2012年1月31日火曜日

はるかに遠いランウェイ


 今日は気温は低かったが風はなく、快晴の天気だったので自転車でちょっと遠乗りをしました。

2012年1月30日月曜日

夜空のペェイジェント


 今夜、まだ遅くなく、月が出ているのなら夜空を見上げてみてください。

 月のすぐそばに遊星が異様に接近しています。多分、木星か土星じゃないでしょうか。

 「月と遊星の異様接近、なんかあるのかな。悪い前触れでなければいいが。」

 暗くなってすぐウォーキングに出たら、7時前、西には異様に明るい遊星が、金星かな。そして天空には半月とそのそばにぴったりと別の遊星が。
 東からはすでにオリオンの平家星、源氏星、三連星(みずらぼし)が上がり、地平からはそれを追うように恒星中第一等の明るさをもつシリウスがあがってきていました。夜空は

 「美しいペィジェント」

 霜枯れて地味な野山と対照的な冬の夜空、自然の妙ですね。

イヤー・オブ・ザ・ドラゴン


 今年は辰年。辰は龍とも竜とも書かれ、想像上の生き物である。我がとしちゃんがドラゴンのオリジナルイラストをアップすると言ってましたが、旧正月もすんだけどなかなかお目にかからないので拙劣な出来栄えながら、やまさんオリジナルの竜のイラストを作りましたのでご披露いたします。
 
 なにやらグリーンイグアナとゴジラ、河馬、豚などのDNAが混ざったような怪しげな生き物が出来上がりましたが、もともと「竜」は想像上の産物、まあこんな空想のイラストでもお許しください。

 東洋では十二支といって年年に固有の生き物を当てています。今年は竜(辰)になるんだけど、12の動物を配した中でも竜だけ特別です。他の動物は古代中国(華北)に身近にいた動物です。しかし竜だけは唯一想像上の産物です。

 古代中国人に聞けばなんでこんな動物を作り出したのかわかるでしょうが、今となってはもっともらしい説をあれこれ推理するしかありませんね。

 しかし、近代以前の日本人に限って考えると、見たこともない空想上に近い動物は、十二支の他の動物にもいました。

 まず虎、日本列島には有史以後虎などはいませんでした。中国古典で虎は百獣の王ということは知っていましたが、見たこともない動物。想像を働かせる以外ありませんでした。
 虎は江戸時代の日本画に好んで取り上げられましたが、いかんせん、日本の画家の誰一人として見たことがないので空想で描く以外ありません。そのため、何とも、面白い、日本風の虎が出現しました。高名な画家、例えば、狩野なんとか、という絵師でも今の我らから見れば

 「なんじゃ、こりゃあぁ!」

 怖くもなんともない吹き出すような虎が描かれています。
 一説には仕方ないので「トラ猫」をモデルにしたとか言われています。猫をモデルにしたんじゃ、いくら同じネコ科といっても迫力など出せないでしょうね。

 そして羊、これも明治以前の日本にはいませんでした。長崎のオランダ人が持ち込んで、初めて江戸両国の見世物小屋で高い見料を取って興行したくらいの珍しい生き物。一般の人はまず見たことがなかった。当時は羊のことを織物の綿を取るので「綿羊」(めんよう)と呼んだ。初めてこの不思議な生き物を見た江戸の人は

 「はてさて、綿羊とは何とも面妖な生きものじゃわい」

 といったとか。

 羊には、綿羊、そしてもう一つ呼び名があります。それは『羅紗緬』(らしゃめん)、羅紗(らしゃ、毛織物)をつくる綿羊という意味でしょう。
 この羅紗緬、もう一つの意味があります。それは幕末、日本に来た異人相手に夜のサーヴィスをする女を軽蔑的にこう呼びました。「唐人お吉」も「ラシャメン」とののしられています。
 なんで羊の意味のラシャメンがこのような女性の罵りになったのか?
 それは先にオランダ人が船で長崎に持ち込んだと言いましたが、なんでそもそも船に羊がいたと皆さん思います?

 「えっへっへへへ」

 とやまさんの下卑た笑いで勘のよい皆さんはもうお分かりかも知れませんね。当時の帆船、何か月も大海原を港によらず航海します。もちろん女など乗っていません。元気のよい海の荒くれ男ども、性処理を我慢できるはずはありません。まあ、自家発電という手もありますが、そこはそれ、なんといっても「触覚」がちゃあいまんな。
 で、お羊さまが必要なのです。

 江戸期の長崎の人はそんなことはとうにご存じ、だから異人相手の性処理の女をこのような蔑称で呼んだわけです。

 って、なんで真面目な主題から出発しても最後はこういう下オチになるんかなぁ~、反省します。明日からは清く正しい主題のみで通します。

 最後は美しく、江戸の日本画の主題として盛んに取り上げられた

 『竜虎相対の図』

 でしめたいと思います。迫力ある竜と虎、天空と陸の王者両者のにらみ合い、縁起物でもあり、気力を鼓舞するものでもあったんでしょうね。まず本物の竜虎図、ネットから引用しました。
 
 そして私のオリジナル

 (モトさん見てますか、これモトさんちのトラですよ~)

2012年1月29日日曜日

ねこやなぎと触覚


 五感といわれている。官能の歓びの元となる。五感無くして歓びを味わえる人はいるのだろうか。お経の文句、あるいはキリストの恩寵を思っただけで法悦に浸れる人はもしかしたら五感のような低次な官能無くして歓びを味わえる人かもしれない。

 ところで五感とは、官能の歓びに浸りまくっている高校生に何ぞや?と聞いて5つとも答えられるであろうか、ちょっと疑問に感じる。最近は倫理社会(哲学、認識論の初歩を含む)の教科も選択と聞く、感覚器、知覚、認識について学校で教えることもないのかもしれない。

 五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚そして触覚である。それぞれに大切な感覚器であるが、日本人そして若い人は最後の「触覚」をあまり重視していない。

 そりゃそうだ!やたらと触覚の官能の歓びを求めて触りまくれば、猥褻罪や痴漢罪でひっ括られる。もちろん外国でもそうだが、日本人と違うところはあちらは、握手、そして親類や友となればキッス、抱擁などは何ら不自然ではない。
 日本人と似ているといわれる韓国人は親しい友になれば抱擁したり、肩を組んだり、別にホモでなくても大の男同士が友情の表れとして手をつないだりする。

 人との愛情やつながりを確かめ合うのに世界の人々は「触覚」に頼っている部分が大きい。しかし、日本人は過度の潔癖症もあってまず、親類、友が触覚で確かめ合うなどということはない。親子でさえ幼児期を除けば触覚の付き合いはなくなる。

 あらゆる認識においても触覚は日本人の重要性からなくなっているように思う。

 今日、列車を待っていた。駅には係りの人が活けた花々の花瓶があった。それに目をやると、今の時期なので「猫柳」の枝が挿してあった。

 「ねこやなぎ」、そう美しい花木ではない。若い人の中にはなんでこれが猫柳なの?といわれる方もいよう。単にその形を見て機械的に、「これが猫柳じゃ。」と覚えなければならないのだろうか。
 そんな若い人たちには触ってみて欲しい。でもいったように今の若い人は触覚を嫌う、まして見知らぬものなどには触れようとしないかもしれない。

 触れれば一発で何で猫柳なのかわかる。
 まるで子猫ちゃんのようなつるつるしたビロードのような毛ざわり、気持ちよく、しばしの間撫でたくなるような何とも言えない心地よい指触りである。可愛い猫の

 「ミニュニャ~ン」

 という声まで聞こえてきそうである。猫毛の柔らかい尻尾を愛撫している錯覚に陥る。

 花々、花木は主に「視覚」、「嗅覚」で愛でるものであるが、この「猫柳」はその鑑賞の感覚が珍しく触覚が主である。

 このように現代日本、そして若者にずいぶん貶められている触覚だが少し考えると、実はこの触覚は官能の秘奥部分をつかさどっている。
 え?「官能の秘奥」なんのこと?

