2012年2月26日日曜日
やまさん中世を歩く その6 西への門
大阪の天王寺という地名は6世紀末聖徳太子が建立したといわれている「四天王寺」の寺名からきている。1500年以上経た今日でも同じ場所にあり、人々の尊崇を集めている。
もっとも今の若い人は、大阪の天王寺という地名からは、天王寺公園や動物園を連想するかもしれない。
この寺は日本の仏教伝来の原初から存在する寺であるが、中世にあって私が特に注目するのは『西方にあると信じられている極楽浄土の信仰』である。
今は埋め立てられているが昔、天王寺の寺域は海岸に接していた。その西門をでるとすぐ海岸があって、波が洗い、大阪湾、瀬戸内海が広がっていた。
極楽浄土は十万億土と呼ばれる無限大数的なはるかに遠い距離といわれていたが・・・・・
なぜか、このすぐ西の海に接する天王寺の西門は、その極楽浄土の東門であると信じられてきた。っつうことは?これ・・もしかして、
「おおおお!天王寺の西門は、最短で行ける、浄土へのワームホールじゃ!」
そのため西門から出たすぐにある海岸付近は西方の海に沈む夕日を拝する聖地で中世は多くの参拝者を集めた。
それでは一遍さんと一緒にまず四天王寺の境内に降り立ちましょう。
四天王寺の広い境内である。右に寄っているが五重塔、金堂などが見えている。高校の日本史で勉強する内容であるが、五重塔、金堂などの並びが南北一直線になるのは「四天王寺様式」といって有名である。
配置から言うと左の赤い門が西門である。人だかりがしている。よく見ると一遍さんが説教をしているか、お札を配っている。
下はその西門の一遍さんの拡大図である。
女性の風俗に注意してほしい。何やら頭から覆っている。これは「被衣」(かずき)といわれる。(きぬかずき)、昔、TVで桃太郎侍が放映されていたが、桃太郎侍が登場する時、面を被りこの「被衣」(かずき)姿であった。
下は中門を入る「被衣」(かずき)姿の女性たちである。
一枚目の四天王寺全体図の左下、寺の塀の外、に一群の人がいる。その拡大図を下に示す。
この時代、これらの人々の呼び名をなんというか知らないが、いわゆる「乞食、非人、病者で見捨てられた者」である。参詣の人々の施しなどによって生活の糧を得たものであろうか。
身障者だろうか、横になっている。家とも呼べない小屋が並んでいる。身を屈め横にならなければ入れない。中には小屋に車がついている。移動式である。キャンピングカーというにはあまりに哀れである。
この絵巻はきれいごとのみでなくこのような悲惨な人々生活を描いている。
西の門の西にはもう一つ鳥居がある。仏教の寺に隣接して神社の鳥居とは不思議だが、中世は神仏混淆の時代、寺の境内に明神さんなどの神社も平気で存在する。
下がその鳥居。
そしてその外周にはやはり、乞食の住居がある。下がそれである。二つの住居とも車付きの移動小屋である。中では男が横になって何やらしている。
この西には最初に説明したように西に向いた海岸が広がる。
この海岸に立ち西方浄土を願い、夕日を拝したのであろう。下は私が作成した中世の人が拝んだ四天王寺西門の海岸からのイメージ図です。
話は前後しますが、四天王寺参詣を思い立ったのは文永11年、一遍36歳でした。この出発時、故郷の伊予・桜井で異母弟といわれる同じ僧侶で一の弟子である聖戒とわかれます。
下がその図です。聖戒は一遍より10歳以上年下、目鼻立ちのしっかりした凛々しい美僧であります。
「おぬしは安珍か?」
上図の聖戒の拡大図です。
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2 件のコメント:
西方に極楽浄土ですか、どんな所か知りませんが、温室みたいな所なんでしょうね。外敵に狙われるとひとたまりもない様な気がします。苦のない世界に楽は無し、幸福のみの世界はあり得ないと思います。痛み苦しみがないと人は快楽を求め続け、すぐに死んでしまうはずです。なんてね。(^.^)
時は中世、洋の東西、どちらでも人々は来世での極楽だの天国だの求めました。
中世は疫病、飢饉、兵火、等の生きるのに厳しい時代、現世は苦難の連続、平安などどこにもなく、ようやく土にかえるときやっと安住の住処を見出したんでしょうね。
中世の人々が「とわの幸福の国」を欣求するのもわかる気がします。もちろん現代に住む私としてはしんさまのいうこともよくわかります。
まあ、800年も昔の人々の精神世界の話ですから、歴史の話として聞き流してください。
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