2021年5月24日月曜日

ビワと幻覚

 本日も図書館のパソコンから投稿


 汽車から見ると黄色に膨らんだビワが見える。今年は梅雨の始まりがずいぶん早かったせいか梅雨に熟れるビワも早い気がするが、どうだろうか?

 果物の中でもビワは好物だ。子供の時は庭にビワの木があり、小ぶりの実ではあったが甘くておいしかった。しかし今はお店で買って食べる以外ない。店頭のビワはきれいに並べてパック詰めしてあるが結構な値段である。一度買って食べた。商品にするくらいなので大ぶりの実で形はまさに楽器の「琵琶」の形をしている。しかしどうも私にはおいしいとは思わなかった。子供の時家で採ってたべた小さくてまん丸のビワのほうがよかった。だからそれ以来、わざわざ買っては食べない。ごくたまに友人宅にあるビワをいただいて食べている。

 昨日、最晩年の芥川龍之介の短編を読んだせいか、このビワと彼の宿痾だった神経症と幻覚について十年も前に書いたブログを思い出した。なぜビワが幻覚を連想させたのか、それは一巻の病草子(鎌倉時代初期の絵巻物)にある絵であった。下は十年前の私のブログより。(図に私の説明文を入れてある)

 病に臥せっている病人には枕元にワラワラと集まる小人の幻覚が見えている。看病する妻が夫に進めているのがわかりにくいがビワの実である。妻のひざ元には幾房かのビワが置いてあるのが見える。


 病人にはこのような小人の幻覚が見えている。芥川龍之介は幾つもの歯車などが幻覚として見えたそうだ。


 私も子供の時高熱が出て意識が混濁していた時、いろいろな幻覚を見た覚えがある。しかしそれ以外では見たことない。芥川の場合、高熱の意識混濁でもないのに普通に眼前に現れる幻覚をありありと短編に書いている。

2021年5月23日日曜日

半死の日とそれなりに元気を取り戻す日のすごしかた

 ようやく図書館が再館しました。ワイも含めHLの人もくっつぉぐ場所がでけたのでホットしています。そんなわけで今日は図書館のパソコンからあっぷしてますぅ。図書館のパソコンは一時間しか使えないので長いブログは書けまへん。

  まだ50代の時、病院に内視鏡の検査を受けに行った。待合室には人の好さそうなばぁちゃんがいて、ニコニコ顔で診察室に呼ばれるのを待っていた。そのばあちゃんが言うにはもう80歳をずっと前に過ぎているが、これといった病気の原因がないのに、歳ぃよると、体のあっちこっちが痛ぅなったり、わけもなく「せこい日」があってなぁ、という、その時はあぁ、老化とはそんなもんかいなぁ。と思っていたが、今この頃はそれを身に染みて実感している。まさにそのお婆さんのいったように、最近の私は、わけもなくしんどくて何をする意欲もなく鬱に沈む日とそうでもない普通の日が繰り返しやってくるようになった。

 これといった病気の原因がないのに、といったが厳密にいえば、何らかの原因があると思う、私の場合、おそらく心臓がかなり弱まっている日が鬱の日に当たるんじゃないかと思っているが、いまのところ心臓専門医に行く予定はない。

 その鬱状態のしんどい日は昨日だった。どこぇいってもおもっしょうおないし、本を読む意欲もない、無理に読んでも頭にはいれへん、ぼんやりするか、半ボケで寝転がる以外ない、それもあんまし半死状態がすぎる。ぼんやりしているがそれなりに目と耳に刺激でも与えたがよいと、古い古いDVDを借りてきた。昭和44年4月リリスだからワイが高校3年の時、DVDのケースをみると大昔(高校3年の時)見た記憶がかすかにある。で、家でごろんと横になり高校時代みた映画鑑賞となった。

 見て思い出したことは、昭和40年代前半の高校生って、グルプサウンズも趣味だったが、ムード演歌だの御当地演歌だのも趣味だったんだ。今だと考えられないが。そういや文化祭に美術部の同級生が森進一の「港町ブルース」のイメージ画を出したのを覚えている。波止場に向かってマドロス(かっこいい船員)が海を眺めている図だったが、上手だなと思った。

 高校の昔見て今また見た映画は左の映画。ご当地演歌のストーリをそのまま映画の筋にしたもの。当時人気の青江三奈が映画中で歌い、主演は松方弘樹や宮園純子、若い谷隼人が出てたが、若い時の谷隼人って「太陽がいっぱい」のあのアランドロンもかくやと思うくらいの男前だったのに改めて目を見張った。

