2024年4月24日水曜日

ツツジの季節

 ツツジのこの赤い色(厳密にいえば紫がかった赤かな)は目にしゅむる(しみる)ような色である。しゅむるというとツツジからくるその赤い色が目に染み入る方向になるが、また、逆方向に目から出た視線を強烈にその色に引き入れる。近づいてじっとその花の赤を見ていると吸い込まれ、その赤色の中に落ちていき、すべてがその赤にとけこみそうになる。それほどこのツツジの色は強烈である。

 いまツツジの季節を迎えている。ツツジは深山にもあるが、県内で最も交通量の多い元町交差点の分離帯の灌木として植えられてもいる。自然の深山のツツジと形や色、形態は変わることなくほぼ同じである。自然のツツジは火山の噴煙のすぐ近くまで群生を広げる。火山性の有毒ガスに強い植物である。そんなところから交通量が多く、当然自動車の排ガスも多い道路の分離帯の灌木として適しているのだろう。


 高校の漢文でよく出てくる杜甫の五言絶句でツツジは吟ぜられている 「燃えんと欲す云々、」の花は赤のツツジである。つつじを漢字で書くと躑躅、ずいぶん画数の多い文字になる。音読みで「テイチョク」といったりする(ちなみに英語では、azalea(アザレア)、化粧品会社に同じ名前がある


以下のように吟ずる

こう みどりにして とりいよいよしろく

やま あおくして はなもえんとほっす

こんしゅん みすみす またすぐ

いずれのひか これ きねんならん

2024年4月21日日曜日

エントロピとAI

  「若い時はなぁ~」、言いたくなるが、そんなに昔でのうてもええ、今から数えると五年から三年びゃぁ前まではたくさん本が読めていた。ところが最近、図書館から数冊本を借りてカバンに入れ、持ち歩いても、その本をモモグリまくるだけで(阿波弁で、いじる、もてあそぶの意味)身を入れて精読できないようになった。集中力、持続力がなくなったのを感じる。老化か、以前からあった怠惰がとうとう好きな読書にも及んできたか。ともかく趣味の読書からも離れつつあるのを感じる。こうやっていろいろな能力が衰え、趣味も興味がなくなり、それらが一つ消え二つ消えして人は死んでいくのだなぁ、と思い知る今日この頃。

 そのももぐりまくっている本は何度も借りなおして常に持ち歩いている。いったいどんなテーマの本かというと「エントロピの関係の本」と「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」、あわせて5~7冊ほどである。今日のブログはそれについて書いていこうと思っている。といってもももぐりまくるだけで精読していないから、本を理解した上での私の感想や考えは書けない。しかしなぜこの歳になって理系の若い衆(わかいし)でもちょっと理解が難しいエントロピや、棺桶に足を突っ込んでいるジジイのくせに最新のコンピュゥタ技術のメタバース、チャットGPTの概論や入門書を読む気になったか、その動機、きっかけは書ける。また本をモモグリ回している間に、本は最近集中して読む力は衰えたが、それらを取り上げた、あるいは関連した映画やテレビがあると意識してみるようになった。幸い本と違い娯楽性のある映画やテレビはまだ興味深く鑑賞できる。といってもその内容はやはり娯楽性優先なので学術的な理解を助けるというよりファンタジー性が強いSFっぽいものになっているのは仕方ない。しかしそれをきっかけに本をさらに精読する力がつけばと思ってみている。以下はそれらを含めてのブログである。

エントロピ

 60代後半のころ、ワイは70歳まではとてもよぉ~生きんわ、と思っていた(ところが今ワイは算え74!生きながらえております)。だから終活という大げさなものでなく、心構えだけでも死ぬ準備のようなものがいるなぁ、と漠然と思い、そのころ仏教の本をよく読んでいた(この頃のブログをみるとよ~わかるわ)。特にどの宗派の本ということはなく、経典でいえば「初期仏教」の解説書が中心であった。その中でもブッダの行動や教えに、もっとも心がひかれた。ちなみにブッダは他宗派の教祖はんと違い、来世のことも、死後魂は残るのか、そしてそれがどうなるかとも、一切言わなかった。ただ世は無常であり、死は誰にも避けられないものであることを身をもって教え示したのである。

