2020年2月27日木曜日

これは大事、メモしとこう(阿波国限定版)

 四日以上、37.5℃以上の発熱がつづくなら相談てか。辛抱たまらんと、相談条件満たせへんのに相談してくる人もおるやろな。

 暖冬傾向が続いているが今日はちょびっとびゃぁ寒い。ほにゃけんど前紹介した蜂須賀桜、みたところ満開じゃわ。早くも落花が小寒い風に舞っとる。
 花の下の芝生はピンクの落花をまぶしている。

2020年2月25日火曜日

そういやぁ~大昔こんなテレビコマシャルもあったなぁ

 国民に向けて今回の新型コロナウィルス感染症に対してどない対処したらええか、その指針が政府から発表された。ホンマにそれで防げるんかいな?それによるともし罹ったらすぐには病院に駆けつけんように、前もってどっきゃらに電話せえっちゅう、電話が殺到してつながらんのとちゃうか?そして親身に相談に乗ってくれるんやろか?不安いっぱいやわ。また今後ウィルスが変異して(聞くところによるとコロナウィルスは変異する傾向が大きいらしい)凶悪化しないかも心配だ。薬もワクチンも今のところない。このままどんどん感染が広がるとどないなるんやろ。自粛自粛で不況になる可能性もあるという。恐ろしいこっちゃ。

 大昔だがそういやこんなコマーシャルがテレビ放送されていたな。今放送されていなくてよかったわ。洒落になれへんわ。

 車コマーシャル、「あなたの安心をのせて走ります、安心のコロナ!」

 カメラコマーシャル、「ウツルンです、私にもうつせます!」

2020年2月21日金曜日

蜂須賀さくら咲き始める



 徳島公園助任川沿道の蜂須賀桜並木が1~2分咲きで花をつけ始めている。

 ワイのチンマイころ、春は厳しかった寒さも過ぎて(冬が温暖化して今年なんどは厳しい寒さもあれぇ~へんがな)ポカリポカリと暖かく、庭でのんびりと日たぼっこをしていたウチの腹ボテ猫が春子を産むのもこの頃だ。外では花々が咲きそろい、学年が終わるからかそれとも新しく始まるためか何となくウキウキワクワクするのもこの頃だ。また春の好き日を選んでここいら辺には遊山日とか言うのがあって祖母がお重(ウチラでは遊山箱ともいう)にお煮しめ卵焼き、海苔巻きなどを詰めてくれてそれをもって家族一緒に遠出などを楽しんだ。そんな思い出からか中年を過ぎるまでは春にはいいイメージがあった。

 しかし中年すぎてからオイラは「花粉症」とかいう季節性鼻炎に毎年罹り春が終わるころまで悩まされつづけ、それも年々ひどくなっている。世を騒がす事件事故天災が起こるのもワイの中年以後は春が多い。淡路阪神大震災がありウチラにもその影響が徐々に広がったのが平成七年初春だった。そして同じ年の三月、宗教団体○○真理教が神経ガスで無差別大量殺戮を企て世が騒然となったのも春だった。そして数百年以来の規模といわれる東北大震災が起こったのが平成23年3月11日。そして今年は新型ウィルス感染の広がり、これは現在進行形で全く新しいウィルス病なので実態がよくわからないところがあり、今後の展開は見通しがきかず不気味である。

 それぞれ起こった時期は近接もあり十年以上離れているのもあるが春の出来事が多い。中世の年代記のようここ数十年起こった災厄の羅列すると世の終末が近いんじゃないかと恐怖すら覚える。そんなわけで最近、春爛漫の季節を迎えてもチンマイころのように「春が来てうれちぃなぁ~」というように感じられない。特に今年は中国渡来のウィルスが蔓延しつつあり、春には大陸から必ずやってくる黄塵に混じり、どんな被害をもたらすかわかったものではない。マスクとアルコルでの手指消毒だけで乗り切れるのか、春はオイラには鼻炎の苦しみ、世には重い試練の季節となっている。

2020年2月20日木曜日

岩屋港の絵島

 先週火曜日、須磨観光に行ったのは前々回のブログで紹介したとおりである。その観光についてであるが、新型ウィルスが大陸で蔓延しているせいもあろうが、須磨の観光地には外人観光客どころか日本人観光客もずいぶん少なかった。この日は「建国記念日」の祝日であったにもかかわらずである。

 「須磨はマイナーな観光地なんだなぁ」
 
と思い知らされるには十分な静けさであった。ワイの思い込みから言うと、須磨・明石といえば源氏物語における光源氏の流謫の巻が思い出され、しみじみした情景などが思い浮かんでくる。また源氏物語の内容を知らない人でも、須磨や北淡は百人一首にそれぞれ二首も取り上げられているため、普通の人にも十分有名であると思っていたが、どうもそうではないようだ。この日は友人と二人で北淡、須磨をまわったが、その百人一首の
 