 「皆さん!あけすけに認め合いましょうよ。」

 秘奥部分の官能の歓びとは、すなわち性交そしてそれに至る愛撫行為のことに他なりません。もちろん触覚以外の4覚も与ってはいますが、触覚が大部分であります。
 現代社会では最も重視されている「視覚」はこの秘奥の歓びに関する限り、さほど重要ではありません。「性的極快感」すなわちエクスタスィーでは暗かろうが、いや縦令(たとい)明るく、そして目は見開いていても登り詰める快感でモノは見ておりません。ひとえに触覚のみです。

 性交の感覚(すなわち触覚)は、ただ薄い皮膚や粘膜がこすれ合うだけかも知れませんが、この触覚はいわく言い難い不思議な触覚であり、それがすべてではないにしても愛し愛される官能の極上部分であり、それを求めて人は行動するといってもまんざら言い過ぎではないでしょう。

 いかに現代日本人や若者が触覚を軽視しようが厭おうが、人の官能のもっとも奥深い部分の大本をこの触角がググッと握っていました。だから、今の人が、対人とできるだけ物理的距離をおき、人に触れないように、そして、自分のモノ以外は触らず、もし触ったら神経質に除菌ナプキンで拭く様な風潮が蔓延していても

 「所詮は人と云えど官能の動物、極上の秘儀は見えない個室で、触覚を最大限に駆使し、駆使させられ、しているもんじゃ」

 と思っていました。

 しかし、この私の認識、これからの世、そして若い新人類には当てはまらなくなるかもしれません。私にはそのようなことちょっと想像の埒外ですが、愛し合い、そして縦令同棲してもなんと、セックスレス、すなわち、濃厚な触覚なんどは一切なし。体液の交換などとんでもない!とこのようなライフスタイルが出現しているのだそうです。とは一流週刊誌で読みました。

 「ああ、日本人、そして若者の触覚を嫌う生き方はここまで来たか!」

 ちょっとショックです。結局、五感はもっとも低次(と思われている)の「触覚」から消えていくんですかね。

 でも、これも進化かも知れませんね。天上界に暮らす「天人」の愛のやり取りは犬のような交尾からは(人の究極行動の性交中の動きもこれと変わらん!)程遠いもので、天人同士ちらと目配せしただけでセックスが完結するそうです。味気ないような気がしますが触覚などは全然使いませんから、今の方向で人類が進化すればこういう愛し合い方になるんでしょうね。

 ねこやなぎの子猫ちゃんの尻尾のような気色のよい芽をつるつる撫でながらこんなことを思うやまさんでした。

2012年1月28日土曜日

早春の花々 つけたり・オジンミュージシャン


 我が町のショッピングセンターへ行った。入り口の横には花屋さんがあって(そういえば最大規模の夢タウンも入り口横に花屋がある)入り口付近にはみ出して鉢、移植用のポットに入った春の草花を販売している。
 目も彩な色彩の多彩乱舞、いいですね。
 買もしないのにあれこれとじっくり鑑賞させてもらいました。
 色とりどりできれいな花が多い。私は実は早春に出回る花に強い好みがある。もちろん早春の花々それなりにきれいなのだが私の「zest」な花は2つ
 『サクラソウ』
 『すずらん』
 である。鴨島ではここは大きな花屋さんだから、当然あるだろうと、ゆっくり花々を見ながら探した。
 最近の花屋さんで見て思ったのだが、上のように一種類の花を鉢、あるいは移植用のポットに入れて売っているのもあるが、下に見るように小洒落た鉢・それを包むバスケットにまるで盆栽のように色とりどりな何種類もの花を植えて、一つのまあいわば花々の宇宙を作っている。
 小さくコンパクトにまとまっていて盆栽好みの日本人の趣味に合いそうである。
 
 「いいなぁ、私も買おうかな」

 でも数千円!見るだけにしておきます。
  
 で、ずっと見て回りましたがお目当てのスズラン、サクラソウはありませんでした。そのかわり西洋サクラソウ、一般的名はプリムラがありました。
 語源学で考えるとプリムラは英語のprimeと同じと思われます。意味は最初の、とか第一の、極上、でありますが、ヨーロッパの寒い冬が明け早春に一番に咲く花からプリムラと名づけたんでしょうね。

 桜草は純潔の日本土着の花、江戸時代品種改良で数百種が作り出されましたが、可憐で地味な花の為か最近は花屋になど置いてないんですね。残念です。
 ネットの辞典から写真を引用しました。こんな花なんですね。
 
 スズランも日本土着の花(もっとも栽培種はドイツ種なんだけど日本種と変異はほとんどない)、谷間の百合とか君影草ともいわれる。これも辞典の写真です。
 まあ私好みのこんな可憐で小さく目立たない花は花屋では商品にならないんですね。

 派手な花に隠れて濃紫のヒヤシンスを見つけました。そしてまたアポロンの連想が・・・・・・・・・ 
 ギリシャ神話ですが、百聞は一見に如かず、ごちゃごちゃ説明するより、アポロンとヒヤキントス(これが亡くなってヒヤシンスの花になるのだが)の主題のある絵画を見てもらいましょう。
 嘆き悲しんでいるのがアポロン、死んでいるのはヒアキントス少年です。もう主題はお察しのように最近は少女漫画でも解禁されもてはやされている美青年同士の愛であります。ギリシャではどうもこれを至高の愛と見ていたふしがあるのです。後のキリスト教倫理ではソドミィといってもっとも忌むべき罪なのですが。

 夜8時過ぎ、徳島駅前でストリートミュージシャンがギターを抱え歌っていました。前にはチップの小銭入れの缶と説明パネルが置いてあって、読むと、なんと61歳のオジンミュージシャン、私と変わらぬ年齢で、徳島でストリートミュージシャン!ちょっと感動しました。何によらず年齢を言い訳にして
 「歳がいったからそんなことできんわ。」
 などといってはいけませんね。生きている限り、チャレンジはできますものね。
   写真は携帯で暗かったのと両方でぼやけてます。

2012年1月27日金曜日

さんぱつや今昔


 私が行っているところの散髪屋は安い散髪屋のチェーン店である。薄利多売を狙っているのであろうか。1400円では儲けもあまりないであろう。
 また昔からある個人営業の散髪屋さんはセット料金で3400~3600円はするからこんな安い店ができれば客はそちらに奪われ、やはり、儲けは減少するだろう。
 結局、どちらも厳しい経営がつづくのである。

 我が町の個人理髪業の店は多くが高齢者であり、跡継ぎも弟子もいない。また、今日いったチェーン店にしても年金をもらいながら稼ぐような高齢者が多かった。というのもこういうチェーン店は人件費を抑えるためかなり低い日当で雇われているのである。年金をもらっていなければやっていけないような給料なのだろう。
 だからこういうところの従業員は賃金労働者であり、また個人営業の店にしても、昔からやっているため高くても来てくれる少数のお得意さん相手に細々とやっている。

 昔はそうではなかった。散髪屋さんは技術を持った「職人」であった。このような職人さんは例えば板前さんは包丁一本、散髪屋さんはハサミ一丁あれば、世渡りできる立派な職業であった。その中で散髪屋さんはみんな当時は個人営業で、一国一城の店主である。誰からも使われず、独立してやっていける職業として敬意を払われていた。
 もちろん店を開けるだけの技術を持った職人になるには、当時でもまだ散髪業界には徒弟制度のようなものがあって、若い見習いさんなんかはごく安い給料で修業を兼ねて住み込みで働いていた。

 私が中学を卒業するころ、進学せずに散髪屋を目指す生徒が何人かいたが、みんな徒弟制度の見習い住み込みであった。でも胸には『将来は店主になる』という目標をみんな持っていた。
 親のすねをかじり高校へ行く生徒に比べ、徒弟として住み込みで働きながら立派な職人そして店主を目指す15歳は本当に立派だったと思う。

 今、若い人で徒弟、いやそんな呼び方ではなくても、親方の元で修業をして、技術を持った「職人」を目指す人がいったい何人いるだろうか。遠からず、そんな若い衆は絶滅するのではあるまいか。

 世界には多くの国がある。その中で『職人』が尊敬され、立派な技術を持った『名人』が最上の社会的地位として認定されている国はそう多くないが、日本は昔からそのような伝統のある国であった。(中国・韓国は職人は卑しめられる職業であり、社会的地位はずっと低かった)
 名人の刀鍛冶は、大名と同じ受領名(河内守、近江守)をもらい尊崇を受けていた。
 日本とドイツは世界に誇ってよい「職人の国」であった。