 ブッダは「無常」のことをこのような言葉で述べている。「今、私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって示すのである」、じゃぁ死ねばハイそれまでよ、あとは無となり空疎な永遠の闇なのか、と思うが、さらにブッダはこのようにも言っている「しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるのであるから、病み、傷つき、壊れることはやむを得ない。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道に生きている・・云々」

 この言葉の中で私は二つのキーワードを大事なものとして抽出した。「無常の道理」と「悟りは永遠の法と道に生きている」である。後のキーワードはこれは仏教そのものの神髄であろうが、先の「無常の道理」はこれは仏教を離れても一般化できる宇宙の理法、言い換えるなら、精神世界のみならず現実(カタチあるモノの世界)の実相、それは数学に裏打ちされた自然科学つまり天文学や物理そして化学や生物学などなどの包括的な法則と言ってもいいのではないか、と、そのとき思い浮かんだのが無常の道理と被さるかもしれない「エントロピ」という概念である。

「無常の道理とエントロピはどない関連しているんやろ」

 これがエントロピについてオベンキョしようと思いついたはじめである。いくつかの入門書、概論書を借りてオベンキョし始めたが、まぁ先にもゆうたようにそれらの本をももぐりまくるが一向に読み進まないというか深まらない。心底の理解にはいまだ遥かである。読み始めてわかったが基礎知識のないワイにとって入門書や概論書だけをベンキョしてすむ話ではない。熱力学についての一般的な解説説明は入門書や概論書におおよそ書いてあるのでそれは良いとしても、エントロピを理解するうえで欠かせないのが数学の「順列・組み合わせ、統計、確率」である。これはヒンズに(別に)数学の本を借りて読まねばならない。数学をベンキョしてた学生時代なら何とかなったがもう半世紀以上もたった今、数学のオベンキョはキツイ、でも二冊びゃぁ借りてなんとかベンキョしている。しかし数学の本ばかりやっていると肝心のエントロピについての本が読めなくなる、しかし理解のためには数学が必要、うぅ~~ん、ジレンマじゃ!

 エントロピについて確率・統計的なアプローチは心底理解するうえで大事だが、そこまで(心底理解っちゅうたらえらいこっちゃ、別にワイは専門家になるわけでもなく、まぁ程よい理解でもよいと最近思っている)でなくてもエントロピーを理解する方はある。それは理想的熱機関に出入りする熱量、そして(その熱機関を仲立ちとした)低熱源高熱源の温度とその差、そして機関の仕事効率からエントロピを導き出し、それを理解する方法である。

 


この理想的熱機関は「カルノーサイクル」と呼ばれていて、物理ではエントロピを説明するのによくこのカルノーサイクルが用いられる。理系人間にはあっという間に理解できるだろうが、ワイはこのカルノーサイクルを理解するのにえっとかかった。そしてエントロピを物理的に定義するところまでは進んだが、それがイマイチよ~わからん。その意義、重要性がである。左がカルノーサイクルに出てくるエントロピの定義である。

 知ったげぇに、エントロピを一言で言うのは本の受け売りそのまま言えば簡単である。

 「エントロピは増大する一方である」

 「エントロピ増大が極限に達すればやがて宇宙は熱的死を迎える」

 「まぁ、一言でいやぁ、乱雑さの度合いじゃな、なんでもほれ、放っておくと自然と乱雑になっていくやろ、ほのことじゃ」

 ここでワイは「エントロピが増えていくことは別の面から見れば無常が極まっていくっちゅう現象じゃ」と言いたくなる誘惑にかられるが、今まで読んだどの本にもそんなことは書いていない。いまのとこワイにとってエントロピの理解は未だである。