 「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」

 「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」(松帆の浦は北淡の先端にある海岸)

でこの地は有名なのだ、と説明したがどちらも

 「知らん!」

とか言っていた。まあそうだろうな、明治大正期の人ならば百人一首はすべて覚えていてどの和歌もすらすら口をついて出てきたが令和の御代に生きる人でそんな人は一割もいるかどうかだろう。むしろ須磨は前のブログで紹介した平家物語の「敦盛最後」の地として知られている率が高い。現代人には男女や人々の細やかな情を描く「源氏物語」より、きらびやかな栄華、華々しい戦闘などの叙事詩的な記述の「平家物語」のほうがよく知られていて好まれている。また映画、ドラマ、舞台、歌舞伎にも平家物語は多く取り上げられているので「敦盛」のことは意外と知っている人が多い。

 実はこの友人はかなりの歌舞伎ファンなので「敦盛最後」のことは歌舞伎の舞台でよく知っていた。歌舞伎の敦盛最後を描く演題は『一谷嫩軍記~熊谷陣屋』である。ところで二人で須磨寺の庭で敦盛と熊谷直実の騎馬像の銅像を見つつ話しをつき合わせると二人が知っている「敦盛最後」の内容がかなり違うのである。こういうのはよくあることで、歌舞伎は「実は・・・」などと言いながら、ほとんど史実を無視して、意外な人物が名もなき配役の中に隠れていたり、悪人はホントは善人であったり、また死んだとおもわせて別の人物を殺し、本人は生きていたとかいう手法がとられる。友人の歌舞伎を通して知っている敦盛はまさにその手法をたっぷり使った芝居であって、実は敦盛は熊谷との一騎打ちでは死なず生きているのである。身代わりに死んだのは直実の一子、小次郎で、この身代わりを容認したのは義経である、それというのも平敦盛は実は後白河法皇の御落胤であったというのだから、これぞ歌舞伎!というような筋立てである。

 敦盛最後は千年近い大昔だから史実にいくつかの異説があるのはわかるが、歌舞伎の敦盛の筋立てはあまりにもブッ飛んでいて、信用度から言うと一騎打ちの結果、殺すに忍びない美しい平家の公達を心を鬼にして討ち取ったという平家物語のほうが信用できる。多くの歴史学者も須磨浦の戦い(一の谷)で敦盛は命を落としたとみられている。

 一般的に言って現代人の多くは源氏物語、平家物語、百人一首など関心もなく、高校の時「古典」でチョロッと習ったっきりの人ばかりで、須磨明石の名所旧跡も知られておらず、そこがマイナーな観光地になるのも頷けることである。実はこのワイも先週の日帰り遊山で源氏物語や百人一首そして平家物語などを回顧しつつ、北淡~明石~須磨の旧跡を経めぐったが、歳ぃ食って記憶も薄れるどころが消滅してしまっていたものがあって、せっかくいいものを見ながら思い出せなかった史跡があるから偉そうなことはいえない。帰ってきてからあるきっかけで蘇ったものもある。次にその話をしよう。

 淡路の最北端の岩屋港で連絡船を待っていた。半時間くらい待ち時間があった。待合室から見るとすぐ前は海の護岸があり、そこから小島が見えている。小島は岩石島であり岩肌は浸食でなかなか趣深い形をしている。褐色の岩肌が大部分ではあるがところどころに小松や灌木も生えている、高くない頂上には小さな祠が見えている。待合室の出口からは百メートルもない距離で護岸から一本の橋が渡してある。すぐそばにあるので待ち時間を利用して見に行った。小島に渡れるのかと思って橋を渡ったが渡り切ったところで通行止めになっている。横の説明板を見ると、この小島は「絵島」といい、名所旧跡のスポットで平家物語で清盛が月を愛でた場所という伝説が残っているという。
 下がその「絵島」である。

 この北淡・須磨への遊山は十日も前の話でいまさら思い出すような関心もなかった。ところが昨日、もう何週間も前から読み進んでいた「金閣寺」(三島由紀夫作)の英語翻訳の小説を読み終えた。なんで英語で「金閣寺」か?衒っているのかとも思われようが、高校時代に初めて読んで以来何度も読んでいていまさらまた読むには飽きていたので英文ででも読めばまた新鮮な読み方もできようかと思ったこと。そしてもう一つは歳ぃ行って物忘れが加速し、蓄えていた英単語も読むことによって再確認しなければどんどん失われるのでそのメンテナンスも兼ねてである。