 しかしその職人の国もいま滅びようとしている。我々も悪いのである。職人の技術や芸を評価せず、安ければよい、大量生産の既成でよい、ごちゃごちゃした人間関係のやりとりより自動販売のシステムが良い、合理性、廉価を求めた結果である。

 賃金労働者となって分業であくせく働く散髪チェーン店の従業員、そして一日にⅠ~2人しか来ない高齢者の個人理髪店を見ながらそんなことを思った。

さんぱっちゃ

 今日、二ヶ月ぶりにさんぱつした。1400円の安いところで。髪がウンと少なくなっているのでカットのみで10分余りでもう仕上がり。
 これがそうです。
 60歳の男性の髪としたら薄いほうでしょうか。やはり歳がいっても髪はふさふさしていた方がいいですね。
 小泉元首相なんか私よりずいぶん年上だけど驚くほど多い白髪である。また私より3歳も年上の篠田三郎なんかは禿げておらずロマンスグレーなので私よりずっと若く見える。

 私も若く見えるためそろそろカツラにしようかな。

 で、いろいろな若く見えるカツラを試してみました。

 最後は歌舞伎風のカツラです。さあ、どれが一番似合うでしょうか?

2012年1月26日木曜日

アポロ似~ゥスの曲線


 この間からアポロ(これはローマ神話名でギリシャ名はアポロ~ン)という名をたびたび用いているような気がする。そして今日、「放物線」という言葉を目にした。
 人と頭の回路の配線が違う私は「放物線」からアポロを連想した。ただしアポロでも「アポロニウス」実在の古代ギリシャの数学者である。

 高校で習った数学をちょっと思い出してほしい。「円錐曲線」ってどこか記憶に残っていませんか?え、そんなん知らん!失礼しました。ちょっと図示して説明します。

    楕円            放物線              双曲線

 円錐の底面に斜めに切り落とせば断面は「楕円」。そして円錐の底面を切る形で縦に切れば「双曲線」、山の斜面の(母線)に平行に切れば「放物線」になるというものである。
 アポロニウスはこの曲線を見つけ、幾何学上の定義をしたわけである。

 「なんだ、それだけのことか、たいしたことないじゃん」

 とおっしゃるかもしれませんが紀元前3世紀に見つけたこの曲線、のちのち、すごい威力を発揮することになるのです。ケプラーが現れ、円と思っていた遊星の運動は実は楕円だったり、初速を有する物体の落下は実は放物線だったのをガリレオが確かめたり、と、この曲線なかなかの(くせ)もののなのです。(ってこの洒落わかりましたか?)

 このアポロニウスの曲線、大宇宙の運動とどうも同調してますね。

 さてここからはやまさんのいつもの妄想宇宙論の始まり始まりです。

 しんさまのブログに宇宙(個の命も進化の行く末もおなじこと)は「放物線」をたどる、とありましたが、全くあり得ることでやまさん、深くうなずいております。この軌跡はある意味最も自然な形と思われます。
 先ほども述べたように「放物線」は放り投げた石の運動であります。静止した手に持たれた石を宇宙の始めとしますと上方に投げることにより放物線を描き飛んでいきます。石の高度を宇宙の広がりと仮に考えますと、膨張を続けた宇宙は極大値を迎えやがて縮小に向かい、地に落ちた時、0になりすべて永遠に終息します。誕生→成長→極値→衰退→死、という生命と同じ宇宙論でこれによればもちろん一回きりで終わります。

 これがまず第一の宇宙論です。あと2つ考えておりますが、御推察の通りあとの2つはアポロニウス曲線の「楕円」、「双曲線」になぞらえるものです。

 まず楕円です。楕円の一種とも考えられる円は始点終点が明確ではありませんが、楕円の場合長半径の2点を始点、終点とすることができます。楕円は閉じた曲線でありますから始点から始まり宇宙が展開を続けて終点が来てもそこがまた始点となり、永遠に展開→衰退を繰り返すことになります。これは地球の「四季」と同じで枯れる冬を迎えても再び芽吹く春を迎えるのと似てますね。宇宙もそのようなものであってもおかしくはないでしょう。繰り返しのある宇宙になりますね。

 そして双曲線宇宙です。イメージとしては永遠に終わりのない展開が待っています。膨張を始めた宇宙は終わりなく広がり続けます。

 「終わりがないから一番いい。永遠に存在できていい。」

 と思われるかもしれませんが、無限の時間の果てとは実は恐ろしいものなんですよ。我々物質を構成する原子核の中の陽子、中性子の寿命は非常に長くはあるけど有限です。途方もない時間の果てにそれは崩壊します。そしておそらくすべての素粒子が崩壊し、最後は光子(フォトン)のみが恐ろしく広がった宇宙空間に薄く分布します。
 しかしそれでも永遠の時間からすれば序の口、いくらでも広がる宇宙、やがて無限という中にその光子も溶け込み、結局、極限まで(双曲線が極限までくれば漸近線に限りなく近づく様に)くれば限りなく「無」に近くなります。
 永遠に広がる宇宙とはそのようなものです。

 今、わかっていることは宇宙が膨張していることです。ということは将来これらの3つのうちどれかをたどることです。もっとも膨張途中で、バ~~~ンと突然破裂して全く違った位相に入るかもしれません。それはわかりませんが、普通に考えられることはこの3つのどれかではないでしょうか。

 どれであっても最後は物質など存在できそうにないですから、まあ一緒ですね。というより自分の寿命の短さを考えれば宇宙の最期を心配するなどはまさに「杞憂」ですね。

 この中ではほうり上げた石が放物線を描くような宇宙が私は一番魅力的です。なんといっても人の一生に似てますものね。始まりがあり、最高点があり、落ちて、最後は大地に返り、永遠に静止。放物線宇宙の場合、面白い宇宙も存在するかもしれませんよ。
 放物線は上方へ水平方向のベクトルも持って放り投げられます。だから最高点に達して落ち始めるとき(すなわち宇宙の収縮)前と同じ軌跡は当然たどりませんよね。
 ところが水平方向ベクトルを小さくし、垂直(真上)方向を大きくすると非常に縦長で細い放物線になります。そして水平方向のベクトルを0にすると、すなわち真上にほうり上げると直線となって最高点に達した後、同じ軌跡をたどり落ちてきます。
 もし我らの宇宙がこのようなものであれば、(そうあって欲しいが)、宇宙が収縮に転じたとたん、まるで映画のフィルムのコマを逆にまわすように今までたどった宇宙の動きを逆に正確にたどって宇宙は収縮するのです。
 永遠に会えないと思っていた愛しい人とフィルム逆まわしですが、再び会え、死んだ親は生きかえり、そして年寄りの自分は若くなって赤ちゃんになり、最後はお母さんのおなかに入る・・・・・・
 考えるだに楽しいではありませんか。

 実際に宇宙が収縮に転じたとたんこのような逆まわしの宇宙もあり得ると昔、なんかの本で読みましたよ。

謎に満ちて宇宙は広がる。アポロニウスの曲線が謎を解く鍵と・・・・・・やっぱならないか!

2012年1月25日水曜日

みなさんのところはどうですか


 いま午後4時半すぎ、少しの間吹雪くような雪でまわりは真っ白になりました。

 今日は夜のウォーキングできるかな。

 それにしても腹が全然減らん!夜ごはんはよほど遅くならないと食べられない。

お昼にさっそく行ってきた


 今日、田宮のツタヤに返すCD,DVDがあったので、昼ご飯は、先日、ブロガーで紹介のあったカツ丸に食べに行きました。

 まだ11時半前だったのでご覧のようにお客が少なかった。

 かつ丼でも様々なメニューがあり、私の好みのソース丼にちょっと食指が動いたが、ソースは結構店によって癖があるので、初回はもっともオーソドックスな「かつ丼」にした。

 若くてほっそりした清潔そうなお姉さんが目の前で、パカッと卵を割って、かつ丼のかけ汁を作ってくれる。

 このかけ汁の混ぜ方、そして火の通し加減、けっこう難しいんだよね。生卵を完全に混ぜてはいけないし、また、火の通り過ぎは卵が熱で凝縮してもっともよくない。半混ぜ状態で白身は卑猥な感じの半濁白色のどろっとした状態、黄身は色つやがもっとも鮮やかになる状態の半固体がいいんだよね。

 まあそういう観点から80点だけど、美人のお姉さんの手際に感心して15点上乗せで95点、ほぼ最高点であります。


 量が多いと聞いていたので当然シングルにしましたが、シングルでもその量にびっくり仰天


 洗面器にかつ丼を踏み込んだくらいありました。食べても食べてもなかなか減らない。おいしいんだけど、さすがに量が多く、最後は残したらもったいないという気持ちが強く、何とか食べましたが、一年分のかつ丼を食べたような気になりました。

 でも今度はソース丼を食べたいと思いました。それにしてもこれをダブルで食べる人はすごい!