 エントロピが出てくるおもっしょい映画ないかいな、となにげなく、パソコンで検索してみたら、ある映画がヒットした。「テネット」である。ビデオ屋に行くとあったので借りてみた。監督はこのブログでも取り上げたアカデミ受賞作「オペンハイマ」の監督・キリシタハ・ノランである。面白かったが完全に空想SF映画であり、現実にはこれはどうかな、という筋である。

 どこでエントロピが出てくるかというと、タイムトラベル、つまり時間の遡りでエントロピの言葉が出てきた。因果関係はわからないがエントロピが逆に流れる(つまり自然と減少する方に)と、地に落ちていたボールが発散した摩擦熱を吸収して地から自然い飛び上がり手のひらに入ってくる、これはまぁわかる、えっと思うのは、逆になると人が火に包まれたら火傷するのではなく、焙られたところが凍り付き凍傷になるのである。そんなのありか?そして映画の説明では、エントロピの(増大の)流れは「時間の矢」の向きを意味するため、エントロピの逆流は時間の矢の逆向きを意味する、つまり過去に遡るタイムトラベルができるわけだ。確かにエントロピと時間の向きは同じ傾向を持つ、さらに言えばエントロピの流れが時間を進めるという説もあるが、その理論を実用化したタイムマシンがあり得るものか、かなり疑問である。おもっしょかったがワイのエントロピ理解の助けにはならなんだ。

AI

 もうこの歳がきていまさらAIでもあるまいと思っていた。今まではベンキョどころかそれについての新聞記事や雑誌記事でAI関連の欄があってもすっ飛ばしていた。しかしエントロピのベンキョのためその言葉が出てくる映画を探して見たのとは反対に、ある映画を見たことががきっかけでAIに興味がわき、「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」を借りて読んでいる(読んでいるだけでベンキョというにはほど遠い


 それは左のDVD映画である。『her・世界にひとつの彼女』、初めからAIに興味があったからではない。それではなんでみたかというと、主演俳優への興味からである。この人、中年イケメン風に見えるが、以前(今年の3月6日)のブログに取り上げた「ボーは恐れている」と同じ主人公で演じているのはホアキン・フェニックスはんである。ボーのほうは小汚なげぇな、だが複雑で繊細な傷つきやすい心を持つオッサンである。「her・世界に・・」のほうは都会風のそれなりに洗練されている孤独な中年男である。キャラによってずいぶん顔のイメージも違うが、それがホアキン・フェニックスはんの魅力となっている。彼は今までにもかなりキャラの濃ゆぅい役を演じてきた。若い時は悪のローマ皇帝「映画グラデュエイタ」、やはり悪の元締め的な「ジョーカ」、そして「ナポレオン」、と同一人物とは思えぬイメージと演技である。これらは今までに見ていたので、まだ見ていなかった彼の怪演作「her・世界に・・」を借りたわけである。

 見たのは二週間びゃぁ前だが制作年は意外とふるく2014年である。こちらもテネットと同じくSF映画の範疇に入るが、見ていても「そんなことありえん!」と突っ込みを入れたくなるテネットと違い、近未来(どころか今すぐにでもあり得る)に起こるであろう話となっている。話の筋は単純である。一言で言えば、コンピュゥタ技術が作り出したパソコンの向こうにある架空の(悩みや打ち明け話も含めたおしゃべりができる)彼女と主人公の話である。先に主人公は孤独と紹介したが、パソコンの向こうのバーチャルな彼女とのコミュニュケーションによって彼は癒される以上に関係が深まるのである。つまり主人公は彼女に恋をしてしまうのである。