 昨日に読み切ったので、当然昨日読んだのは最終章の金閣寺を燃やす直前の躊躇、葛藤、そして実行を描いた場面である。三島の小説を読んだ人にはわかると思うが、彼の文体は比喩(暗喩も含め)が多く、また日本古典文学からの引用が多い。その中で(読んだのは英語翻訳文だが日本語に直すと)、主人公(金閣に放火する直前に)が暗闇の中ではあるがありありと実体感のある情景をみる部分がある、それに謡曲・弱法師の「俊徳丸」を比喩として出しているのである。

 古典の中での俊徳丸は盲目である。当時(中世)、西方極楽浄土の門に最も近いといわれたのは大坂・四天王寺の境内の西門である。そこには阿弥陀仏の慈悲を頼って極楽往生を願う人が押し寄せている。浮浪者(境内にたむろする)のほとんどは不具者、不治の病(ライ病など)の者、乞食である。その中に俊徳丸もいるのである。盲目の俊徳丸は天王寺の西門(昔はそこから西方の海が見えた)に向かい極楽を実体験できる「日想観」を試みるのである。盲目で見えないのになぜか俊徳丸は「ああ、見える、見える、須磨明石、絵島が見える・・・・」とか言うのである。三島の「金閣寺」の主人公の描写比喩の中にその「日想観」そして「絵島」という語が出てくるのである。それを読んだときにピンときた。「絵島」?もしかして先日の連絡船待ちのときみたあの島か?実はそうだったのである。俊徳丸が盲目ながら見たのはその「絵島」だったのである。

 十日前に「絵島」を見た時は「清盛の月見伝説」としか書いていない説明板しか見なかったのでわからなかったが、俊徳丸のこの「日想観」に「絵島」が出ていたのである。もちろんその話、ワイは以前から知っていたが昨日の三島の小説「金閣寺」の最終章を読んで気づかされるまで忘れていたのである。

 古典の俊徳丸は敦盛の話と同じでいくつかの作品がある。引用しているのは謡曲の「弱法師」であるが「説教節」や歌舞伎の「摂州合邦ヶ辻」にも俊徳丸は出てくる。俊徳丸が天王寺の西門から西海に向かって「日想観」を行うが、地図を見るとわかるがまさに天王寺の西門の真西に当たるのが淡路の絵島、須磨、明石である。

 「俊徳丸」「弱法師」「日想観」「天王寺の西門」などについてはよくわからない人もおられましょうが以前それについて書いたワイのブログがありますのでよかったらそちらもご覧ください。

●天王寺の妖霊星(ここクリック

●やまさん中世を歩く その6 西への門(ここクリック

2020年2月16日日曜日

そごう百貨店、カンバンをおろす

 ワイのブログでfare-well(告別の言葉)を送ったのはいくつだろうか。過去のブログをめくってみた。(クリックするとそのブログに飛びます)

●吉野川遊園地の廃園 ここクリック

●アナログ放送の終了 ここクリック 

●上桜温泉の廃業 ここクリック

 そして今日、早くもそごう百貨店の看板が大きなクレンで吊るされて下ろされていた(実際の廃業は八月末日だが)。通行する人の幾人もが立ち止まって携帯やスマホで降ろされた看板を撮影していた。愛着のある人が多かったのだろう。ワイの横にいたおばはんは声に出して、さびしぃなぁ、と感慨深げぇな声を出していた。

 始まりがあれば必ず終わりは来る。わかっているが、歳ぃ~くって長生きすると見送る終焉も多くなる。遠からず自分の順番も来る。

2020年2月13日木曜日

こくぞはん

 虚空蔵菩薩さんちゅう仏さんがいる。どちらかというと有名な仏さんでない。ワイがチンマイときには明治生まれの祖母がよく寺などに行ったとき、本尊も含め境内のあちこちにある脇仏も礼拝した。「かんのんはん」「おっぞはん」とともに今から考えると「虚空蔵菩薩」にも礼拝し、傍にいるわたしに「おまいも手ぇあわして、こくぞはんに、よぉ~お参りしぃや~」といっていたのを覚えている。しかし現代では虚空蔵菩薩と聞いて、え?こくうぞうぼさつ?いや~知らんな、聞いたこともないわ。米の害虫の一種でぇ?(そりゃ、穀象虫・コクゾウムシやろが!)ととんでもない返事が返ってくるくらい知られていない。若い人も含めた現代人がだいたい知っている仏さんといえばどういう仏さんだろう。

 まずお釈迦さん、仏教の開祖でみんな知っている。それから阿弥陀さん、南無阿弥陀仏っちゅう言葉を聞いたことない人はおらんやろ、それから観音さん、お地蔵さん、ここまでは学校の教科書にも載っているくらいだからまず知ない人はいない。それ以外となると急に知らん人が増えてくる。お薬師さん、文殊菩薩はんとなるとどうだろうか。でも「三人寄れば○○の知恵」の○○には何が入るでしょうか?と聞くとまず「文殊」と答えるやろ、と思いたいが、なんかとんでもない答えが返ってきそうである。お薬師さんの方は多くのお寺で御本尊として祀られている割にはあまり知られていない。現代人は病気になればまず病院へ行く、そうすれば病名も確定してくれるし、その症状を即効的に改善してくれる処方もしてくれる。大したことなければ服薬のみで済ます。お薬師さんに平癒を頼むこともなくなっている。お薬師さんの名があまり知られなくなったのも時代の趨勢かなぁ。

