思い出した!先日、文化の森博物館の特別展で「お札コレクション」展示があったが、まじないのお札とともにこんなものもあった。これお札とともに配る、あるいは売られていた昔の薬である。

 (10月24日やまさん撮影、文化の森博物館)


 独居老人の深夜の急な腹痛、それも持続して去らないのはどれほど不安をかきたてることか。今だといざとなりゃぁ、救急車という最後の手だてもある。しかしこのお札が生きていた時代、そんなものはない。医者も緊急にはまず呼べるところは少ない。医学の未発達と相まって、急性の病気の死亡率はも今より段違いに高かった。高熱、腹部の激痛で夜中にそのままなくなる人も多かった。そんな中で薬売りの置いていった常備薬「薬箱」は頼りにできるものであった。中身はやはり、発熱の頓服薬、腹薬、肩こりの外用薬、痛み止め、それと赤チンなどである。

 昔にさかのぼるほど、これらの薬の効き目も怪しいものである。大昔は西洋医薬はなく漢方や民間療法の薬草やエキス分で作られたから劇的効果は期待できない。しかしそれを補うものとして、まじないの護符があった。一昨日の深夜の腹痛、痛みももちろん取り除いてほしいが、なにより心細さ、言い知れぬ不安など、が軽減されればと願ったものである。

 昔は信心深い人が多かった。上記の写真のようにお札とともに配られる「萬金丹」だの「だらにすけ」などは神社仏閣そのものが薬を調剤するか、その関係者が作ったものである。その神社仏閣の宣教者である御師や山伏のもたらすこれらは、薬効だけでなく病気平癒という信心の加護の御利益(心理的なものであっても)もたらしたのである。薬効以上に心の不安を平らかにするものであった。しかし不信心者が増えた今日、この薬のこのような効果は期待できない。