 歌には「♪~あぁ切ない長崎~ブルス、だの(挿入別歌)シュルシュルシュビジュワ、♪~さよならと乗ろうかな最終の長野行き、~新宿の夜~♪」

 とご当地がちりばめられている。この東映の映画、田舎の映画館ではあったが高校生のワイも見たんだから、結構、高校生も多く見たんだと思う、(もっとも田舎の映画館は三本立て、お目当ての映画以外にもほかに抱きあわせの二本の映画もくっついているから積極的に見たとは言えないかもしれないが。

 しんどくてもこんな古い映画ならぼんやり見つつも、あ~だこうだ~と忘れていた青春のワイの思い出がよみがえり、しんどい一日だがそう悪くない時間のつぶし方だった。

 うってかわって、今日は夜中に飲んだ安定剤が効いたのか、たっぷり眠れたので気分はそう悪くない。昨日は本も読めなかったので今日は小説を読んでいる。と言っても歳ぃいって冗長な長編は読めないので、味わいの深い短編小説をじっくりと時間をかけ読んでいる。わずか十数ページだが三篇のうちようやと、一編と二編目の半分が読めた。読んでいるのは芥川龍之介の最晩年(遺稿となった)三篇集「歯車」である。

 途中までの感想を書きたいが、この図書館のパソコンは一時間しか使えないので詳しくはかけないのでまた機会があったら感想を書いてみようかなと思っている。芥川の短編は中高校生の国語に入っていてよく読まされるが、この最晩年の「歯車」は、あまりにも暗く、高校生にはちょっと読むことをお勧めできない。しかし半死状態の日を暮らす人が読めば、これが糧になって生きる力が湧いてくるとは間違っても言えないが、多々共感するところはある。共感に少しでも癒す力があるとすればそういう意味では鬱の人に勧められるかもしれない。読んで感じることは人生の鬱や半死状態をも小説にできるとしたらこのようなものになるんじゃないだろうか。

2021年5月21日金曜日

九年前の今日、もうみんな忘れたやろな、世紀のショーのこと

  鮎喰川鉄橋の下の鮎喰川は一昨日まで全く水の流れがなかったが昨日の大雨で濁流が滔々と流れていた。そして今日の日付けで思い出したことがある。ほぼ十年にもなる、なんと!その間、ワイはなにしよったんやろ、鮎喰川の早い濁流のように月日は私を押し流していく。


 今年は梅雨の始まりが五月中旬でそれからずっと今日21日まで雨天か曇天が続いている。そのため太陽の姿などは見えないが、9年前の5月21日は朝から薄曇りで時々雲のすきまからすりガラスを通したような太陽が見えていた。

 この日の朝、このあたりは金環食帯に入ったのである。そのため天気の具合によっては世紀のショーが見られる否か気をもんだが、下の写真のように、薄雲を通して金環食を見ることができた。またうれしいことに撮影もできた。当時のブログにアップしている。

 薄曇りで結果的には撮影にはちょうど良かった。特殊カメラを持たない私にとって、薄雲がフィルターの役目をしてくれたので普通のカメラで撮影できたのである。その日の私のブログより

 金環食前、2012年5月21日、午前7時17分


 金環食、午前7時28分


 金環食を脱しつつあるところ、午前7時41分


 太陽の前を月が横切り完全に重なる日食だが、距離の微妙な違いにより完全に月が太陽を隠す『皆既日食』と月が完全に太陽を隠し切れず光がリング状に漏れる『金環食』がある。皆既日食だと日中突然訪れる闇、瞬く星空、壮観な太陽コロナ、などのすごい現象も見えただろう。それが金環食ということで少し残念だったが、それでも普通に生きていて自分の居住場所で金環食に出会うことなど数世紀に一度あるかないかだから、大半の人は自分の人生で皆既どころか金環食も見られない。私の人生で金環食に出会えたのは僥倖といわねばならない。

 今日の新聞にこの26日夜には皆既月食の天体ショーがあると載っていたが、皆既月食などは自分の今までの人生で何度も目撃したことがある。実際に起った回数はそれよりずっと多い。毎年のように起こっているんじゃないんか知らん。