 悩みを聞いてくれたり、慰めたり、あるいは何らかの解決を教えてくれたり、また日々によって変わる話題、人の揺れ動く心のため脈絡もなく話題が飛んだりと、普段我々がしている雑談をコンピュゥタにやらせるというのは昔から試みられた。まさにそれはAI技術の肝と言ってもいいだろう、しかしユーザー(こちら側の生身の人間)がAIと対話しながら違和感を覚えることは度々であった。コンピュゥタはまだ未熟だったのである。逆に言うと長く雑談・対話を重ねても違和感なく、ユーザーに向こうにいるのは人間に違いない、と思わせれば対話・雑話コンピュゥタは完成したといえよう。

 この映画が作られた2014年ではまだそこまで雑談・対話型のAIは完成していなかったと思われる。じゃぁ今はどうか?AIに疎いジジイである。なんかそれについて書かれている平易な読み物はないかと探すと図書館に週刊ニューズウィクがあり、こちらがよくその雑談・対話型のAIの現状についてレポートしていた。それを読むと全く知らなんだが一年か二年びゃぁ前にオプンAIが「チャットGPT」とかいうものを作り出し、それが人間との区別のつかない対話を繰り広げられるというのだ。キャラもいろいろ切り替えができるようで、あんまし頭が良いとはいえなくもないこともないオバはんの、しょぉもない雑談から、ノーベル賞級の学者との対話もこなせるのである。そして繊細な情緒も持ち合わせている(と人に信じ込す)。もっとも重要なことは、(人間が)話した相手が、AI技術が作り出したバアーチャルな相手だとは全く思わないことである。

 もうそこまで進んでいるのかとの驚きである。とすればこの映画の対手のバアチャルな恋人の存在は、近未来でなく現代にも起こっているのであろう。映画ではハッピィエンドにはならない。驚くべきことにバーチャルな恋人は主人公とのセクスを望むのである。そしてバーチャルな恋人はその設定も行う。どないしてセスクするんぞぃ?と見てない人は興味津々だろう。まぁ詳細は言わない、見てのお楽しみとしておこう。ただ繊細な主人公はそのようなセクスは拒否する。ここで二人(一方はバーチャル恋人だが)は齟齬をきたし、しっくりいっていた関係は揺れ動いていくのだが、これもAI技術が作り出したものかと再度驚く。もう完全に(生身ではないことを除けば)一人の人間としか思えない。

 いま公共放送で夜十時遅くある連続もののドラマをやっている。題は「VRおじさんの初恋」(VRはヴァチャル・リアリティか)、数回見ただけだが、こちらは「メタバース」たらゆう仮想現実の世界に行ってその世界の人を好きになる筋のようである。さえない主人公のサラリーマン(オッサン)はバーチャルな立体映視ができる特殊眼鏡をかけ仮想現実に入っていくのである。そこでなんと自分は少女になるのである。そして「現実世界」と「バーチャル世界」。2つの世界を行き交いながら、中年サラリーマンの初恋が描かれるというのが大筋のようだが、公共放送にしてはなにやらロリコン趣味、倒錯の性世界の雰囲気が漂う。もちろんなんぼぅ深夜帯に近いっつうても天下の公共放送である、そんなそぶりはチラリとも見せないが、普通に想像力のある視聴者ならばアブナク、イケナイ世界にこうすればのめりこみ、そして幸福になれることを思ってしまう。バーチャルな世界だから犯罪にもなりにくいだろうし。