 今日のお昼は「たらふくまんま」でした。

丼ぶり考 

 「かつ丼」って、だれが考案したのか知らないが庶民階級のすごい発明だと思う。明治に西洋料理のカツレツ(ポーク)が入ってきたのだが、当然、これは上流階級の高級料理、明治の文豪の、え~っと、誰だったかな、漱石か鴎外、忘れたけど、カツレツを食べて、「こんなにうまいものがあるとは!」と大感動してそれから西洋料理ファンになったという話を聞いた。
 まあ、庶民なんかは、食べられない高嶺の料理だった。
 皿にのせ、独自のソースをかけ、付け合せ、生西洋野菜を添えるものであった。フォークとナイフで食べる御華族さまのモノだった。

 それをどんぶりにのせ「かつ丼」にしたのは西洋料理にあこがれてもおいそれとはレストランなどで食べられない庶民の知恵であった。
 カツレツは西洋料理、みりん醤油味の卵かけご飯は和食、「カツドン」はこの二つの料理をを合わせた明治大正の庶民が産んだ和洋折衷の新料理であった。

 とはいえ私などの子供時代、青年期などはこの徳島にあっては結構な高級料理、大衆食堂で食べれるにしてもちょっとリッチな食べ物であった。
 どんぶりものでは親子丼が一番安く、昔は、(今だとちょっと信じられないが)鰻丼かそれ以上の値であったことは確かです。

 どんぶりの中には面白いものがありました。私が学生の時行っていた超安の学生食堂では一番安いどんぶりでコロッケ丼がありました。ご飯に千切りキャベツをふりかけ、その上にあげたての大ぶりのコロッケを載せ、とんかつソースをかけただけのもの、でも、おいしかったよ!
 私がソース丼に思い入れがあるのはその味の体験があるからでしょうね。

 でも今やかつ丼は高級品でもなくどんな貧しい人でもみんな手ごろに食べられるものとなりました。

 「ああ、刑事さん!私がやりました。」

 と自白した憔悴しきった犯人に、うなづきながら、刑事が

 「そうか、よく言った!まあ、これでも食って腹ごしらえせえや!」

 といって留置した犯人に出すのは大概「かつ丼」、って、テレビドラマの見過ぎかねぇ~。

 しかし、日本人のどんぶりモノに対する探究はすごいですね。どんぶりといえば今言ったように庶民の安い食べ物というイメージなんですが、進化し続けるどんぶり、北海道でウニやらいくら、カニなど贅沢な海の食材の入った『特選北海海鮮丼』なんかはン千円。西洋料理のちょっとしたコース料理が食べられる値段。
 最近はどんぶりもピンキリってことか。

 なんかごちゃごちゃ冗長に書いて、おいしかったかどうかはっきり言ってないような気がするので、言っておきます。
 「大変おいしかったです。質もいいですが量が半端じゃないです。値段も安く、500円余で食べられるのがいいですね。」
 いいとこご紹介くださってありがとうございます。また安くてうまい店があれば紹介ください。

2012年1月24日火曜日

南の国に思いをはせる


 赤道直下、太平洋の島々、いいだろうな。行ったことを妄想するだけでも暖かくなる。

 ネットを引いたおかげで素晴らしい赤道下の海の写真がすぐ手に入る。見ながら熱帯の楽しみを思う。

 この国、みんなあまり知らない。しかしダイビングをする人にとっては世界に残された綺麗な海の最後の楽園のような国。

 『パラオ共和国』

 なんでやまさんの妄想の思い入れが強いか。それは昔、ここは日本の国だったのです。

 「え、うそ~、赤道直下の南海の楽園がなんで日本なの?」

 とほとんどの人は思うでしょうね。でも本当なんですよ。昭和20年まで日本は「帝国」だったんです。日本は植民地を持ち、その中に多くの民族、そして寒帯から熱帯までその版図を有していたのです。
 今、北の方にある植民地だった「朝鮮(韓国・北朝鮮)」そして「満州(中国東北部)」の人々は、日本の植民地だったことにすごい恨みを持っています。ことあるごとに非難されます。
 でも日本の南の方の植民地だった「台湾」、「南洋諸島(パラオ他3か国ある)はなぜか恨み言は言いません。むしろ非常に親日的なんですね。
 南の人のおおらかさでしょうか、それとも日本人の祖先は南から来た人が多いから南の人が親近感を感じるのでしょうか。

 日本の国は相当寒いはずなのに、昔の日本人は「ふんどし一丁」という人が多かったのです。駕籠かきなんかは時代劇では上品にごてごて着てますが、あれはほとんど嘘。よほど寒い時を除いてふんどしが正装です。幕末、日本に来た欧米人がこのふんどし姿が多い日本人に眉を顰めています。
 このパラオにいる民族も正装は大人も子供もふんどし。なんと昔の日本人に似通っていることでしょう。
ふんどしが共通項で親日的なわけでもないでしょうが、今でもこの国の人々と日本人は極めて相性がいいのです。
 大統領は「ナカムラ大統領」、日系の子孫です。国旗は
パラオの国旗見てわかるように日章旗をネガにしたもの。きれいな海と、こちらは太陽でなく月を持ってきています。
 なんか徹底して親日的ですね。どびつこく日本の植民地だったことをいつまでも根に持つK国やC国とはちゃいますね。
 
 「魚心あれば水心あり。」

 でやまさん、行ったことはないけどこの国大好きになりました。

 寒さに震えまくるやまさん、この国にぶっ飛び、妄想をたくましくしております。

 このパラオが日本の国だった昔、そう、もう80年ほど前、この南洋諸島をモティーフにした歌が流行りました。ヨウツベで見つけたので貼り付けておきます。

別バージョン

寒中お見舞い申し上げます


 3日前の21日が二十四節気の「大寒」でした。その日から来月4日の「立春」までが「寒」です。1年の寒さの極といわれる時期です。それに合わせるかのように今年一番の「寒気団」がやってきています。

 寒いと筋肉も精神も委縮しがちなもの、また着ぶくれ、夜目に見えにくい黒っぽい服、いずれも思わぬアクシデント、交通事故に結びつきます。
 昨日のニュースでは「香港型の流行性感冒」も蔓延の兆しがあるとのこと、2月3月が心配です。私のブログを見てくださっている皆様。

 「どうか体調、事故に気をつけて、冬を乗り切り、たのしい、命もえる花の春を迎えるようではありませんか」

 などといいながらおいらが一番にくたばったりしてね。

2012年1月23日月曜日

あたたかさが格段に違う

 
  そとはシンシンと冷え込んでおりますが、今、風呂からあがりストーブの前に坐っています。
 うれしいほど暖かい!エアコンとは全然違う。
 風呂前に着火していたので風呂からあがるときには部屋の空気は
 「春の陽気」。

 そして炎を見てると燃える火の放射で顔が火照ってきます。体だけでなく、なぜか心まであたたかくなります。
 何万年も続く氷河時代をありがたい火のおかげで生き延びた人類の、火に対する思いが私のDNAに刻み込まれているのでしょうか。

 今、ストーブの上にやかんをのせました。シュンシュンいったら、おいしいコーヒーを淹れて飲もうと思っています。

寒さに辛抱たまらず



 ようやく天気が回復したと思ったら、今日から「寒気団」がやってきた。昼も気温が上がらず、寒い風が強く吹いている。
 今日まで、部屋の空気をあたためるのはエアコンを使ってきたが、機種が古いためか、はたまた外気温が低いためか2時間ほど運転しても快適な気温にはならない。机に向かうと足が

 「ちべた~~~ぃ」

 電気代が高いだけで効率が悪い。天気予報を聞くとこの寒気、今月じゅう続くそうである。今夜から一段と冷え込んでくる。もう、限界!