2021年5月15日土曜日

ブログのアップが間遠ぅになります

ブログの更新が途絶えてもホテ死んだわけではありませんのでおしらせしておきます。 昨日、とうとうパソコン(ウィンド10)がブチめげてしまいました(内部がどうのこうのではなく、文字通り、本体から画面が分解・解体してバラけてしまいました)。新品で買って四年目です。サンキュッパ(39800円)の台湾製で、ワイの酷使にもかかわらずよくぞここまで持ってくれたと感謝しています。 昨日のブログアップしてからブチめげたので、じゃぁ今日のブログはどこから?以前の古いパソコン(ウィンド7)からこれを書いています。しかしこちらのパソコンはセキュリチのバックがなくなっているので恐る恐るアップしています。余計なサイトなんどは見ず、投稿のみでパソコンを立ち上げています。 今後は図書館備え付けのパソコンか、古いウィンド7のPCでブログを書こうと思っていますが、図書館のPCは一時間しか使えないし、ウィンド7のPCもセキュリチが不安なので長時間は出来ません。そのためブログのアップが間遠ぅになります。 次回は、出来れば「沙羅双樹の花」の開花の頃、その写真入りのブログが作れたらなぁと思っております。

(特別投稿)

 年々早まる梅雨副題、仏教と梅雨

   次回ブログは沙羅双樹の花が開花を迎えるころ投稿しようかなと思っていたのですが、本日(15日)梅雨に入ったというニュスが聞こえてきた、一瞬思ったことは「えぇっ!ホンマかいな」という感想である。今日は5月15日である、6月ではない。こんな早い梅雨入りなんど聞いたことがない。でもネットで確かめると間違いない、本日午前11時気象台は四国地方の梅雨入りを宣言していたのである。驚くのも無理もない、なんとワイらの四国地方でのこの梅雨入りの早さは前例がなく史上(もちろん統計をとりはじめてだが)最も早い。この現象は近代工業社会の宿痾といってもいい時とともに進む大気中の炭酸ガスの増加が影響を与えているのは間違いないと思う。史上最も早い梅雨入り(四国)のニュスに触発され、いろいろ思い浮かんだこともあるので「ブログ一時中断」というお知らの後ろに特別投稿することにしました。

 さて、去年の梅雨入りを見ると去年は5月31日でした。とうとう梅雨が5月に始まるようになったか、と思ったものですが、今年はそれがさらに半月早まりました。近年梅雨入りが早まる傾向はずっと続いていますが、注意することは梅雨入りはどんどん早くなっても梅雨明けはあまり変わらないかむしろ少し遅まる傾向になっているということである。ということは「梅雨の期間」が長くなっている。この前倒し傾向が続けば梅雨がどんどん長くなり、3ヶ月びゃぁにもなると四季(四分の一は3ヶ月だ)のうちの一つは「梅雨」になりそうだが、そもそも梅雨という名称は梅の実のふくらむころということから名づけられたものである。しかし前倒しになると梅の結実よりずっと以前に始まってしまう。これらのことを考えるともう「梅雨」なんどという優雅な名より「雨季」とした方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 そもそもワイら日本人はこの時期を「梅雨」というように特別な名称で呼ぶが、外国人、特に一年中雨量が一定している欧州や乾燥地帯の国から来た人は、この日本の多雨で湿気の多い時期は「雨季」という認識である。「梅雨」と聞いても、ワイの好きなお釈迦様のインドは思い浮かばないが、「雨季」と聞くとすぐインドの風土を思い出す。インドの気候は強烈なインパクトのある「酷暑期」と「雨季」で有名であるからである。

 お釈迦様大好き、お釈迦様を恋い慕うワイからすると、去年の猛暑の時のブログでもチョロっと書いたが猛暑・酷暑は大歓迎である。なぜならお釈迦はんのインドの風土に近づくからである(ところが日本の夏はヘタレたことにどうしてもインドのように50°ちかくにならへん、40°近くで大騒ぎしている。鈍なこっちゃ!)。だから梅雨が長くなって一つの季節の大部分を占め「雨季」と称するようになってもどうっちゅうことあらへん。雨季のあるインドに近づくだけのこっちゃ、お釈迦はんはこの「雨季」という鬱陶しい時期もちゃんとすばらしい過ごし方を教えられたのである。(以上は出家者や、半分死んでいるようななにもせぇへんワイのような者であって、仕事を持ち社会生活をしている人には当てはまらず、迷惑な異常気象となる

 「安居」(あんご)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。そもそもの「安居」の意味は、インドで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行することやその期間のことです。今、日本では死語に近い仏教用語となっています。というのもお釈迦様のいらっしゃった初期仏教の時代、出家者は糞掃衣と呼ばれるキチャないぼろ布一枚を身にまとい持つものは托鉢の椀一つ、もちろん家を持たないどころか居所も定まらず各地を死ぬまで遊行して歩いたのでした。ところが今の日本の僧侶は大きな寺院に住まいし、(お釈迦はんの当時と比べると)美衣美食しているのが普通です。だから遊行が常態であった初期仏教のように一定期間、1か所に集まって集団で修行するなどという「安居」はほとんど実施されていないのです。