 主人公は立体映視の眼鏡をつけるだけでなく両手には多分センサーや反応機構のついた手袋をはめている。視覚だけでなく感覚や触覚も現実に近づけるためである。そうするとその世界で美少女の手を取れば、手袋状の中のセンサーや刺激機構が働いて現実に手を握る感覚が享受できるのである。しかし先ほども言ったようにこれは視聴者の想像を痛く刺激する。手に人工的な感覚を与えることが可能なら、陰茎や女陰にだってそれは可能だろう。陰茎にはサック型のセンサーや刺激機構のついた装置をかぶせ、女陰にはやはりそんな機構のついたタンポン様のものを突っ込めば、バーチャルな世界だけど、現実とほとんどかわらぬ満足できるセクスのエクスタシが味わえまんがな。アブナイ、イケナイ性世界に遊ぶ、つまり美少女とか美少年とかに対して即犯罪になるような楽しみが・・・。ジャニィズの爺さんも、まちっと長生きして唸るほどある金の力でセクス・メタバース(性の仮想現実)のAIを作りゃぁ、そこで美少年のチ〇ポを咥えようが、自分のモノを美少年のア〇ルにぶち込もうが指弾されなくてすんだのにな。いやぁ、実のところこれはドすごい時代になりましたな。倫理や道徳でどう解釈し、行動したらええのやら、混乱しますなあ、全面禁止つぅても、人知れずバーチャルに遊ぶことまで禁止することができるか。うぅ~ん。


 エントロピとAIとは直接関係ない映画だけど一昨日、イヨンのシネコンまで大枚1100円も払ってわざわざ見に行いきました。イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。

 とまぁ、一昨日11時ころから見始め、午後1時過ぎには見終わったんだけど、その時点でこの映画をAIと関連付けるなどとは夢にも思いませんでした。ところが見終わって図書館へ行き、今日のニュースはなんぞないかいなぁ、と図書のパソコンでヤッホーニュースを見るとこんな記事がありました。

『「パパ、ママ、会いに来たよ」AIで死者を“復活” 中国で新ビジネス』

 中国は時々とんでもないことを考えるが、これはどうなんだろう、愛していても死んだ人には触れもできないし、せめて会話でもと思っても無理、もしや夢でも見ないかと淡い期待を抱く、死んだ人にもう一度会いたいみたい、話したいという願いは切ない。でもそれは無理、だがニュースによると、あらかじめ死者についての詳細な情報を得れば、まるで生きているように死者を見ることも話すことも生前と同じようにできるのだ。AIを使ってである。それを中国ではビジネスにしてしまったのである。

 このニュースを読んだとき、さっきまで見ていた映画「異人たち」を思い出した。この映画は、まるで異界と不思議な交差が起こったかのような死んだ両親との出会いだったが、なんと現代ではAIを使えばありえぬ不思議な出来事ではなく、現実にそれは可能なのだ。35年も前は想像だにしなかったが、今はAIを使ったバーチャルだが現実感たっぷりの死者との出会いが用意されているのである。

 まぁそんなこんなで今はエントロピの本にも心惹かれるが、こちらの「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」の方が強く私の読書熱を掻き立てているのである。いま教養書である新書版のその本を二冊借りて初歩の知識を得ようとしている。今日のブログを書いたことをきっかけに気を入れて本を読んでオベンキョしょぉや。

2024年4月18日木曜日

石井の藤

  石井町の藤で見所は、地福寺、徳蔵寺、そして童学寺の三ヶ所と言われているが、山際にある前山公園の藤も見事である。今、こちらは見ごろを迎えている。

 まるで幅広い滝のような藤である。藤波というより藤滝という方がふさわしい。


 その藤滝の裏に回って見上げるとこちらは藤のシャワーである。


 今日は遠景がかすんでいる、白っぽいが黄塵黄砂という人もいるが微粒子なのでこちらの方がふさわしい)が大陸からたくさん飛んできている。そう思ってみると遠景は若干黄色がかって見える。昨日の天気解説でも、洗濯物を外へ干すのは黄塵のため控えましょうとか、外出から帰って家に入る時は服を払いましょうとか言っていた。それくらいひどいのかと思ってしまう。しかし今日は昨夜遅く四国の南予地方で発生した地震のニュースのため「黄塵」の扱いは軽くなっている。

2024年4月17日水曜日

ローカルな民俗芸能歌のある解釈

 