 虚空蔵はんになればもっと著名率は下がる。真言宗の修行の中では大変重要な仏さんであるが、そんな修行の通(つう)が幾人もいるわけないから知らないのも当たり前である。また十三仏の一つではあるが、十三仏のしくみも今は注目されることが少なくなっている。ただ虚空蔵さんは「守り本尊」として護符的な意味で知られることがおおい仏さんである。

 現代、あまり宗教に関心のない人でも西洋流としては、占星術やタロット占い及びそれに基づくなにか「護符的なもの・あるいは行為」、神道流では陰陽道系の護符、そして仏教系では咒言真言あるいは先に言ったような「守り本尊」としての仏さんのお守り、などがジジババだけではなく若い人、それも女性などに関心が高まっている。その中で虚空蔵はんは「丑(うし)・寅(とら)年と1・2月生まれの人の守り本尊」であるから、それに該当する人(若い人も含め)には虚空蔵菩薩は意外と知られている。

 それにしてもこの仏さんの名前の「虚空蔵」というのは不思議な文字である。「大日はん」は「世界を遍く光明で照らす」という意味を含むから「大日」すなわち「大いなる日」という意味に理解できる。「観音はん」も「観世音菩薩」で「世を観たまう(すべてを知ることはすべてを救済することと同じと考えられる)」何となく文字の意味が納得できる。それに対し、「虚空」+「蔵」、うぅ~ん、何のこっちゃ?「虚空」を強いていいかえれば空虚な空間、とでも言おうか。でも空虚な空間という意味を含む仏さんがなんで衆生の救済の菩薩さんと結びつくんやろ。

 そこで浅薄ながら本などでちょろっと調べた。まずワイが重視したのはその「生まれ・ルーツ」である。だいたい仏・菩薩・明王・天などはほとんどがインドがルーツである。それらの個々の仏はんはインドにルーツを遡るほどそれぞれにかなり強い個性を発揮してくれるので、特にその名前が付けられた意味を知るには起源のインドではどうだったかを知るのは大変参考になる。

 そうするとワイが思いもしなかったことがわかったきた、でもよく考えればなるほどと納得することではあるが。それはまず「○○蔵」の「蔵」の文字に着目する。そうすると「虚空蔵」はん以外に「○○蔵」がある仏さんは・・・そう!よく知られた「地蔵」はんがいる。そして「蔵」の前に来る二つの仏さんの文字を対比させると、「虚空」~「地」、そうつまりこれは「大いなる空」と「大いなる地」、いいかえれば「大空」~「大地」の対比になる。そのためルーツのインドでは「虚空蔵菩薩」と「地蔵菩薩」が空と地のように一対で作られていたのである。日本でも最も古いこの菩薩の作造例では対になった虚空蔵・地蔵菩薩が知られている(後にはそのような対の作例は皆無となるが)。

 古いインドの空と大地の神々、それらにこの二菩薩の最初の流れがありそうである。古代においては多くの民族に「大地」の女神信仰、つまり「地母神信仰」が見られるのが知られている。大地は農耕の最も基礎となる「土地」であり、それは潜在的な生産力を含む大地、となる。生産力を祈るのに「地母神信仰」が古代世界共通に見られるのも頷けることである。なぜ母神かは、土地が作物を生むのと同様、母は多くの「子」を産み、豊饒の母体という意味で大地と重なる。そうすると対になっている「大空」もやはり、人々に豊饒をもたらす元と考えられる。空から落ちる恵みの雨、天空から降り注ぎ作物を実らせる陽の光、みんな空からやってくる。いやそればかりではない、空から降り注ぐその他のもの、月の光や星の光でさえもなにか神秘的な影響をもたらすものと考えられた(それは作物の豊作や家畜の増殖など目に見えるものばかりではなく、人の内部にある知恵、知力、幸運などとも考えられた)。

 虚空(つまり大空と解釈した場合)にはそのような「豊饒」(物質だけでなく人の心のなかのモノも)の意味もあるが、古代インドの仏教学者は極めて深い哲学的思索や瞑想を行った人々である。「虚空」には豊饒とは違ったかなり難解な意味も付与しているのではないかとオイラは思うのである。

 各種仏像の種類性質を概略した本の解説によると「虚空蔵菩薩」はんの命名については次のように言われている。

『智慧と福徳が虚空のように、天空・大空のように、かぎりなく、はてしなく、尽きることがなく、まさに無尽蔵であるという意味から虚空蔵菩薩と名づけられたという。』

 これから浮かび上がるキーワードは二つ、一つ目は
 『無限の広がり(虚空の意味)』
 そして二つ目はその虚空は
 『無尽蔵(無限)のモノ(この場合、知恵・福徳)が蔵されている(蔵にしまうように)』

 まず無限の広がりの虚空であるが、普通に解釈すると際限なく広がる物質の何もない空っぽの空間しか思いつかない。つまり真空が無限に広がる空間である。空虚でな~んもない、でもそこには汲めども尽きせぬモノが蔵されている。はたしてそのようなことがあるであろうか?

