鎌倉時代に入ると庶民の為の本格的な仏教が起こる。その一つが「浄土宗」である。開祖は法然上人である。
平安末には末法の世になると信じられ、来世での極楽往生を願うため阿弥陀如来の信仰が流行する。貴族、豪族などは自分で寺院あるいは阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来を作り、極楽往生のための修業に励んだ。極楽へ救いとられる為の作法も確立され実践も行われた。
しかし貧しく、その日生きるのが精いっぱいの庶民にとっては、修業や往生の為の作法などが出来ようはずもなかった。それどころか阿弥陀堂、阿弥陀如来像への崇拝もままならないものであった。
そのような庶民にとって法然の説く、念仏を唱えるだけで阿弥陀如来が極楽へ救いとってくれるという教えは有難いものであった。
疑いの心無く、ひたすら阿弥陀如来を信じ、念仏を唱えれば救われる。絶対他力の「専修念仏」の『浄土教』の誕生である。
その論理的根拠は『浄土三部経』にあるといわれているが、ここではそんな難しい話はパスする。
大事なことは、どの宗教でも同じ
「信じる者は救われる!」
である。
さて、お話しは本題の一遍さんに戻る。まだ幼い15歳で出家し、修業の為遠く旅立ったのであるが、行く先は生国・伊予(四国愛媛)から九州・大宰府である。そこの聖達上人に弟子入りする。
この聖達上人は上記の法然上人の弟子の証空上人の弟子になる。すなわち聖達上人は法然の孫弟子になる。
当然、一遍の学問・修業はこの「浄土教」に大きく影響を受けたものとなる。聖達上人はやはり
「もっと、浄土経について勉強しなさい。」
とさらに大宰府からはわりと近い肥前の国・清水の華台上人の元に送られ一年ばかり学問修業をし、元の大宰府の聖達上人のところへやがて帰って行く。
絵巻とともに旅してみよう。
大宰府聖達上人のところに行くが華台上人のところへ送られ上人に面会するところである。
前のブログで述べたが異時同図法によって描かれている。対面している老僧が華台上人であろう。
華台上人は肥前の国・清水にいる。この清水は今も寺があり、私も21年前に行って泊まったことがある。広い寺域を持った眺めの良いところであった。次の図は鎌倉時代のこの地の庶民の家である。
掘立小屋の小さな庶民の家が並んでいる。江戸時代の庶民の長屋は「九尺二間」(約6畳)と言われているが、これを見ると一戸建てでもそれくらいの大きさである。でも家があるのはいいほうである。家を持たず定住しない人々はこの時代たくさんいた。
人物を見てみよう。右上の男は鋤をかついでいる野良仕事の帰りだろう。その左下の男、むさくるしい髭もじゃで跪き椀を手にしている。「物乞い」かもしれない。この絵巻では物乞い・乞食、ライ病人などたくさん出てくる。(その人が主役ではないかと思うくらい)
そしてさらに左下、片肌脱いで薪割をしている。この時代、ガスもなければ灯油ストーブもない、マキ割をしなければ光熱が得られないのである。わずかのエネルギーは自給自足であった。
「ところであなた!薪割はできますか?」
一年、肥前で修業したのちまた大宰府聖達上人のところに帰る。次はその図である。従僧が持つのは手紙であろう。一年たってもまだ幼い体つきは変わっていない(一遍は成人すると普通の大人より背が高くなる)
右には道をゆく3人が描かれている。子供は両手を広げ何か言ってるようだ、この巧みさ、現代の漫画に通じる。
同じく帰る一遍を別の角度から見た図。
武士の一団が通る。当時の馬、馬具、武器、武士の風俗がよくわかる図である。季節は春爛漫の2月末か3月初め(もちろん旧暦)、山桜が満開である。
絵巻を左に繰って行くとこの武士の集団から離れて別の旅人3人が旅をしている。一番後ろの市女(いちめ)笠は女性で杖を手にしている。振り分け天秤棒で荷物をかつぐ男は苦しそうである。この男2人、もしかすると女の従者かもしれない。前の男も蓑の下に重そうなものを負ぶっているようである。
旅はつづく
3 件のコメント:
鎌倉時代と仏教って関係が深いんですね。日本に根ずく仏教の転換点でしょうか?
絵巻は北京オリンピックの開会式で観て、感動しました。内容ではなく演出ににですが、どうやって創ったんだろうって悩んでいました。いまだにわかりません。(^.^)
古来の日本人の性質は、わりと単純、よく言えば率直、幸運悪運などは、払ったり禊をしたりしてクリアになると考えるほどのものだったようです。
それが仏教の伝来によって人の心に深く沈潜し、考えはじめ、それによって奥深い「対象」を発見したと言えます。
老病死苦、仏教的宇宙観、人の定め、命、などなど。
しかし奈良平安までは知識人や貴族が仏教は独占したといわれています。
この鎌倉時代になって仏教は民衆に下りてったと言われます。
宗教の教えの「仏教」の内容はともかく、民衆まで広がった仏教は本来の単純な日本人の思考に苦悩し深く考える哲学的態度をもたらしたと言えるかもしれません。
絵巻物を見ていて思ったのですが建物や植物は割と忠実に書かれているのに対し、人間がかなりデフォルメされているように思います。
まさにマンガの技法ですね。
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