 「今年からはすべて電気で暖をと思ったが、寒さに辛抱たまらず、石油ストーブを今夜から使います。」

 家もイケない!築27年が来ようとしている。だいたい安普請で作られているし、薄い合板を多用している。熱の保温性がすこぶる良くない。
 安普請でも北海道のような寒冷地仕様なら保温効率が良いのに。だいたい最近はみんなエアコンで夏の暑さを過ごすから、夏仕様なんかいらない。みんな保温性のある寒冷地仕様のほうが冷暖房の効率がいい。ただ昔の家は伝統的に開放的な暖地向きだから、熱はどんどん逃げる。原っぱでたき火をするようなものか!

 などと家にぼやいても仕方ない。家を変えるなどは論外なので(もちろん金のかかるリホームも含め)暖房器具を工夫する以外ない。石油ストーブにすればエアコンよりは暖かくなる。

 ここからはジョージ君。よ~~~きいてや!

 『以前、エアコンだけで冬を過ごし、いくら電気代がかかるか教えて。』
 
 と言われましたが、ボロッチイうちのエアコンでは、電気代がぎょ~さんいって(1月は9000円近く)全然あたたかくなりません。エアコンだけではもう今日が限界です。石油ストーブに戻します。

 昨今、エアコンが発達し、夏、外気で涼を取るなどしない家が増えています。もうこれからは家は気密性(ということは当然防音効果もよい)があって、耐熱材がバカスカ入っている家がいいですね。

 ジョージ君やとし君はこれから新家庭を持つだろうし、それに伴い新居を選択することもあるかもしれませんので、ご参考になれば幸いです。

 「年ぃ~寄ると、夏がええです。冬ぅ~のさぶさは年寄りを殺します。」

2012年1月22日日曜日

こらーたいがいにせいよ!といいつつ濡れながら帰る


 もううんざりです。4日続いての夜の雨。冬の雨だからすごい降りではないが今晩は濡れてしまった。午後8時前、ウォーキングに出るときは降ってなかった。途中からジャンパーにかかるとパラパラ音するほどに降ってきた。
 4日間夜になると雨だ。今日などは根性の悪いことに昼間いい天気だったから降るまいと夜のウォーキングにでたら、これだ!

 「こら!たいがいにせいよ。」

 と暗い天に向かって恨み言を行っても仕方ない、来た道を引き返す。
 なんで、一番降水量の少ない一月の四夜続けての雨なんか?
 ぶつくさ言いながら帰っていると、昔中学でならった気候区分を思い出した。

 「冬雨気候」

 知りませんか?夏比較的乾燥して冬降水量が多い。え~と今はそんな名称はないのかな?

 「そうだ、今は、地中海式気候と呼んでるんだ。」

 「じゃあ、今、一月の雨に降られててくてく歩いてるこの鴨島は何気候なんだ?」

 「そうだ、温暖湿潤気候、ということは夏も冬も雨が多いってことか。」

 ちなみに中国南部の内陸は「温暖冬季少雨気候」、ああ、中国南部の内陸だと夜のウォーキングでも雨に降られる確率は少ないってことか。

 「温暖湿潤気候って、高校になったらケッペン式で記号「Cfa」と習ったっけ、よく似た記号「Cfb」は西岸海洋性気候。そうだそうだ思い出した。」

 「こんな気候区に住んでるんだから一月四夜雨に降られるのもしゃ~ないなぁ」

 濡れながら急ぎつつ最後は妙な納得。温帯で冬にもっとも降水量の多いのは日本の日本海側中部。2番目がアメリカシアトルのあのあたり。ホントに日本は冬降水量が多いんですよね。

 ぬれねずみになって帰りながら、相変わらず、馬鹿なことを考えるやまさんでした。

キリストと赤ふんどし


 キリストの磔刑像、すなわち十字架を見たのはいつだろうか。もう時も場所も定かでないはるか昔の幼児期であったと思う。時も場所も覚えてはいないが印象は強く残っている。
 全裸に近い格好で、手足は大きな釘で十字架に打ち付けられ、体のあちこちからは拷問のあとのような傷があり、血が出ている。特に脇腹は槍で突かれた跡がある。うなだれているのはもう死んだあとだろうか。顔には苦悶の表情が張り付いている。子供ごころに

 「怖い」

 と思った。その後も十字架像は時々見た。そしてその像は刑死したキリストだと教えられた。なぜ罰を受けて刑死した人が教祖、いや神なのだろうと疑問に思った。
 その後、あれは全人類の罪を引き受け「人の罪」を負って死んだのだと理解したのは高校生の頃だった。
 なぜあれほどの苦しみを受け、もっとも惨めな刑死の格好をさらさねばならないのか、それによってわかった。あらゆる罪を一手に引き受けその贖いとして死ぬのなら、苦が大きいほど、また惨めさが大きいほど、我らの代わりを引き受けてくれたキリストに対し畏敬が増すのは道理である。

 「なるほど、絵画や彫刻に見られるキリスト磔刑像は、これでもか、と言わんばかりにサディスティックなのはそういうわけか!」

 ちょっと一つの絵画を見てみましょう。
これなどはまだ抑制されたものである。中には怖気をふるうような磔刑像もある。

 さて、いくらサディスティックなものほど効果的といってもさすが官能の器官を開チンさせている絵画、彫刻は一つもありません。どれもみんなこれ、「ふんどし」か「腰巻」かしています。
 いくら罪人とはいえ、ユダヤ人社会の掟で全裸で辱めるということはなかったのでしょう。

 この布、昔から気になっております。いったい紀元頃のユダヤの男子の股間を覆う下着はどうだったのか?このようなものだったのだろうか?そして構造は?生地は?興味が湧いてきます。

 この絵画を見ると緩く巻いているだけのように見えるが、腰をまわすだけの腰巻では見ていて、おぼつかなさが増してくる。現にずり落ちかけである。
 だから、これは腰に巻いているだけでなく陰茎陰嚢を包み込み裏へまわす、いわゆるふんどし、T字型にしていると思う。そうしないとすぐずり落ちるし、「ああ、イエス様」といって老婦人が拝んだとき巻いただけの布だと見上げた時下から陰茎陰嚢が丸見えになるんじゃないかと心配する。

 「でも中東や西洋ではふんどし型の下帯はしないのかもしれないぞ!」

 どうだろうか?向こうの人もふんどし型なのだろうか。キリストの腰のものに関する限りよくわからない。

 まえにどこかで男はなぜ「ふんどし」をしめて陰茎陰嚢を包むのか?「ある説」を聞いたことがある。それは、男は昔、狩猟で走り回っていた。全裸や腰巻様では陰茎陰嚢がブ~ラブ~ラしてじゃまっけになって走る障害になるそうである。だから、ふんどしやパンツで陰茎陰嚢をしめ、固定するようにするとかいうのである。
 この説、私も書いていて「ほんまっかいなぁ!」とちょっと疑問に思いますが、私はフリチンで全力疾走したことないので真偽はわかりません。だれかフリチンで疾走したことのある人、教えてください。

 ともかくキリストの下帯、腰巻で巻いただけで中は「フリチン」だったのか、それともふんどしで前後に回してしめ官能の器官を包み固定していたのか、わかりません。ネットでもちょっと調べましたがそんなことを調べる専門家なんかは阿波弁で

 「私そんなお下劣な歴史は、せんもん!