 ワイがベチャクチャと説明するより百聞は一見に如かずで、密教の宇宙観を表す金剛界曼荼羅の中心部「成身会(じょうしんえ)曼荼羅を見てみよう。

 上が成身会曼荼羅図。真ん中の中心には宇宙そのものの化身であり宇宙に遍在する化身の「大日如来」がいる(智拳印を結んでいる)。注意してほしいのはその余白である。リアルな(現実の)宇宙空間と比喩的象徴的に例えるならば各仏が銀河太陽系のような一つの世界、他の仏は何万光年も離れた別の星雲系の世界とでもいおうか。そして余白は当然それらの系(銀河星雲とかアンドロメダ星雲とか)の間に広がる「空虚な宇宙空間」になる。物質は無く、真空の空間である。
 その余白をよく見ると何か模様のようなものが見える。うん?成身会の仏と仏の間の余白には何か模様なものが存在している?

 そこでこの部分、四角で囲ったところを拡大してみよう。

 するとなんと模様と見えたのはギッシリと詰まった無数の仏たちである。仏と仏の間の余白、いわば虚空は空虚な無の空間ではないのである。そこには仏が遍く詰まっている。この余白の模様のように見える無数の仏を「賢劫仏」と呼んでいる。

 なるほど成身会曼荼羅世界の余白の空間(虚空と比喩的に言っていいだろう)は決して空虚な無ではなく賢劫仏という無数の仏が余すところなく存在しているのはわかった。でも我々が存在している現実の宇宙はそうではあるまい。真空に限りなく近い膨大な空間が存在し、理論的には「真空」さえ考えられる。それこそ真の空虚であり無の空間であるのではないか?仏教のいうような尽きせぬモノが蔵されている虚空なんどということが信じられるはずはない。

 はたしてそうか?20世紀の初めまでは、物理や天文学の知見によると、真空は(理屈では)存在し、それは何物をも含まぬ空疎な無の空間であることに疑問は持たれなかった。ところが20世紀初めにそれまでの物理・天文学の常識がひっくり返されるような学問分野が生まれてきた。「量子力学」である。その量子力学の扉をギギギィーと恐る恐る開けてみると、ちょっと信じがたいとんでもない言説が飛び出てきた。それをちょっと漫談風にまとめてみた。

 「あんなぁ~、真空はなんもない無の空間ちゃうでぇ、実はな、真空は負のエネルギもった電子がびっしり詰っとんやで、イギリスの偉い学者のディラックっちゅう人がいうたんや」

 「なんやそれ、むつかして、よ~わからんが、真空は無の空間でなく、なんやら知らんがけったいなもんがいっぱい詰まっとるっちゅうこっちゃな、ともかくワイが真空は空虚な無の空間と思とったんとはちゃぁうちゅうこっちゃな」

 「おっさん、驚くのはまだ早いで、それからちょっと後のやっぱイギリスのホーキングっちゅう学者はんは、なんとホンマになんもない「無」の空間から、なんやったかな、そうそう「虚数時間」ちゅうたかいな、いやぁ~「虚空間」やったか、その揺らぎがどうたらこうたらで、なんと「無」からビッグバンちゅうて、ポンてはじけて「有」つまり花も実もある「宇宙」が生まれたそうや。」

 「え~、ワイの理解の埒外なこといわんといてほしわ、虚なんたら、揺らぎたらで「無」から宇宙が生まれたてかいな?そんなこととても信じられへんわ。そいつホンマに学者か、ほててんごのかわぬかしてけつかるんとちゃうか。」

 「いやいや、おまいの何万倍も頭のエエ大勢の学者はんが納得してる理論らしでぇ」

 「ふぅ~~~ん、長生きはしてみるもんやな、なんもない真空空間と思ってたら、そこは真空ちゃぅ、なんかがびっしり詰まっとるっちゅうし、それどころかしまいにゃ宇宙は「無」から「有」が生じるようにでけたってか。めまいがしそうな話やわ」

 とまあ、量子力学で素人が一番驚くようなセンセーショナルな言説を長屋談義にするとこうなる。そんなことを聞いたあと、仏教の「虚空蔵」はんにかえり、仏教の言説をもう一度噛みしめてみると、虚空蔵の「虚空」には無尽蔵のモノが蔵されているという。なるほどなるほど、うんうん。量子力学風の談義を聞いた後では、なにやら「虚空」が意味深に思えてきて、確かに「虚空」から無限のモノが生み出され、汲めども尽きない蔵のようなものであるという不思議な言説も信じられるようになるから不思議である。虚空蔵はんの「虚空」と「蔵」に現代量子力学に似通うものを見るのはオイラだけだろうか?