 お釈迦さんの当時、アッチャコッチャを遊行・托鉢・説法をして回っていた出家者(お釈迦はんも含め)が寄り集まって一つところで「安居」するのに毎年よい機会がありました。それがインドの「雨季」でした。土砂降りの雨の日も多く、インドの土地は水浸しになってしまいますから、遊行はかなり無理となります。その時期、どこかに集まって集団で修行することにしたのです。在家信徒から土地や建物が寄進されそれにあてられたそうです。初期仏教ではこの場所を「精舎」といっています。もちろん雨季が終われば原則として遊行に戻ります。だからこの時期の「安居」のことを「雨安吾」と言ったりします。

 また仏教の考えからこのようにも説明されます。生涯を遊行し処を選ばない修行の身の出家者にとって雨だろうが水浸しの地だろうが関係ない、それを厭う理由で安居するのではない。この時期は生き物が死んだようになって活動を休止した酷暑・乾燥期が終わり生き物が水に喜び、生きかえり活動する時期である。修行者がペタシペタシと歩いていて、泥中や水中のミミズやカエル、虫類などの小動物を踏み潰すかもしれない。殺生を厭う仏教にとってみればこちらが安居を行う理由となる。なるほど、虫けらにでさえ思いやりをかける仏教ならではの説明である。これを聞いて思い当たる節がある。ワイの小ンマイとき、どこでも立ションベンしたらあかんて祖父に言われていた。どうしても立ションベンするときは『ミミズもカエルもみなゴメン』ちゅうてせぇよ、ていわれていたが小さな生き物にも思いやりを示す仏教の考えからこのような言い訳がうまれたんやなぁ。

 このように本来は「安居」は仏教の修行形態として重要なものであった。今でこそほぼ廃れつつあるが、江戸時代までは寺・庵に安住する出家者ばかりではなく、野山や村々を遊行しながら修行する人も多かった。たしかに江戸時代ともなると宗教者は幕府の方針でかなり規制をかけられ組織化されるが、そんな中でも特に山岳修行者などは「山伏」としていずれかの修験寺院に所属しながらも遊行しつつ修行を行ったのである。だから安居という修行形態も「雨安吾」や「夏安吾」という言葉で残っていた。

 学校教育で松尾芭蕉はんの「奥の細道」は必ずといっていいほど教材に取り上げられていますから知らない人はいないでしょう。好きな人はその中のいくつかの発句が頭に残っている人もいるでしょう。どの発句も有名ですからね。その中で元禄2年(1689)4月2日の作があります。日光に立ち寄り僧侶たちの修行の場でもあった「裏見の滝」を訪れ、実際に滝の裏に入りよんだ句です。

 『しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め』

  この「夏(げ)」といっているのが夏行(げぎょう)または夏安居ともいうのです。一定期間一室に籠って修行することです。期間は陰暦4月16日ころ(太陽暦では梅雨の始まるころか)から1~数か月間とされますから、初期仏教の伝統を引き継いだ「安居」ということができます。

 今日は夕方になって激しい雨になりました。車を持たない私は傘をさしつつもかなりビショコになって図書館まで行きました。道々、ワイのように歩いている人は少ないですが、車の通行は多いです。ほとんどの人は車を所有し、大雨でも濡れず、好きなところに移動できます。現にこんな大雨でも車の外出は多いです。たとえ外気は蒸し暑くとも車中はエアコンが効いて快適です。車がもしかしてミミズやカエルを押しつぶすかもなどと言えば、アホぉげとる、と一笑に付されるでしょう。車利用は快適さの見返りとして一方では車の尻の穴から膨大な炭酸ガスを放出しています。しかし人の幸福追求のためにそれは決して悪いことではないと思っています。まったく私もその通りだと思います。

 しかし果たしてこのままどんどん快適さを追及して行ってよいものかためらいがあります。なんか大きな犠牲の上にそれは進んでいっているのではないかという気がするのです。人が人を犠牲にするのは悪であり間違っているとみんな認識しているのですが、他の動物植物、環境、地球に対する犠牲はどうなんだろうと思います。現実にお釈迦様に邂逅することはできませんが、お釈迦様がもし現代に現れたときどのような説法をするのだろうかとかなわぬまでも思ってしまいます。