 私が子供の時にある門付けが回ってきていた。正月のはじめである。祖父はその民族芸能を「でこまわし」と呼んでいた。人形浄瑠璃のような人形を数人の男のでこ回しが扱い、なにか目出度い歌を歌いながらそれに合わせてデコ(人形)が舞うのである。家々をその民族芸能集団が祝福して歩いていたのである。もう私が高校に上がるころには回ってこなくなっていたのでそのころには廃れていたのだろう。大人になって民俗芸能ことについて書いた本を読むと、昔我が家に回ってきていたのは「三番叟」という民俗芸能であったことがわかった。左のような三番叟の人形であった。

 私の思い出の民俗芸能はそれくらいのものだが、ここ阿波でも場所によってさまざまな民俗芸能が昔は行われていたのである。今日、小松島港をそぞろ歩いていると、このような民俗芸能の碑が建っていた。



 「せきぞろ」とある。その言葉の語源は、その碑を読むと、「節季で候(そうろう)」、節季つまり年末でございますよ、という意味からきている。そういえばうちの祖父も年末のことを「せっき(節季)」と言っていた。そのせきぞろはここ小松島では明治の末期まではあった民俗芸能である。もしかするとうちの祖父の出里の善入寺島にもその時代まではあったかもしれない。明治末年と言えば祖父はまだ十代だっただろう。もし生きていた時に聞いたら確かめられたのに残念である。左の絵がせきぞろである。三番叟と同じで、目出度い言葉を連ね、歌などを歌いながら、言祝ぐのである。ただしこちらは年末にやって来ていた。

 その歌も碑にある


 ちょっと皆さんも読んでみてください。適当に節づけて歌ってもかまいません。どうですか?私は読み終わった後、思わず微笑んでしまいました。

 なんで微笑んだかって?これ、何を言祝ぐ(ことほぐ)のでしょうか、わたしの考えは、もうそれは一つしかありません。つまり男女の性(セクス)をことぼぎ、子孫繁殖を願うものであります。

 ♪~ししは喰わねど、とあります、古語でシシは肉体のこと、~♪~シシ喰いこえて・・とは、つまり、ふかい男女の性器の結合のことを言うとりまんな、えげつないからこれ以上の解説やめますが、〇〇〇を喰う、っちゅうたら、わかりまっしゃろ、また擬態語のゾロリャ、ゾンゾロリ~も、性器結合の、擬態語でんな。

 ♪~橋の欄干腰うちかけて~、橋の欄干つまり橋の擬宝珠(ぎぼし)はこれはもう陰茎の亀頭そのもの、それに腰を打ちかけるんですから、女性上位で肉深く入ってまんな。そして~♪~キュキュキュと立ったは~ありゃなんじゃ、ってもうそれ以外考えまへんやろ。

 ここまではワイの妄想と思われるかもしれまへんが、次よんだらはっきりしますやろ、~♪~義経はんと静かはんが・・夜も昼も抱いて寝て、とあります。これセクス以外になんぞありまっか?そして擬態語が続きますな、ヨンボリ、ヨンボリ、ヨヨンボリ、これは性器結合のある形態を表してます。烏帽子かけたる烏帽子岩、烏帽子は当然陰茎の亀頭、烏帽子岩はそうすると女体の秘所っちゅうことでしょうな、そして締めは、ゾロリャ、ゾンゾゾリ~、こりゃ愛液か精液がゾロゾロ出てくる解釈も考えられますが、最後は、目出度い、というんですから、セクスの結果、子供がゾロゾロ誕生で目出度い、とした方がええですわな。

 いやぁ~、昔の民俗芸能は性の描写もおおらかでよろしおまんな。

2024年4月13日土曜日

さんぱっちゃ

  昨日、佐古二番町の大通りを通っていると、銭湯でよく会う兄ちゃん二人が店の前に立っている。「あ、ここが彼らが働いているお店か」とわかった。自転車に乗っていたので会釈だけで通り過ぎたが、掲げてある店名が読めない。四文字の漢字で三戻生変、「なんと読むんやろ」、昨夜も銭湯であったので読み方を聞くと「サンモドリウマレカワル」という。店名にしては不思議な名前だ。


 ところでこのお店、何の店かわかりますか?大きな看板にはイラストも描いてある。これがヒントだがさて?