 まあそれはともかく、虚空蔵菩薩さんはインドで生まれ中国を経由して日本に入ってくるまでに広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味が付与され、そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されているのは事実である。お大師っさんが虚空蔵菩薩のこのご利益に着目し、「虚空蔵菩薩求聞持法」を、ここ四国の行場で修したことは有名な話である。お大師っさんは千年に一度現れるかどうかの天才だが、この虚空蔵菩薩求聞持法を修したことがそれにあずかっているのかもしれない。そのため今でも行場などで虚空蔵菩薩求聞持法を行う人がいる。これにはいろいろ作法があるそうだが、聞くところによると虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるそうであるから、並大抵の人が手ンごろ易くできるわけではない。ちなみにその真言は
 「なうぼう、あきしゃきゃらばや、おんありきゃ、まりぼりそわか」
である。

 四国における虚空蔵菩薩が本尊の寺はそのためか修行場の近くの寺が多い。室戸の洞窟の近くの寺、そして太龍嶽近くの寺などである。先月行った取星寺も御本尊は虚空蔵菩薩である。取星寺の本堂の御本尊は見られないが境内に虚空蔵菩薩像があるので見てみよう。

 厳しい修行の御本尊ではあるがお優しいお顔をしている。そして特徴的な持ち物(三昧耶形)は宝剣と宝珠であり、それぞれの手にそれを持っている。

 ウチの近くでは御本尊ではないが藤井寺に虚空蔵菩薩はんがいらっしゃる。地元では奥の院と呼ばれる谷の奥に虚空蔵菩薩像があり昔から信仰を集めている。

 ここ藤井寺は焼山寺手前の里にある寺ではあるがお大師っさんがこの谷で修行したという伝説のある「八畳岩」がある。下がその八畳岩の動画である。

2020年2月11日火曜日

須磨寺・モラエスさんとおヨネの最後の思い出の場所

 北淡の「あわ花さじき」へ寄った後、島北端の岩屋港に車を置いて明石に渡った。名物の明石玉子焼き(明石風たこ焼き)を食べ電車で須磨へ行き、須磨寺を参拝した。

 下が「あわじ花さじき」菜の花は満開だが他の花はほとんどなかった。明石海峡を望む小高い丘にある、明石海峡大橋の橋脚が見える。

 モラエスの書いた『おヨネとコハル』を読んでから、一度須磨寺を訪れたいと思っていたが今日実現した。朝、出る時は須磨寺などは頭の片隅にもなかったが、淡路北端まで来て思い立ち、須磨まで行った。北淡まで来ると須磨はすぐそこ。

 須磨寺境内。右の大きな建物が本堂。

 見るまで何宗のお寺かも知らなかったが、本堂の横に大師堂があり、境内に五智如来像があるのを見て、すぐ真言宗の寺とわかった。
 下は五智如来(大日如来を中心に五人の如来がいる)。胎蔵曼荼羅の中心部の仏を表す。このような五つの彫像は真言宗の立体曼荼羅ともいわれる。

 この寺の一般的な観光ではやはり源平合戦で有名な平敦盛と熊谷直実との須磨浦での一騎打ちであろう。まだ少年で戦の経験もない平家の公達と百戦錬磨の坂東武者熊谷直実とでは勝負にならず、敦盛は討ち取られる。平家物語によれば、わが子とよく似ている年恰好の敦盛を直実は殺すに忍びず、逃がそうと思ったが、味方の源氏の兵も打ち寄せ見ている中でそれはならず、泣く泣く首を討ちとったとされている。
 須磨浦での平敦盛と熊谷直実との一騎打ちの彫像が須磨寺の境内にある。下がその「源平の庭」

 そして私が一番見たかったのはモラエスとおヨネの最後の思い出の地、須磨寺境内の「敦盛首塚」である。広い境内なので掲示の地図を見てその首塚を探すとあった。

 敦盛首塚(首を討ち取られたためか首塚はここ、そして胴塚は少し離れた須磨浦公園内にある)