 でありました。

 さて、そのふんどしでありますが、今日1月22日は徳島新町川で寒中水泳があり、毎年恒例の若い自衛官の赤フンでの泳ぎがありました。ふんどしをきりりとしめ(中に一人緩んでいる者がおりましたが)、川の欄干からドッポ~ン。
 写真と動画でご紹介します。
 ところでなぜ赤色のふんどしなんでしょう。いろいろ言われていて正確の説はあってないようなもの、みんな勝手なことを言っています。そこでやまさんの説。

 昔から赤色は特に疱瘡などの瘡(かさ)の病(できもの)の予防に効くといわれていました。江戸時代、日本の男子の多くは瘡の病を持っていました。(今の梅毒だけどね)、だからそこから伝染する股間に赤色のふんどしを締めた。とまあそういう説です。

 そんな説とは別に、肌色の全裸で股間には目立つ赤、はいいものです。よくは説明できまへんが

 「なんじゃぁしらんけんど、肌色、そして股間の赤は、官能に、感応(かんのう)する~、なんていっちゃったりして・・・」

 普段は全裸にちかい男のはだかなど絶対よう見ないような御嬢さんが、二十歳そこそこの自衛官の赤フン姿に近づいてキャッキャいいながら写メールや写真なんかとってました。

 橋の欄干から飛び込む赤フン自衛官

DVD-Rを買ってきて書き込みに挑戦


 私はムウビメエカでよく動画を作っている。今までUSBに保存していた。それをDVD-Rに保存しようと思ったがやり方を教えてくれる人がいないので本を頼りに挑戦してみた。
 午前中にヤマダ電機でDVD-R5枚組600円で購入。家で早速書き込んでみた。USBからDVD-Rに書き込むことには何とか成功した。その書き込まれたディスクはパソコンでは見られる。しかしテレビで見るためDVDプレイヤーで再生しても再生できない。こちらは失敗してしまった。結局、テレビのDVDプレイヤーで見る形式でなく、パソコンのみでしか見られない形式に書き込まれたようだ。
 何かを途中で操作しなければならないのだろうがそれができていなかったのだろう。

 またムウビメエカで作った動画を直接DVD-Rに書き込むのも試みたがこちらも手順が間違ったのかできなかった。仕方ないので一旦USBに保存し、それからDVD-Rに書き込むという回りくどいやり方になった。

 新しいことを勉強するのにすんなりとはいかないようです。

 下はDVD-Rに書き込むため作った動画です。私の大好きなちあきなおみさんの歌が入っています。



2012年1月20日金曜日

語源学をかじっているのでちょっと考えた


 昨日は一日中雨で少し頭が重かったのに加えて、HTMLたらいうのをパソコン上に広げて見ていたら、本格的に頭痛がしてきた。1日たったが今も頭が痛い。時々このように原因不明の頭痛が起こる。持病のようになってもう20年近くにもなるので重大な病気の予兆ではないみたいだ。(もしそうなら20年も生きてはいまい)

 HTMLはよく見ると英語のようである。意味から解釈するとどうも指示を与えている『指令書』のような気がする。
 この中のある語を探したのであるが、検索機能を使いこなせないので、スクロールで繰って調べたら目が疲れた。結局これが頭痛を引き起こしたのである。
 まあなんとか苦労しながら見つけた。それは

 「defer」、
 
 なんじゃろ?英語でdeferは「延期」が一般的だが、「従う」という意味もあるが・・・・・そんないらぬことを考えていたんでは埒があかないので、教えられたとおりその文字を

 「async」

 に変える。これもなんじゃろ?である。deferは英語の意味を知っていたがasyncは知らない。語源学をやっている以上1万語くらいはわかるがこんなの見たことも聞いたことない。

 操作はそれだけである。これを変えたおかげで少なくともIEでの私のブログに関する限りは不都合は解消した。

 でもasyncについては気になるので英語の辞書で調べたが載っていなかった。もしかしたらコンピュータ専用の新しい英語の新語かもしれないがコンピュータ辞書は持っていないのでわからない。

 語源学的に考えると学術用語っぽい。ということはまず間違いなくギリシャ語由来の英語であるはずだ。
 しばらくasyncをじっと眺める。ギリシャ語経由の学術用語は結構合成語も多い。接頭辞-語根-接尾辞。で一語になる場合がある。これはa-が接頭辞ではないのかと考えた。
 a-の接頭辞はギリシャ語で「否定」を表す。
 とa-を分離したら、意味が見えてきた。aを取り除いたsyncは略語としてよく使われる。皆さんよく御存じの「syncronization」、同調する、というような意味である。
 ということは否定の接頭辞a-をつけたasyncは、「同調しない」という意味じゃないのか?

 う~ん、defer→async。「延期」または「従う」→「同調しない」。この指令が何をもたらしたのか?もう私の知力の及ぶ範囲を超えております。

 今、語源学の本をまたぞろ勉強しているのでこんな何の役にもたたない無駄なことを考えるやまさんでした。

2012年1月19日木曜日

HTMLをおそるおそる操作した結果報告


 手順通りやって、IEで自分の過去のブログ、コメントを開きましたが、今のところ表示できない、スクロールできない、真っ白になるということはないようです。
 一応確かめるためHTMLを元に戻してIEで開くと、やはり頻繁に不都合が起こります。

 ただし、HTMLを変えても自分以外の、例えば孔明さんのブログで、「全体表示」、「コメント」をクリックして全画面を見ようとすると、固まって反応しなくなります。

 何回かHTMLを元の状態と、変えた状態で実験しました。

 結果は、

 自分のブログに関する限りは、IEで見た時、変えたHTMLで一度も不都合は起こっていません。
 しかし、他人のブログを覗く場合は、HTMLを変えても起こります。

 結論としてIEを使わず、クロームや火狐で見てる人は無理にHTMLを変えなくてもいいような気がします。

 変えた結果として副作用でさらなる不都合もあり得ますからちょっと心配です。

 私は今のところは手順通り変えましたが、2語のみですので、いつでも元に戻せます。ただし複雑な文字が膨大に並んでいるのでその位置を忘れないようにしなければなりません。

ネットの世界の脆弱性について思うこと


 高齢になってネットを始めてまだ一年とちょっとであり、その本質、これからの進化・発展性についてあれこれ言えるような見識は持ち合わせていないが、
 「ネットって脆弱だな。」
 と思う。
 そういう意味で人間の脳に似ている。頭蓋骨で保護されているが(それとてもハンマーでカンと叩けば簡単こわれるが・・)、そのものは豆腐のように柔らかく物理的な力でぐしゃっと押しつぶせば一巻の終わりである。
 ネットもその内部の世界は「自由で無限の可能性」があるかもしれないが所詮はシリコンなどのチップである。物理的な力が加わればお終いである。

 この物理的なといったがこれには外部の大きな力も含まれる。政治力、法律、規制、などである。ネットに向かいそれを自由に駆使していると万能になったような気になるときがあるが、外部の力がむき出しに行使されたとき、そんな思い上がりはもろくも崩れる。

 今日、ウィキペディアのサイトに跳ぶとウィキペディアは機能を停止しており、次のような画面が現れた。

 ネットにおける著作権を保護するため、ネットを経営する会社に対し、大きな監視、規制を行うよう求める法案の成立に抗議したウィキペディアのデモンストレーションである。
 なるほど著作権は保護されるべきだが、もし過度にそれを実施されるとなるとネットの世界の「自由性」が脅かされる。ネットの世界に「自由」がなくなればどうなるだろう?

