2019年5月20日月曜日

えっ、ノストラダムスの大予言書のような書物が四天王寺にあったってか

20140830

 前のブログで太平記巻五の話を取り上げましたが、今回はその太平記の巻六に乗っているやはり四天王寺に関する不思議な話をしようと思います。
 
 天王寺の妖霊星で述べたとおり、幕府に対する謀反が天王寺あたりから起こってきた。河内を本拠とする楠正成である。彼は一応武士とみなされているが、鎌倉幕府の正式の御家人ではない。また朝廷の荘官でもない。土豪で武力を蓄えた有力者には違いないが、幕府朝廷のいずれの体制にも入らないものであった。また土豪といっても土地や農民だけを支配するのではなく、当時の支配体制からはみ出た人々にも(散所の民、神人、供御人、傀儡・くぐつ、乞食)支配を伸ばしていった。
 
 そのような土豪はアウトロー(反体制派)として自らの力で土地支配と人頭支配(人の支配)を拡大していった。当然幕府や体制側の武士である御家人からは敵視され、討伐される対象となるが、幕府権力の弱い地方などでは勢力を伸ばしていった。そして幕府の屋台骨が揺らぎ、全国的に威信が低下すると、あちらこちらでそんな反逆の土豪が出て来た。これらの反体制の土豪を当時は『悪党』と呼んでいた。楠正成はこの悪党であった。
 
 鎌倉幕府滅亡のきっかけとなるのは後醍醐天皇の討幕の密議であるが、これは幕府に漏れて、天皇は幕府によって隠岐の島へ流され、一応、討幕の動きは抑えられるのである。しかし、全国の悪党は天皇の討幕の動きに連動し、幕府の支配を突き崩そうとあちらこちらで動乱を起こす。楠正成は河内で幕府に反旗を翻し、後醍醐天皇に味方することを鮮明にする。
 
 その楠正成がおそらく戦勝祈願(対幕府戦争で)のため本拠の河内に近い四天王寺を訪れた時である。楠正成は天王寺の長老(僧侶の長)にこのようなことを頼むのである。
 
 実は、この四天王寺にはその創建者の聖徳太子の書いた日本国の「未来記」があると信じられていた。そこで正成は、長老にもしあるならその未来の予言書である聖徳太子著の『未来記』を見せてはもらえぬだろうか、はるか未来のことを書いた巻は見なくてもよい、ただ現代(近未来のこと)のことを書いた巻を見たいと頼むのである。正成としては天皇のお味方をして討幕がなるかどうか、一番知りたかったのだろうと思います。何百年も未来のことは関心がなかったでしょうからね。
 
 四天王寺の長老は、確かにずっと後の世までの天下の治乱興亡を書いた未来記はございます。と答え、これは人に見せるものでなく、四天王寺の秘密の書庫に密封してあるものです。(いわば禁書か)、そこを開くことも出来ないのですが、あなた様のお願いですから(脅したのか、それとも莫大な寄進か、はたまた正成の高潔な人格に感じ入ったのか、太平記にはなんで正成にだけ見せたのか理由は書いてない)特別にみせましょう。といって秘密の書庫のカギを開け、取り出だして見せてくれたのです。(下はイメージ画像です)
 
 
 鎌倉末(当時は現代)の近未来の巻にはこう書いてありました。一応私が現代語に意訳しました。
 
 『95代の天皇のとき(後醍醐天皇に当たる)、天下は乱れ、天皇も危うい目にあう。この時、東の魚が「天下」をゴクッと呑んでしまう。日没が370日続いた後、西の鳥がやって来て東の魚を食べてしまう。その後、天下は一つになり3年平穏におさまる。しかし、猿のような者が現れ、天下を30余年掠め取ってしまう。その後は大凶変じて、天下は安らかになる云々』
 
 ノストラダムスの大予言書もそうですが、未来記には比喩が多く、表現も曖昧です。幾通りも解釈できそうです。正成はこのように解釈しました。
 
 95代とは後醍醐天皇に間違いない。東の魚とは鎌倉幕府であり、これは今まで天下をほしいままにしてきた。しかし、西の鳥がやって来て東の魚を食べるとは、幕府を滅ぼす人が現れることだ。日没が370日続くとは天皇が隠岐の島へ流されたことを指している。それの計算で行くと、天皇が流されてもう200日たつからあと170日後、来年の春頃には天皇は京都にお帰りになられ再び帝位におつき遊ばす。
 
 結局、幕府が滅び、天皇が復位することだからこんなめでたいことはない。正成は喜び、黄金の太刀を長老に送り、この書は再び元の秘密の書庫に返しました。
 
 この後の史実を見ると正成が解釈した未来記のとおりなるのですが、未来記をよく読むと、正成は途中までしか解釈しておりません。上記の「未来記」の中の「・・・・・西鳥が東魚を食べ、天下は一つになり」までしか正成は解釈していなのです。太平記もそこで良しとして、記述を終わっています。なぜでしょうか?
 
 未来記のつづきは『天下は一つになり3年平穏におさまる。しかし・・・』と逆接になっていますね。この時点で正成は足利尊氏と戦って死ぬのです。つまり正成は自分の一生の終わるまでの近未来しか解釈しなかったのです。この未来記の正成が解釈しなかった後半は、建武の新政の挫折、後醍醐天皇の京都からの出奔、吉野へ行って南朝を立てる。そして京都には足利幕府が成立する・・・・・という未来を予言したものと解釈できるのでしょうが、それは正成が死んだあとのことなのでもはや正成には必要なかったのでしょうか。
 
 以上が太平記巻六に出てくる天王寺未来記を正成が見るというお話しです。太平記はおおむね歴史的事実に基づいて作られていますが、フィクションが多いも事実です。しかしまるきり出鱈目とは断定できません。聖徳太子の著作というのは怪しいですが、門外不出の未来記のようなもの、恐らく偽書(別の人が書いた)はあったのではないでしょうか。誰が書いても(やまさんでもあなたでも)未来のことを予想して書き綴ったらそれは「未来記」になります。ただし根拠があって書いたものかそうでないか、将来当たるか当たらぬか、は別の問題です。四天王寺にはそんな書が実際にあったのかもしれません。
 
 その書き綴られた未来記があったとすれば見てみたいですね。その後いったいどれだけ当たっているかわかりますものね。かなりの確率で当たっていたらすごいですね。
 
 正成以降も時々「ワイは実はこっそり四天王寺の秘本、未来記を読んだ」というような人が現れますが、現在、四天王寺は、聖徳太子の未来書のようなものはないと公式には発表しております。

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