 梅雨入りが早いため梅雨の花、アジサイの見ごろもまだ早いようです。下は近所の八幡さま境内のガクアジサイと本殿。


2021年5月14日金曜日

インドは昔から日本人のあこがれの地、どうしても三聖樹にふれたい

  西洋文明を考える時、そのアイディンティチにかかわる根幹には三つの大きな幹(ミキ)があるといわれている。一つはギリシャ・ローマの古典文化、第二はキリスト教文化、そして第三、これが最も西洋人の内奥深いところにあるものだと思われるが、ゲルマン民族あるいはケルト民族の文化といわれている。

 同じように日本を一つの文明圏として考えるならば、もっとも深いところにあるものは縄文・弥生そして古事記などに表される土着の文化、そして第二の西洋のギリシャ・ローマの古典文化に当たるものは六朝から隋・唐をへて宋くらいまでの中国の(古典)文化であろう。そして第三は仏教を通じてのインド文化じゃないかと私は思っている。

 仏教は非常に古くから受容されてきた。しかし仏教はインドに生まれたものであるが、わが国には中国を通じて入ったたため、仏典はほとんどが漢文で書かれ、仏教の内容もかなり中国化されている。その中で日本にはどれほどインド文化というもが影響を与えているのだろうか?とクエッチョンがつきそうだ。

 しかしかなり古くから(仏教を受容したときに遡るくらいの時)、我々日本人は、3つの文化、いや3つの文明圏といったほうがいいだろう、ずっと意識してきたのである。それは『本朝(日本)、唐・から(中国)、天竺(インド)』言葉が表すようにこの世には三世界があると言い慣わされてきた。この中で中国とは人や文物の往来は古来より頻繁にあり、ある意味身近な文明圏である。しかし「天竺」となると人や文物の往来・交歓はほぼほぼないのである(奈良時代に数人の中国経由でやって来たインド僧がいるにはいたが)。まったく夢のような遠い国である。それなのに「唐、天竺」と同等に並べる意義は大きいと言わなければならない。

 平安末に成立したといわれる説話集に「今昔物語」がある。中学高校の国語にもとりあげられるくらい有名な説話集である。仏教色の強い説話が中心であるが、この説話集の構成を見るとまさに「日本、中国、インド」の三世界なのである。そして最初に天竺が来て、そのあとに震旦(中国)、そして本朝(日本)と続くのである。やはり仏教説話の打ち立て・最初はお釈迦様の故郷・インドから始まるのである。ここではお釈迦様の生涯を描いた説話を通してインドの風土、文物、草花樹木、動物などが取り上げられている。このように平安末という相当古い時代から、庶民の耳にも心地よく入るであろう「説話」として天竺(インド)は人々に馴染んでいたのである。そして中国とは違った精神文化を日本人の心に注ぎ込んでいたのである。そのインドの精神文化は仏教という大きな風呂敷に包まれているが、内実は仏教以外のインドの精神文化をも内包しているのである。

 例えば「愛」、古典中国だと、どうも人間愛は、親子、子弟、兄弟、主従、のような型にはまり、ずいぶんと建前が優先する堅苦しい感じがする。男女の愛も前述の人間愛に比べるとずっと劣るというか大っぴらにできない傾向がある。中国古典の大書、論語、孟子、あるいは史記などに見られる人間愛はそのようなものである。

 これに対しインドの「愛」、インドにはカーマスートラという愛の古典があるが、濃密な男女の愛を赤裸々に率直に表している。男女の愛どころか同性の愛でさえも肯定されている。読んでいてこの書は、愛欲に溺れることを奨励しているのではないかしらんと思うくらいである。

 インドで生まれた仏教は当然のことながら一般の人であっても愛欲の溺れに対する戒めはある。出家者などは厳禁である。しかし世俗の人間の男女間の細やかな愛情は肯定的にとらえている。それらが「苦」の元となると説いてはいるが、それらはおおっぴらに語られ、初めから否定することはない。

 日本には初めに言ったように外来の中国、インドの二つの文明圏から影響を受けている。政治や社会の規範としては中国文明圏の影響を受ける一方、個々人の「愛情」に関してはインド文明圏の影響をかなり受けていると思われる。平安時代に書かれた「源氏物語」がある。これなどは人の逃れられない愛情の溺れとそれに対する仏教の因果応報、罪悪感がなければ成立していないものであろう。日本の文学で示される細やかな愛情や罪の意識などはインド思想の入った仏教がおおきな影響を与えている。どう考えても日本の土着の思想や中国古典文明とは異質なものである。