 モラエスとおヨネの最後の思い出の地、須磨寺

 明治が終わる年の六月のある日、病気でほとんど寝ていたおヨネは不思議とその日は気分がよく起き上がり、神戸三宮・加納町にモラエスと住んでいた家からここ須磨に二人きりで一日だけの遊覧を楽しんだ。そしてこの敦盛首塚に詣で、モラエスはその首塚をおヨネとともに撫でるように参拝したと記している。(文字通りモラエスは石の五輪の塔の墓を撫でたそうである)
 そしてその首塚から帰る途中茶店でおいしい水蜜桃を買いおヨネと分けあって食べた、おヨネは病でほとんど食欲がなかったがその水蜜桃はとてもおいしそうに食べ、それを見たモラエスも幸福感に浸されたそうである。結局、それがおヨネとの最後の外出の思い出となった。おヨネは帰るとそのまま寝つき二か月を待たずに亡くなるのである。

2020年2月3日月曜日

「アルキメデスの大戦」を見て

週末、DVD新作映画が百円で借りられるので二本見た。「キングダム」と「アルキメデスの大戦」だ。どちらも漫画が原作のようだ。私の場合面白かったのは「アルキメデスの大戦」のほう。歴史が好きだから大陸の時代物映画もよく見るが「キングダム」は超人的すぎて史実、リアルさを望む私にはちょっとついていけない所がある。でもゲーム好きの若者には受けがいいのかもしれない。

 さて「アルキメデスの大戦」だが、これから見る人もいるだろうからあらすじなどは省くとして、なぜ題名にアルキメデスと入っているのだろうと考えた。そこから引き出されるのは「数学者」と「戦争」である。中学生くらいの教科書だとアルキメデスは浮力を理論化した物理学者として見られるが高校生だとむしろ彼の数学者としての成果を習うことになる。無限数列、それを使って複雑な各種の図形、立体の面積、体積を求める方法など微積分の基礎となるものである。ピュタゴラスとともにギリシャの生んだもっとも偉大な数学者の一人である。
 もう一つの「戦争」これはアルキメデスとどんな関係が?と思われようが、彼は大掛かりな新兵器(敵を驚かせ敗走させた)を発明し実戦に用いたことが伝記に語られている。例を挙げると大きな凹面鏡を作りそれに太陽光を集め敵の船に焦点を当て燃やす兵器、そして滑車やテコの原理を用い敵の船を持ち上げひっくり返す兵器などである。今から考えても極めて斬新な兵器である(ホンマかいなと疑問もあるが伝記にはそうある)

 「数学者」と「戦争」はなるほどアルキメデスにおいて結び付いていたが、この映画の背景となっている第二次世界大戦のような近代戦ではどうなのだろう。戦争は数学者より、物理・化学を基礎とした工業技術者の方が有用になっているのではないだろうかとも思うが、数学者の有用性は衰えるどころかますます大きくなっているのである。近代戦において、あるいは現代はそれよりももっと数学者の重要性が増している。
 数学者は見えぬところで活躍している。第二次世界大戦においてはそれは「暗号分野」である。電波(情報)が飛び交う戦時空間において敵に見抜かれぬ暗号づくりがいかに重要かは説明するまでもない。それと同時に、敵の暗号を素早く解読できることも。これは戦争の勝敗を決するくらい重要なことなのである。日米戦の戦史を紐解けば日本が負けたのは物量の差以上に暗号解読の情報戦に負けていたのがわかる。大戦末期にはこの暗号解読のために英国でコンピューターのもととなる機械がある数学者によって発明されたのはコンピューターの歴史を知っている人は良く知っている話である。そして現代は情報戦が主役になりつつある時代である。その情報戦を戦える戦士は高度な数学的能力が必要とされることは言うまでもない。

 数学者と戦争の結びつきはよくわかったがこの映画では主人公が発するある言葉がもう一つの重要なキーワードとなってこの映画を特徴づけている。主人公は何度も口にする。「美は計測できる」あるいは「計測できる美しさ」というような言葉である。これだけでは主人公が何を言いたいかよくわからないが、私が聞き取ったのは、美には数学的秩序(調和とよんでもいいかもしれない)があるということである。アルキメデスの属した古代ギリシア人は「美」と「数学」を結びつけた。黄金分割しかり、音階の調和数列しかり、ピュタゴラスなどは特に数学的な調和の美を重んじた。このように古代ギリシア人は数、図形などの関係性の中に美を見出したのである。題のアルキメデスという言葉の中には「数学者」、「戦争」(兵器発明家)、そして数学的調和としての「美」の三者が入っていたのである。

 「美しい」ものを求め「美しくない」ものを忌避する主人公は当然、美の対極にあるもっとも醜きものとして「戦争」を嫌悪する。このような戦争映画では往々にして人道主義あるいは博愛主義的な観点から戦争の醜さを描くものが多いが、私はこのような作り方の映画より、「戦争は美しくない」といって切り捨てる主人公のほうが好きである。