 イラストのおっさんが赤塚不二夫のおそ松くんに出てくるキャラのイヤミに似ているが、それはともかく、どうみてもこれは風呂屋(銭湯)の内部ではないか、しかし風呂屋ではない。右から手が伸びていてバリカンを握っているのが見えると思うが、ここは理髪店(さんぱっちゃ)である。店の名も看板もシュールすぎる。

2024年4月8日月曜日

勝浦さくら祭りに行ってきた

  我が阿波各地のさくらの満開もおおむね過ぎつつある昨日、勝浦のさくら祭りに行ってきた。先日下のような祭りのパンフをもらっていたので場所や祭りの各イヴェントについてはあらかじめ知っていた。ところで下のパンフのイヴェント(催し物)日程票を見てほしい、これで見ると4月5日にはすべてのイヴェントは終わることになっている(ライトアップのみは10日まで)、これはパンフを作ったのはおそらく冬頃と思われ、この時点では例年のように暖冬で桜が早く咲き、早く散るということを見越してのことのであった。ところが2,3月と気温が低い日が続き今年は開花が遅れたため、このパンフよりイヴェントは遅くまで続けることとなり、昨日まで盛りだくさんの催しが行われた。


 日曜ということもあり、祭り会場付近の駐車場はどこも満杯、係の人に「どっか、とめるとこおまへんか?」と聞くと、少し遠いが(上の地図の左端切れた所より少し行ったところ)小松島西高校勝浦分校の校庭に駐車できるとのことで、そちらにいって駐車した。休日で静かであったが、勝浦分校と聞いてある思い出がよみがえってきた。この分校は以前は「勝浦園芸高校」といって独立した高校であった。今から半世紀以上前、大学の時、親しくしてもらった大学事務局職員の人がこの学校出身だった。国立大学の事務職員なので国家公務員になる。高卒で採用されて私より二歳ほど上の人だった。お互い波長が合ったのだろうか、向こうが暇なときは用もないのに事務室に邪魔をしていろいろな話をしたものである。また親しくしてもらったおかげで、学割や各種証明書に便宜を図ってもらった。ただそれだけの思い出で、しかも半世紀以上も前の記憶がふとよみがえったのである。「こりゃ、なんぞ?死ぬときは走馬灯のように過去の思い出が次々浮かんでくるというが、まさか、ワイ、死期が近いんとちゃぁうんかいな」

 上の地図の左上の川沿いの桜並木を歩いた(生名ロマン街道となづけている)。多くの桜並木の満開の桜が盛大に散っているため、流れの遅い川面はところどころ堰かれてこのように水面がピンクの絨毯を広げたようになっている。右にチラリと写る美女は、この日のイヴェントの一つ、衣装やメィクでアニメキャラになりきっているオネィさんである。県の不手際で今年の徳島のマチアソビが中止になったが、ここ勝浦では代わりに開催されているようだ。


 観光のかんどり船も出ている。もちろん銭をとる。


 高曇りの空の下、桜木と空を映した水面に、あてなくたゆたう「花筏」、明日は雨、

 桜の鑑賞も今日までか。

2024年4月5日金曜日

椿とウコン桜

 徳島城公園のソメイヨシノは今日、ほぼ満開を迎えた。週末にあたる今夜は夜桜見物の人が大勢でていそうである。

 同じ公園でこちらの花も咲いているが、桜ほど目立たないので見る人はほとんどいない。

 栽培種の椿(八重椿)、枯れた樟の巨木のそばにある。たくさんの花をつけている。


 椿の野生種・ヤブツバキ


 こちらは桜の仲間ではあるが花の色が変わっている。その色の名前から鬱金(うこん)桜と名付けられている。厳密には輝くような黄色のうこん色ではなくそれに似た緑がかった黄色である。