 アメリカのハリウッドや音楽会社が協力にロビー活動をつづけ成立に力を入れていると聞く。著作権侵害に一番被害を受けているから当然といえば当然だが。法案を文字どおり解釈し、規制がエスカレートすれば・・・まあ私のような初心者にはどうなるかわかりませんが、私が細々やってるネットの楽しみなどはなくなりますわなぁ。

 ブログ上でパロディと称し、コラージュを楽しんだり、投稿動画のBGMにお気に入りを入れたり、ちょっとした引用に無断で動画・絵・写真など引っ張ることはしょっちゅう、というか常態化してます。
そんなのが

 「あきまへん”!!!、明日からは絶対止めなはれ、そうせんと、手が後ろに回りまっせ。」

 といわれたら、私などはあすからネットを
 
 「やめまっさ」

 面白いもので、アメリカ日本などのいわゆる自由主義諸国は中国のネット規制を自由でないという。確かに中国は擬制共産主義実体中華帝国主義をとってる国ですから
 『政治的規制』
 はすごいもんでしょう。ですが我らも資本主義の世界にいます。アメリカの資本家たちが自分たちの儲けを脅かされるとなって規制に乗り出せばネットの規制などたやすいものではないでしょうか。
 今回のアメリカの規制法の制定に向けての動きはそれの一環ではないでしょうか。

 野放し・やりたい放題と「自由」は違います。自由度を損なわず規制がかけられるものでしょうか。難しいですね。

 本気になって政治力、法律、規制が動き出せばネットの世界なんてもろいものかもしれませんね。と、まあそんなことを思っています。

 そうそうIEによるブログ閲覧の不具合は続いています。今日、孔明先生から情報がもたらされ対処方法を教えられました。

 「わしゃ~、IEは親の仇だから、絶対使わん!」

 という人は別ですが、ここを覗いてください。

以下、メモ 無視してください

deferをasyncへ、

2012年1月18日水曜日

ようちゃんに教えられて行ってきました


 ようちゃんのブログに徳島植物園の上の方の神社の紹介があり、近いうちに行ってみたいと思っていました。
 幸い今日は朝は気温が低かったものの風はなく、11時過ぎには穏やかな晴天で気温も上昇したので、思い切って自転車で出発しました。

 私は動画にまとめてみました。

2012年1月17日火曜日

海に飛び込む話


 楽しい海水浴などで海に飛び込む話ならいいが、予期せぬ思いもかけぬ事故で海に飛び込まなければならないようになったときは、話は深刻で、時によれば究極の選択をしなければならない場合がある。

 その究極の選択だが、もちろん個々人によってそれぞれに選択が違ってくる場合もあろうが、また民族性国民性によってもその選択は違ってくる。
 150年前、アメリカによって開港させられた日本だが、その当時、日本人とアメリカ人のその「究極の選択」をめぐってある日本人が(武士だったと思う、名前は失念した)アメリカ人の究極の選択に驚いている。
 それはこんな話であった。

 事故で海に投げ出され、自分(夫)、そして妻、自分の母親、の3人が海に浮かんでいる。妻・母の2人がおぼれた時、自分はどちらを助けるか?

 当時の日本人は、当然、妻より母を優先する。というのが当たり前であった。当時の道徳の最高の徳目は忠と並び「孝」であった。日本人にしてみればアメリカ人もそう答えるものと思っていた。ところがアメリカ人にこの究極の選択を聞くと、当たり前のように

 「オオ、ワタクスィ~ワ~、ツマヲ、タスケ、マ~~ス。」

 この選択の回答は当時の日本人を仰天させるに十分であった。それを聞いた日本人曰く

  「アメリカという国は、機械文明は発達しているが老親を敬う孝などない。禽獣に近き国民である。」

 と。しかし、当時の日本人であっても心の奥に入って本音を覗けば究極の選択をしなければならぬ時、子もいるかもしれぬ、そしてこれからの未来を紡いでゆく「妻」を優先して助けたいと思ったのではないだろうか。
 「孝」という最高徳目に縛られ、また不孝の烙印を捺されるという世間を気にし、母という選択しかできなかったのではなかろうか。

 幕末、いや明治になっても、究極の選択で母を助けた子は、美談になるかもしれないが、妻を優先した場合には、老母を見殺しにした親不孝者として生きていけないほどの非難を受けるであろう。
 150年も前であってもアメリカ人のほうがずっと正直で本音で生きる国民であったと言えるのではないだろうか。

 さて、150年たって現代日本。まあ、そんな状況には追い込まれたくはないが、そうなったとき、今だとアメリカ人のようにこたえる夫が多いのではないだろうか。「孝」などの徳目はとっくに滅びている。
 「三歩下がって、親の影を踏まず。」どころか「三歩下がって、親にとび蹴り。」の子が増えましたわな。(ホントは親でなく師なんだけど)

 でも日本人の孝の徳目は滅びたかもしれませんが、世間体を気にするのは今でも日本人の国民性に残っています。

 『世界ジョーク集』で難破船から嫌がる各国国民を海に飛び込ませる決めぜりふが収録されていますが、その日本人編は

 「他のみんなは飛び込みましたよ、残っているのはあなただけですよ。」

 いかにも集団性、世間体を重んじる日本人らしい説得ですね。

 ちなみに他も言っておきます。まずアメリカ人

 「飛び込まないのは臆病者だ!」

 イギリス人

 「飛び込むのが紳士だ!」

 そして

 「飛び込んだら、女にもてますよ!」

 はさて?フランス人だったか、イタリア人だったか忘れた。

 こういう古典的な国民性をジョークにしたネタは最近は流行らないかもしれない。どの国民も最近は特色が違わなくなり、本音むき出しで行動してはばからなくなった気がする。

 「女にもてる」

 を重んじるイタリア男性だが、かっこ悪くて女にもてなくても、命あってのモノダネ、を実践している。

 数日前、タイタニックのような大型豪華客船を難破させ海に転がしておいて、乗客より真っ先に逃げた船長がいた。信じられないような話だが事実らしい。そしてインタビューに答えて

 「俺には責任がない!」

 この人ある意味、究極の選択の行動をとったわけですね。

 時給750円の雇われ店長だと何か避難しなければならない時、真っ先に逃げてもそれは、しゃーない、気がしますが豪華客船の船長ですからね、これはまずいですね。

2012年1月16日月曜日

今日、火狐を設置し、それでブログ作成、投稿しております

ブロガーの不具合
 最近、IEで開くブロガーの調子が悪い。そもそものグーグルのもとのブログが不都合なのだろうか?

 「あのコメント欄のでたらめの時刻表示はいったい何なのだ!」

 いくら考えても何か意味のある時刻なのかわからない。最初は「世界標準時」かと思ったが、たしか世界標準時は日本より8時間早いはずだからそうでもないみたいだ。

  まあそれとは別にエクスプロラで開くとブログが出た瞬間から固まるときがある。特に過去のブログを開くとそうなり、コメントを入れることもできない。

 幸いブラウザは「ググルクロム」もあるのでこちらは何ともない。ということはブログのもとでなくIEがおかしいのか?そのため最近はググルクロムで開いている。しかし、変換の様式はIEのほうが使いやすいので早く元通りになってほしいが、さっきも見たらやはり過去のブログをクリックすると表示された瞬間から固まってにっちもさっちもいかない。

 パソコンの不都合が起こるとき決まって私の体調の良くないときで病気が出た時である。今回も不整脈が頻繁に起きている。だからパソコンの不都合が起こるたび

  「これは悪縁じゃ。はよう断ち切らねば寿命がなくなるぞ。」

 と思ったりしている。

 IEの調子が悪いのでググルクロムだけでは心もとないので今日は試行錯誤を繰り返しながら「火狐・モジラ」をダウンロードして3つ目のブログが見られるブラウザを設置した。
 3つあればちょっと心強い。でも様式はIEが使いやすいのだが。

 さっそくブログを「火狐」で覗いたら私の動画が動かない。またAdobe Flash player 64ビットをダウンロードした。一緒に無料のセキュリティースキャンソフトがダウンロードされていのでこちらはアンインストールした。
 で、ファイヤフォックスで今ブログを投稿している。

タダでCD2枚借りた
 2日前100円で「私をスキーに連れてって」を借りた。レシートと一緒に何やら割引券のようなものが入っている。よく見るとCDの2枚無料券。

 「やった!こんなサービスクーポンがあったんだ。」

 さっそく2枚のCDアルバムを借りた。「西田佐知子」と「かぐや姫全曲集」。パソコンにコンテンツを取り込んだので

 「また、歌う動画を作るぞ!」 (見る人はいい加減うんざりしてると思いますが) 

電気代
 今年は灯油をやめ、エアコンのみにしたその初めての電気代1か月の料金が来た。

 8738円。高い!3~4時間しかつけないのに。エアコン以外ではホットカーペット、IH電気調理器、テレビ、白物家電、ウォシュレット、電気毛布くらいか。

 「どうでしょう?」

2012年1月15日日曜日

私をスキーに連れてって


 昔、見た映画に『私をスキーに連れてって』というのがあり、調べてみたら昭和62年11月公開とある。この間映画館で見たような記憶があるがもう25年もたっているんだ。そういえばもうなくなったダイエーのビルの最上階で見たような記憶がある。4半世紀も過ぎたのだ。もう一世代以上も前である。そんなに時がたったと思わぬが、それは自分の年老いた証拠だろう。

 昨日DVDを借りてきて25年ぶりに見た。筋などは全部忘れていた。映画を見た昭和62年頃どんな社会であったか大まかにふりかえると、この時代はバブル真っ盛りのいい時代であったことを思い出す。この若者の風俗は今と変わらぬ気がするが、金回りが良かった時代だからだろうか、全体的にみんなリッチな感じがする。


 この歳が来ていまさら誰に「私をスキーに連れてって」といえるわけではないが、25年ぶりに映画をみて、早速ブログ動画でパロディって見ました。

 いつものようにしんちゃん、ジョージ君、私、そしてブログ初公開になる私の連れも出演します。

2012年1月14日土曜日

も~も~も~、モンブラン!


