2019年5月20日月曜日

天王寺の妖霊星

20140828

 四天王寺は法隆寺と違い建物、仏像、その他形のあるもので飛鳥・奈良時代から残るものはほとんどない。そのような遺物として建物・物は残らなかったけれど、文化的な伝承遺産は残っている。その中で芸能史のうえで注目を引くのは古くからここ四天王寺に伝わり保存されてきた、古代の舞楽である「雅楽」である(演劇的パホーマンスの強い伎楽も含む)
  四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所と された「天王寺楽所」によって伝えられ、現在まで雅楽の最古の様式伝えている。古代から仏や神に捧げるため境内の舞台で演じられてきたので今まで途切れずに残ったのであろう。これはほとんど奇跡に近いことといっていいだろう。物ならば埋もれても発掘すれば再現されることもあろう。しかし、すぐ消えてしまう音楽や踊りはそうは行かない。ビデオがあるわけでなし歴史時代のどこかで一度中断されれば、再現はほぼ絶望である。
 雅楽のルーツは西域にあるといわれているが、荒涼とした今の西域地方では絶えてしまっている。そして中国はどうか、西域から伝わった雅楽・伎楽を完成したのは古代中国ではある。しかし時の変遷とともに多くの王朝が興亡を繰り返し、宮中に付随していた芸能は滅びた。その代わりの伝承者となる古代からの神社は中国にはまったくない(殷の時代にはあったとは思うが)。仏教寺院も王朝によっては迫害されたりして、意外なほど中国の寺院には古いものは残っていない。朝鮮はどうか、これはもうお話にならない。李氏朝鮮時代、仏教を大弾圧したため、取るに足るようなものは残っていない。
 4000年の歴史だの半万年の歴史だのと言っている両国がこの体たらくである。ところが日本では二千年も前の古代の雅楽が当時の音そのままに聴けるのである。古代(飛鳥)からの神社や寺院が途切れずに残ったおかげである。特にその保存伝承に関しては、奈良の春日神社(興福寺)とこの四天王寺の貢献が大きい。
 四天王寺の雅楽を今に伝える建物、舞台を見てみよう。
 まず雅楽はここ

 そして石で作られた舞台もある。(これは江戸初期のものだがもちろん古代から伝わる舞台があったはずだが木造であったので今はない)
  四天王寺はこのような古代の音楽、舞踊などを途切れることなく伝世してきたのであるが千年以上にわたって伝えられる中で、雅楽や伎楽などは、その時代時代の庶民(主に下層民だが)の音楽や舞踊に影響を与え、新しい芸能が生まれるもととなったりした。またそれらの庶民の中から生まれた音楽・舞踊などは逆に四天王寺の芸能に取り入れられたりもした。もちろん正統なものを残したうえで、新しい芸能も後に伝統となった。
 中世になってそのようにして生み出された新しい芸能に「田楽」や「猿楽」がある。後にはこれから「能」が生まれるのであるが、中世初期に「田楽」や「猿楽」は大流行する。寺社の敷地内の舞台を離れ、都の貴族や鎌倉の上級武士の邸宅でも舞台が設けられ、そこで演じられることにもなる。
 この頃の芸能は寺社に奉仕する性格が強く、まだ自由な筋を持った舞台演劇を生み出せてはいないが、神仏の霊験譚を物語風に組み立て、拍子などでリズムをとり、語りや、簡単な振りで、それを演じる芸能が生まれてきた。もちろん演劇というには程遠いが、神仏の霊験のありがたさを人々に感じさせるためにその語りとともに身振りなどで表現する芸能は後の演劇につながる要素を含むものであった。
 それらの新しく生まれてきた芸能の担い手は寺社に付属する下級の人々であったり、庶民の中でもあぶれ物の下層階級の民でもあった。さらに言うとこの四天王寺に集まる乞食(今は差別用語でこのような言い方はないが、歴史的叙述として許してもらいたい。他に適当な言葉が思いつかないが要するに人々からの恵みや、寺あるいは有力者からの施行などによって生活の糧を得る人々である)から生まれた可能性も大きい。乞食といっても何もしないで「お貰い」していたわけではない。寺社に参詣に来る人に何か雑芸を見せてそれに対する対価を得ている場合もある。抑揚をつけた語り、拍子をとりながら身振りで語る神仏の(これから参詣する社寺の)霊験譚は人々に好まれたであろうと思われる。
 この天王寺もそれらの乞食集団がいた。前回のブログで一遍上人絵伝を見てもらったがもう一度、今度は乞食集団に焦点をあててみてみよう。下は西門の鳥居付近である。