 世界には「文明圏」と呼ばれる圏域がある。西洋文明圏、イスラム文明圏・・などである。文明圏を最も象徴するものは宗教であるといわれているがそれに劣らず重要なものに「文字」がある。日本が中国、インドの二大文明圏から影響を受けた証拠にその二つの文明圏の文字が残り、生かされてきた。「漢字」については言うまでもあるまいが、インド文字もしっかり定着し生かされてきた。仏教で用いられる悉曇文字(梵字)がそれである。卒塔婆などを見ると今でもしっかりと書き継がれている。日本では19世紀になるまでこの二つ以外の文明圏の文字は定着しなかった。文字をとってみても古くからインド文明は日本に入り、それなりの地位を占めて今日まで伝わっているのである。

 「文物」の伝播に関して「文」はかさばるものではないし、伝播の途中で劣化消耗することは少ない。それに比べ「物」の方はそうではない。例えばインドの生き物などは直接運ぶ以外ない。インドの風土でおなじみの象、仏典にもよく登場し、普賢菩薩の乗り物でもあるこの生き物については日本人は最初直接知ることはなく、絵画などについてその情報を得るしかなかった。生きた象が日本にもたらされたのは室町時代になってからである。それもごく一部の人しか目にできなかった。それでも平安の昔から、庶民は今昔物語や仏典の説話、そして普賢菩薩などの仏像を通じ意外と象は身近な動物であった。孔雀なども実際には全く見られないにもかかわらず象と同じように身近なインドの生き物であったのである。

 インドの動物はこのように移入することは難しいが、植物となれば動物よりずっと移送が容易である。種や苗ならば大洋を運ぶことも難しくない。日本人が昔から特にあこがれと親しみを持ったインドの植物に仏教の「三大聖樹」がある。菩提樹、沙羅双樹(沙羅の木)、そして無憂樹である。前二者はみんなよく知っているが無憂樹はあまり知られていない。この木はお釈迦様の誕生の時、この木の下で生まれたとされる木である(母親マーヤ夫人がこの木の枝をつかんで出産したといわれている)。ところが残念なことに昔から庶民にも親しまれあこがれをもって見られていた樹木であるが、この三樹ともインドの風土熱帯地方で育つ木であるため寒い冬を持つ日本では露地で育てるのは無理である。今、どうしても日本で見たいと思えば植物園の温室のなかでしか見られない。

 大昔の日本人のとってみればあこがれの強い木であるが本物は移入し育てることはできない。しかしどうしてもお釈迦様の三聖樹をこの目で見てみたい触れたいという強い願望があった。そこでいろいろな似た理由やいわれはあったが、日本ではお釈迦様の三聖樹として日本で育つ木が選ばれ、それにあてられている。後世になると(平安時代以降)それを決してまがい物とは見ず、本物の三聖樹とみなしたのである。だから今、寺院や家の庭などにその三聖樹は普通に見ることができる。

 近辺で見られる三聖樹

 菩提樹

 シナノキであり、セイヨウ菩提樹とごく近い種である。一番札所霊山寺、撮影日令和3年5月13日



  沙羅の木

 別名ナツツバキ、二番札所極楽寺、撮影日令和3年5月13日、見ると花のつぼみが米粒ほどになっている。6月中下旬に咲く、一日花として知られており、それが儚い栄枯盛衰を象徴するといわれている(平家物語の序章の文句で有名である)



  無憂樹

 百日紅がこれにあてられる。インドオリジナルの無憂樹と花が似ているとも言われるが、理由は確かではない。撮影日令和元年7月29日、常楽寺へ行く道で撮影。

2021年5月10日月曜日

奈良時代の讃岐国分寺遺跡見学

  讃岐の鉄道を「汽車」といってはいけない。琴平からは線路の上に電線を引っ張っていて讃岐の国の鉄道はほぼ電化している。だから「電車」といわなんだらあけへん。ワイの住む阿波の国は未来永劫電車なんど走ることはないだろうなぁと思う(電化の話はこれっぽっちも出ないうえ、むしろ大赤字で鉄道そのものが廃止の崖っぷちに立っている)。四国四県で電車のないのはわが県だけである(ワイの県を除く四国には高知電気鉄道、松山坊ちゃん電車、琴平電鉄、そして予讃線がある)。

 こんな県は珍しい(鉄道がない沖縄は外すとして)たぶんウチラの県だけじゃないんか知らん。だからウチらでは鉄道は絶対電車とはいえない。ウチの県の鉄道にワイは「汽車」という言葉を使い続けている。よそモンからは馬鹿にされそうだが、むしろ電化されない鉄道を持っていることにちょっと埃を感じてあえて今でも汽車という言葉を使っている。列車という言葉もつかえるが、だいたい赤字の超ロカル線でほとんどは一両である。列になる列車でもない一両に列車というのもおかしい。