 買い物につき合わされたおかげでぼろぼろのズック靴がサラピンになった。そして何よりうれしかったのは、ずっと食べたいと思っていたモンブランが食べられたことであった。

 もちろん生まれて初めて味わうものではなく、以前に何度も食べたことがあるが、あるブログの影響で食べたくなった。

 ケーキとコーヒの店に入り、ショーウインドを見るとおいしそうなモンブランが

 「これに決めた!」

 食べる前に写真をパチリ
 
  上に栗がのっている様式ではない。「ん?」
  食べると中にちゃんと栗やらナッツ類が、
  そしてブランデーの風味も
   
 「おいしかった。満足!」

 今度は是非、『ヴィーナス・ニップル』が食べたいと思うやまさんでした。

世界の終末はネットが兆す?


 数日前からネットが不調である。ネットといっても私はブログしかやらないのでその不調である。

 IEのそれも「ブロガー」がおかしい。別のブラウザやエクスプローラーでもヤフーのブログなどは正常である。PCやネットに詳しくない私などは何がどうなっているのか見当もつかない。

 具体的にはブロガーで自身のブログに修正をくわえたり、挿し込んだりするとき過去のブログに跳んだ瞬間、固まって画面が反応しなくなるのである。だから操作は全くできない。

 他の人のブログをブロガーで見てコメントを書き加えようとしても、画面がかたまり、スクロールもクリックもできなくなる。

 こういうお手上げ状態になるたび強く思うことがある。

 「もしこのような不具合に、壮大な深謀遠慮の破壊的悪意があったらどうなるのか?」

 ネットの世界については何も知らないやまさんだけれどそれは恐ろしい結果をもたらすのではないかと思う。

 「ブロガーの不調ぐらいで何を大げさな」

 と思われるかもしれませんが、何事も破局の「予兆」はささいなトラブル、不調によるものです。
 一つの例えですが、山の下にある小さな村を破壊するくらいの大岩が山のてっぺんにあるとします。そのすそ野はとてもなだらかで下の村まで傾斜の緩やかな坂を作っています。
 ある日、坂の一番上にある大岩がゆっくり動き始めました。坂はともかくなだらかなもので、最初は目にみえぬほどゆっくり、しかし確実に転がり始めます。
 もうあとは言わなくてもわかるでしょう、時とともに加速度をつけ急速に速度をまし、村を破壊するため突進していきます。

 「じゃあ、その軽いネットの不調がいったいどのようにして世界の破局をもたらすのか、論理的に説明してみよ。」

 といわれると困ります。まるで預言者が「予兆」を把握するように感じるとしか言いようがありません。論理的には説明できません。ただのたわごとかもしれません。
 予兆がある破局に結びつくのに筋道だった説明はウンと後からされるものであります。また、予兆であった、とわかっているのですが、その説明はつかない場合もあります。
 経験が100も1000も積み重なり、ある現象がよく似たある現象を引き起こすとき、それは論理的説明なしに「経験則」として認められることだってあるでしょう。
 じゃあ、

 「世界の終末はネットが兆す?」

 についてはどうか。残念ながらわが人類が生息している「この世界」は我らが世界を認識し始めてまだ本格的終末を迎えたことはないので「終末の予兆」の経験則はありません。

 「終末論」は流行のようにいろいろな説が流布されてきました。終末の日時を指定し、予兆も言われています。しかしみんな廃れました。

 「なぜか?」

 それはその日時が来ても世界は終末を迎えなかったからという単純な理由です。でも本当の終末論もあるはずです。その予兆もあるはずです。そしてそれが「当たった」時は終末・プッツン、スイッチが切られますから

 「後になってああ、あれは当たっていたんじゃ、」

 ということもできませんよね。

 予兆は妙なところから始まるかもしれません。気象学は上記でいう「経験則」に基づくところが多いんですが、こんな話を聞いたことがあります。

 「パリで蝶々が大発生して群れて飛べば、何日かたったころ北京で大嵐になる」

 気象の世界は不思議なことがいっぱいで相互の因果関係を否定することなど出来ません。私にとってはネットの世界も気象の世界以上に不思議、謎だらけです。それでも霊感に近い「予兆」はネットを引いた時から繰り返し繰り返し感じております。

 ちょっとある妄想を抱いています。

 『IT業界の大立者の某氏が病に侵され、余命いくばくもないことを悟った。病名は癌、別に彼は世界に対し恨みもないし、まして害をくわえるような意図はなかった。
 ただ、自分のからだと同じような有機体、神経系の相似系であるようなネットの世界に「今の自分」を残そうと思った。「癌」という病巣を抱えたままで。
 博学である彼は、細胞は永遠に生き続けられないこと、自爆遺伝子を持っていることも知っていたし、仏教にも造詣の深い彼は、全てのものは滅する宿命であることも受け入れていた。
 自分の相似系をネットに残すにあたり、彼は「自爆遺伝子」、「癌細胞」と同じものを仕掛けた。
 そして彼は亡くなった。誰にも知られず、ネットは終末に向けての時を刻み続けている。そしてまるで人の体のように時々不定不調を繰り返しながら、死へむかって一歩一歩近づいていく。』 

 ああ、こんな恐ろしいネットなどやるのではなかった。直前まで不気味な予兆など感じず終末の瞬間まで、楽天的に生きたかった。
 こんなネットの不具合の予兆がつづくならネットもやめようかと真剣に思っています。

 「更新がなくなったらネットを止めたものと思ってください」

 話は変わりますが今日お昼、よく行くファミレスに行ったら、またいつものようなおすすめメニュー。以前懲りたくせにおいしそうなのでまた注文。
 『トマト鍋セット』
 でも今回は、結構いけました。

2012年1月13日金曜日

2012年1月12日木曜日

私もお勉強


 国家資格を昨年暮れにとり、続いてその次に狙いを定めたAさん。明日から勉強を始めるそうだ。頼りない私を頼ってくれるのか、まあ、たまたまその資格を昔に取っていた私にアドバイスを求めてくる。

 「熱心で真面目だから大丈夫。自力でパスしますよ。」 

 そういってあげたい。

 Aさんの勉強の意欲に魅せられて私もお勉強を決意しました。

 「なにをやろうにぃ~」

 とりあえず10年以上まえからとぎれとぎれに勉強してる

 英語語源学と日本文学古典をやろうと・・・・・

 で、まず英語の語源学辞書と英英辞典を引っ張りだし、読み始めるが2年のブランクは大きい。あれやこれやの語彙を忘れている。
 60歳を過ぎて語学のキツさを思い知る。
 今日はとりあえず60ページ進んだ。

 こういう勉強ばかりだと肩がこるし面白味も少ないのでAさんの国家試験が済むまでそれに関係した(まあ、この試験にはそんなアカデミックな術語なんかは必要ないし、理解もいらないが)

 「エントロピー」

 大学の教養物理でやったが、未消化のまま来てしまった。古いテキストを探し読み始めた。理想の熱機関「カルノーサイクル」がエントロピー理解の第一章なんだが、数ページ読んだら眠くなってきたまだ6時前なのに、

 「まあ、飯食べてからぼちぼち行きます。11時までに語源学100ページ、カルノーサイクル読み終えるぞ。」

 今日の昼、やまさんには滅多にないことだが、3人そろって昼飯になりました。

 「おいしいな。おいしいな。みんなで食べるとおいしいな。」

 写真はこれメニュー、雑穀米でヘルシー、量もたっぷりで500円、安い。