 赤の鳥居の元に座っている二人がいますね。鳥居に近い所にいますから積極的に「お貰い」しようと出張っているのですね。そして絵伝の右下を見てください。ムシロがけの粗末な掘っ立てが見えますがこれがこの人たちの家でしょうか、家といっても折りたたんですぐに移動できるものでした。中には車輪のついたのもありますから、モバイルハウスですね。それぞれの場所を拡大してみましょう。
 
 椀(お貰い・米、粥、銭などを入れてもらう)が見えますね、乞食に必要な最低アイテムですね。

 これは単なるお貰いではないようです。小屋の外にいる人(中腰になっている)は武士の格好をしてますし、女性は壺装束、着物の被きをしてますから立派な身分の人ですね。何かを買っているのでしょうか。とすると中にいる人は売る人ですね。こんな人々の中に寺社の霊験譚を身振り手振りで語り、銭・米などを得ていた人もいたのでしょう。
 このように霊験譚を身振りとともに語る人々の中から生まれてきた物語があります。後に『弱法師』という謡曲になるのですが、そのあらすじはこんなものです。
弱法師(よろぼおし)
 河内国(大阪府)高安の里の左衛門尉通俊(みちとし)は、さる人の讒言を信じ、その子俊徳丸を追放します。しかし、すぐにそれが偽りであることがわかって、不憫に思い、彼の二世安楽を祈って天王寺で施行を行います。
 一方、俊徳丸は悲しみのあまり盲目となり、今は弱法師と呼ばれる乞食となっています。彼は杖を頼りに天王寺にやって来て、施行を受けます。折りしも今日は、春の彼岸の中日にあたり、弱法師の袖に梅の花が散りかかります。彼は、仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を物語ります。
 施行を行っている通俊がその姿を見ると、まさしく我が子ですが、通俊は人目をはばかって、夜になって名乗ることにします。そして通俊は弱法師に日想観を拝むようにと勧めます。天王寺の西門は、極楽の東門に向かっているのです。
 弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、心眼に映える光景に恍惚となり、興奮のあまり狂いますが、往来の人に行き当たり、狂いから覚めます。物を見るのは心で見るのだから不自由はないと達観しても、やはり現実の生活はみじめなものです。
 やがて夜も更け、人影もとだえたので、父は名乗り出ます。親と知った俊徳丸は我が身を恥じて逃げようとしますが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰ります。
  身分を落とされたり、あるいは業病(そのような病にかかることが罪と思われていた)にかかり追放されたりして乞食にまで身を落とした身が、神仏の霊験で本復する話ですが、これは四天王寺の霊験譚ですから、四天王寺境内はふさわしい場所です。また落ちぶれて盲目の乞食になっている弱法師の話ですから語り部も(乞食と身分はそう変わらない人々)身につまされながらの迫真の演技となったでしょうね。
 今となってはこのような話が何処から出てきたか、それは事実かどうかもわかりませんが、やまさんが大胆に推測すると、天王寺に集まる乞食を含めた浮浪人(農業や決まった住所を持たない人々)の中から、「実はなぁ、ワイは今ではこんな惨めな姿じゃが、昔はなぁ~、・・・・」と語ったことがそのルーツになっているのかもしれません。落ちぶれて不幸になっていく話を聞くのは人々は好きですからね、そしてそれに神仏の霊験によって元の身分姿に戻る、というエンディングをつけ加えれば、神仏の霊験譚が出来上がりますからね。
 元の話のタネはこんなところかも(一遍上人絵伝より、寺の縁の下の乞食に台詞を貼り付けたものです)