 汽車というと蒸気機関車をイメジするが、今はさすがワイの県でも動力機関はディジェルエンジンとなっている。ディジェル機関車を「汽動車」と呼んだりするから、ワイとしては汽動車のディジェル車を「汽車」(真ん中の動の字をとって)と呼ぶことにしている。

 善通寺のおだいっさんの誕生寺参拝の後、高松行きに乗ったがさすがぁ~早い、でもワイはウチンくのゆったりはしる汽車がすっきゃわ。もし同じ運賃なら、ワイは目的地に素早く10分でつける電車より、できるだけ長く時間をかける汽車を選ぶ。ゆっくり鉄道の旅を楽しみたいっちゅう考えを持っているワイやから早い電車はどうもスカン。だがここで乗ったのは鈍行各駅停車ではあるが電車なので非常に速い。

 次々と多度津、丸亀、坂出駅と過ぎていく、丸亀駅あたりでは名城「丸亀城」が車窓から眺められた。このお城、天守や櫓はあまりパッとしないが、石垣の形の美しさは群を抜いているんだよなぁ。


 そして降りたのが「国分駅」、ホームは長いが小さな駅舎しかない無人駅である。そこから5分ほど歩けば、国分寺と奈良時代の国分寺跡遺跡がある。

 広い国分寺遺跡に残る当時(奈良時代)のものは各伽藍の礎石のみである。しかし見学者がよくわかるように敷地内には当時の伽藍の何分の一かのミニュチュァ模型があり、金堂、講堂、塔、鐘楼などの配置やその形がよくわかるようになっている。日本史の生きた資料として使える。残念なことにわが徳島県の旧国分寺跡遺跡はこのように整備され歴史教育に使えるようにはなっていない(棒杭が一本寂しくたっている)。


 国分寺を囲む「築地塀」も当時と同じサイズで一部、下の写真のように復元されている。そうそう遠景に見えるいびつな台形状の山地は「五色台」といい。高原状の山の上にはいくつかの寺院、保養施設、遊場などの建物がある。43年前、ボロッタァの軽四に乗り、徳島からこの山まで来たことを思い出した。ある通信制大学のゼミに参加し一泊するためである。指導教官を囲んで寝泊まりをしながら受けた実技指導は今も忘れられない懐かしい思い出となっている。


 ミニチュァの伽藍や復元された築地塀があるばかりでなく、ここには体育館のような「覆い屋」があって、むき出しになった発掘現場が保存されている。また当時の国分寺内部の僧房の生活の一端が等身大の人形を使って再現されている。おそらくこれは写経をしているのだろう。



 ここでちょっと考えてみる。ワイのように妄想癖のある歴史ファン、あるいは最近の若い衆(ワカイシ)でも歴史もののゲームが好きな連中は、過去の偉人の生きた時代に、わが身を飛ばし、その時代にワイが生きとったらこんなことをするのになぁ、と想像をたくましくする。はなから歴史上の偉人のまわりに生まれ変わるつもりでいる。しかし今も当時も同じだが、生きる人の大部分は偉人でもない平凡な人々である。もし(ありえないとしても)時空をワープして歴史時代に自分がポンと現れても、せいぜい生きられるのは庶民以下の生活である公算が大きい。

 この国分寺ができた西暦760年頃、もし、ワイが生まれとったらどうじゃろかいなぁ?確率から言っても農民の小せがれ、平城京の貴族にうまれることなんどないだろぅ。ワイ、体も弱いし、喧嘩は強よぉないし、ドンくさい持ち前はいまのままやろ、こんな時代に農民の小せがれにうまれたら、生きていけへんやろと思う。

 しかし当時農民の小せがれとして生まれとったとしても唯一、農業せんでもええ、浮浪人・乞食や盗賊の手下にならんでもええ、おまけに辛い肉体労働せず、税も納めず、しかももしかしてうまくいけばその道で少しは世に出る方法があった。

 「なんやと思います?」

 まぁこのブログの流れからいっても予想はできますわなぁ、そう、上の僧房の再現にあるようにこの国分寺の下級僧侶、といっても最初は寺の雑用係、そのため農民の小せがれでも採用される。そして馴染めば文字や経を覚えられる。さらに能力があれば写経係になり、そこから官僧への道も開かれていた。

