どうもこの間から体調がよくない。ずっと悪いのではなく、天気との連動が見られる。そのため朝から雨の今日などは目覚めから体調不良が続いている。
でも夜は気分転換になるかと思いいつもの夜のウォーキングに出た。いつもなら歩いているうちに結構元気が出るのだが、今夜は足がだるく、体全体が脱力感に覆われている。
それでもいつもの同じコース、距離を歩いた。
いつも私は家を出て東に向って市道2,5kmほど歩いた地点で折り返し、今度は国道を真っ直ぐ西に向かって歩く。午後8時前なので、もう夕日の残照も残っていない。西の空は雲が垂れ込めて暗い。
国道を西へ向かいながら考えた。
「西に向かってあるくとはどういうことか?・・・そういえば次回予定している、やまさん中世を歩くは、西が一つのキーワードだな」
「日の沈む西には何がある?そういえばそんなブログを書いたことがあるな」
これこれ(クリック)
西方には「永遠なる幸せの国」があり、西方からの「迎え」を中世人は期待した。
「そんなところがあり、迎えまで来てくれるんだったら、このまま西方へずんずん進んで行きたいな」
そんなことをぼんやりと考えながら歩いた。
今日は体調不良で「やまさん中世を歩く」はアップできませんでした。次回は申したように西がキーワード、「やまさん中世を歩く、西への門」をお送りします。
2 件のコメント:
口から蓮の花が咲いたのですか、ちょっとキモい様なきがするのですが・・・。
西は日の入りなので、あまりいいイメージはありませんです。自転と反対方向なので、ちょっと若返るかもしれませんね。(^^)
紀州熊野に関しては、宇野雅美のへんてこ情報しかしりませんです。(⌒‐⌒)(
いつもコメありがとうございます。
我々の方向認識は深く考えると不思議ですよね。空間認識は常識的に「東西南北上下」を基準とします。
「西へ西へ・・」とか。
しかし、純理論的(数学的な)「空間」を仮定すると、西は?
結局は、我らの世界に存在するモノ・コトの「定義」から来てるではありませんか。太陽の沈むほうとか、自転の反対とか。
しんさまもおそらく考えて事があるかもしれませんが、昔から有名な疑問がありますね。
「なぜ鏡像は左右反対になるのに、上下は反対にならないか?」(x軸とy軸と考える人もいる)
ばかばかしい疑問のように見えますが、空間把握の基本的問題を提起する意味でよく考えると頭の体操になりますね。
長々とした話になるので省きますが、結局、前に述べた「定義」の問題に行き着きます。右左を定義してわれらは空間把握をしてます。
ところが「鏡像問題」を持ち出すことによって、我ら定義世界の日常空間と純理論的空間をごちゃまぜにしたところから、不思議な混乱が生まれています。
って、この話もしんさまが詳しいかもしれませんね。
まあ、次回のブログでは「西とは?」などというこの数学的定義に関する糞難しい話は避けて(ちょっと書きたい誘惑に駆られますが)、「日常空間における西」ということで話を進めていきます。
最近、私のコメがだらだら長くなってます。ほとんどたわごとで、かつ独り言に近いので無視してください。
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