 なおこの映画は架空の主人公・数学者の話であるが、当時、実際に日本海軍に数学者は雇用され暗号分野などに活用されていたのであろうか、残念ながら海軍に民間人(大学の数学者)を最も機密性の高い暗号づくりに使う度量はなかった。数学者のレベルは欧米に引けを取らなかったのにである。その点、アメリカなどは軍隊にどんどん民間人研究者を活用しいろいろなものを発明させ、しまいには核兵器まで作り上げるのである。戦後、日米の情報戦を知った日本のある数学者が暗号を自分にまかせてくれれば絶対に解読されないものを作って見せたのに、と自信をもって答えたそうである。

 最後に。主人公のいう「美は計測できる」あるいは「計測できる美しさ」ということから私は三島由紀夫の「美神」という短編小説を思い出した。「美神」と「計測された数値」がキーワードとなっている小説である。短いがなかなか味わい深い作品である。もし興味があったら一読してみてください。

2020年2月1日土曜日

しょうめんこんごはん

 江戸時代ウチラの地方で流行した大人気の仏さんがいる。「青面金剛」(しょうめんこんご)はんである。田舎を歩けばあちらこちらにそれを刻んだ石仏を見ることができる。田んぼの中の田舎道を歩いていると辻々にこの石仏があるんじゃないかと思うくらい多い。その隆盛ぶりがわかろうというものである。
 以前ワイの作ったブログから写真をあげるとこのようなものである。(これは名西郡神領の青面金剛石仏である)、阿波国の各場所において姿は多少は違っているがだいたい基本はこんな形である。

 みると六臂(手が六本)で法輪(車輪のようなもの)・弓・矢・剣・錫杖・そしてなぜか人間の髪をひっつかんでぶら下げている。足はたぶん「邪鬼」を踏んずけている。石仏の下面に彫られているのは三猿である。

 このような細かいことに注意を向けて観察できるようになったのはここ2~3年のことである。若い時は道端にたくさんある石仏もみんな「おっぞ~さん」(地蔵)の一種かなと思っていたくらいである。その後どうも地蔵とはちょっと違うようだとときどき確かめるようになった。確かに地蔵とは違うようだ、それで次には似ているからお不動さんの一種かなと思っていた。忿怒相で何やら恐ろしそうな格好であるからそう思ったようである。そして最近、ようやくその違いが分かるようになった。このような青面金剛を刻んだ(たいていレリーフ)石塔は江戸時代に盛んになった庚申信仰によって建立されたものであった。建立者は個人、一家である場合もあるが大勢の信者仲間が「講」を組んで立てたものが多い。

 しかし現代のこの日本では庚申講のような組織もなく、庚申信仰もほとんど廃れている。今、路傍の庚申塚に手をあわせている人でも石仏さんの性質はよく知らずに手を合わせている人が多い。さわらぬ神に祟りなし、の逆で、手ぇあわして拝み倒しときゃぁなんかご利益を下さるんじゃないやろか、というような感じであろうか。

 この青面金剛はん、路傍の石仏でしか見かけたことがなかったが3日前に大日寺へ行ったときに仏像としてのちゃんとしたお姿を拝んできた。下のようなお姿である。三つ目でお体は青い、そして蛇を何匹か体に巻きつけている。石仏ではわかりにくかったことである。
 板野・大日寺の青面金剛像

 その説明である。江戸時代作とある

 もともとは中国道教の信仰の神であったようであるが、上の大日寺の青面金剛さんをみると神仏習合の仏である「金剛蔵王権現」さん、あるいは密教の(不動明王も含んだ)五大明王に似ている。

 下が金剛蔵王権現(修験道の御本尊である)

 五大明王(中心にいらっしゃるのが不動明王)

 特に上記の五大明王の中の軍荼利明王(左下の明王)によく似ている。頭が一つであるのは不動明王も同じであるが、手が六本あり頭の数とも一致するのはこの軍荼利明王である。同じ軍荼利明王を別の図で見てみると体に蛇を巻きつけているところもよく似ている。

 前のブログで日本人の信仰心はいろいろな仏の尊格を組み合わせたりまたオリジナルの尊像にインスピレーションを受けてまったく新しい尊像を作ると言ったがこの青面金剛はんもそのようにして作らたものではないだろうか。尊像の古さからいえば、五大明王>蔵王権現>青面金剛、の順なので明王や蔵王権現に影響を受けて青面金剛はんも形作られたのかもしれない。

 大日寺にお祀りされている青面金剛さんは大日寺の本尊の脇仏でもなく大きめのお厨子に入れられて回廊に祀られているだけであるが、青面金剛さんがご本尊となっている寺もある。以前、ブログでも紹介した(天正寺猿神様のブログはここクリック)。猿神様じゃないのかと尋ねて行った佐古の天正寺である。
 本堂前、猿が両脇に控えている。

 本堂の梁には三猿がいる。