 このようにして出来上がった身振り手振りの語り物は、寺の周辺にたむろする乞食や浮浪人から人々に広まりやがて寺の正式の楽人や舞人に取り入れられ、田楽や猿楽の一演目として成立していきます。これが演技性を帯びた舞楽に洗練されやがて『弱法師』となります。
 左は謡曲の『弱法師』です。右は四天王寺がこの発祥の地であることを説明する表示です。











 この『弱法師』の演目が四天王寺で生まれ、やがて鎌倉時代末には全国に流行します。この時代はまだ『能』は生まれていなくて、『弱法師』の演目は田楽や猿楽の中で演じられたのですが、これにまつわる不思議なお話しをして今回のブログを終わることといたします。
 鎌倉幕府が滅亡する数年前ですから西暦になおせば1331年頃のことでしょうか。鎌倉の最高権力者は北条高時さまでいらっしゃいましたが、まつりごとの責任者としては評判はおよろしくはございませんでした。政治はお気に入りの側近まかせ、熱心なのは自分の趣味に没頭する時ばかり、特に闘犬と田楽を大層お好みでした。御家人の中には「これでは幕府は長くは持つまい」と思ってはいても高時さまやその取り巻きの権力を恐れて口にするものはございませんでした。
 ある夜のこと高時さまの豪壮な屋敷ではいつものように取り巻きお気に入りを集め、バカ騒ぎと果てもない酒宴が続けられておりました。高時さまを始めみんなしたたかに酔っておりましたが、突然、高時さまは一人立ち上がって舞いを舞い始めました。酒によってフラフラしておりますので舞にもならぬ舞ですが高時さまのみ興じておりました。するとどこから参ったのでしょうか、いつの間にやら酒宴の場に田楽の舞人、楽人が十数人下手の座に連なって、拍子、囃子をとりはじめました。その囃子を聞くと
 『天王寺ノヤ、ヨウレボシヲ、見バヤ』
 と謡っております。その田楽の拍子、囃子の音が座敷の外にも聞こえ、ある御殿女房が、面白そうだわ、と思ったのでしょう。襖から中を覗き込みました。すると田楽の舞人、楽人は一人もおらず、異類異形の化け物が高時さまを取り囲んで囃しております。驚いた御殿女房は警固の武士にこのことを伝え、武士たちはかけつけますが、それより早く、化け物たちは音高らかに逃げ去り、座敷には化け物の足跡でしょうか禽獣のような足跡がそこここに残り、高時さまはじめ座のものたちは正体もなく酔い臥しておりました。
 さてこの囃子の『天王寺ノヤ(ヤは合いの手)、ヨウレボシヲ・・・・』云々、というのはこの当時、四天王寺から流行していた、天王寺の田楽、「弱法師」(よろぼおし)=ヨウレボシ、を指すと思われていました。それだけ天王寺の弱法師は有名だったのでしょう。この話を聞いた当時の人々もみんな『天王寺の、弱法師を、見たいなぁ~、又は、見たい』というような意味だろうと思っていました。ところがこれを伝え聞いた都の高名な儒者は一人異論をとなえます。
 「さにあらず、このヨウレボシとは天下が乱れるときに現れる妖霊星のことである。化け物どもが天王寺の妖霊星と歌うのはまことに奇怪なことである。これは幕府が滅びる前兆である。それも天王寺付近から災厄が起る。」

 と言ったのです。その予言通り、このあたりからの謀反が引き金となり幕府はやがて滅亡してしまいました。儒者が現れると言ったこの妖霊星とはなにか霊的な目に見えぬ星だったのでしょうか、それとも幕府滅亡の直前に実際に天空に現れた目に見える天体だったのでしょうか。この話は太平記巻五に納められている話ですが、妖霊星がどんな星であったのかは書かれていません。

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