 はっきり言ってこれ以外に庶民の子どもが出世する道は当時(8世紀奈良時代)はなかったといってもよい、これが唯一上昇の道であった。

 などと考えつつ、国分寺遺跡見学を終えた。

2021年5月8日土曜日

お大師さんの生まれたところ、そして般若心経

 善通寺はおだいっさん(弘法大師)の誕生の地である。また隣接する形で誕生寺がある。そのためか真言宗の寺の中ではずば抜けて格が高い。立派な伽藍形式の建物が並んでいて中でも五重の塔は他の札所にはない壮大な塔である。


本堂(本尊、お薬師さん)


誕生寺(遍照金剛閣)



 ここ四国ではおだいっさんに対する信仰は強く、それは地元の人々あるいはお遍路さんが唱える祈りの言葉「南無大師遍照金剛」に現れている。我が家も代々真言宗徒であるが若い時は真言宗の祖師であるという知識だけでたいした関心も持たなかった。ただお大師さんの生涯についてはあちらこちらにある真言宗の寺にはお大師さんの生涯を紙芝居風に描いた絵馬があるので何となくは知っていた。また後には北小路欣也さんが主演した「空海」の映画を見て、より詳しくその生涯や宗教的な活躍を知った。

 しかし最近になって宗教全般に興味が向かうようになり、宗教書もあれやこれやと生かじりするようになった。そしてお大師様の御教えの一端でも知りたくなり、弘法大師著作の本を二冊読んだ。『三教指帰』と『般若心経秘鍵』である。どちらもそう長くない著作であることが読む動機の一つになった。いずれも原文(もちろん漢文)、読み下し文、そして現代語訳の三つが対になっている本である。

 お祖師さんの本であるが、抹香臭さ(つまり宗教色)はあまりなく、また折伏されるような宗教的な強信性も私には感じられなかった。「三教指帰」などは、これ文学のジャンルの中の戯曲、私独特の例えかもしれないが、あえて言うと三つの宗教を登場させた「宗教オペラ」じゃないかと思った(声明の節をつけて対話者が唱和すればまさにオペラとなるであろう)。9世紀の初めにこのような文学に類するような作品を書きあげるのは驚きだ。一般にはお大師さんは達筆で知られているが、「三教指帰」などを読むと日本文学史ではまだ黎明期ともいえるこの時期、文学の戯曲に類する作品を書いているのである。達筆以上に天才的文学才能があったのだなあと思う。

 もう一つの宗教的著作である『般若心経秘鍵』、これは読んでみて感じたことは、もし密教に関心がある人や、あるいはお四国(札所八十八ヶ寺)を「般若心経」を唱えながら回りたいという人にはぜひ読むことをお勧めしたい本である。この『般若心経秘鍵』はお大師さんによる「般若心経」というお経の解説書である。

 「般若心経」は文字数260あまりの短いお経だが、これとは別にあるお経の「大般若経」は膨大な大部を有する大仏典群である。これらは大乗仏教の根本経典だが、まず、仏教のボンさんでも、読む人は少ない。読む能力云々よりその量が半端ではないのである。仏教の専門家でも読むことの少ない般若経典群を一般人が読むことはきわめて難しい。ところがこの「般若心経」は短いお経にもかかわらず大部の大般若経のエセンスが濃く詰まったお経であるといわれている。そのため一般人でもよく唱えられ、短いため覚えやすく、節をつけて多くの仏閣前で(神社でも唱える場合もある)詠まれるのである。

 『般若心経秘鍵』はお大師さんによる「般若心経」の解説書といったが、仏教史を知る人はわかると思うが、般若心経も含めた般若経典群は大乗仏教の初期(2世紀前後か)の経典である。ところがお大師さんの依ってたつところは大乗仏教が歴史的展開をみせてたどり着いた最後の大乗仏教の流れ「密教」である。これは7世紀ころといわれている。だからお大師様はこの大乗仏教がたどり着いた最後の流れ「密教」の立場からこの「般若心経」を解説しているのである。

 後世の目から見るとそのような流れの中書かれた般若心経の解説書は、かなり密教の立場に引き寄せて解説しているんじゃないか、もしかして牽強付会の無理な解説になっているんじゃないかと読む前は思ったが、ところがお大師さんの般若心経に対する解説は諄々と無知なものを教え諭すような書き方で全然違和感なく、まったくもって、この般若心経は密教のために書かれたのではないんかしらん。とまで思うようになっていた(歴史を見るとそのようなことはないのだが)。

 般若心経は短いがその中にお大師さんによれば、宗教心の芽生えから始まって、次第に悟りのステージが上がっていき、般若経のステージ~天台(法華経)のステージ~華厳経のステージ~そして最後は密教の真言、という風に般若心経は経典の進化を自らの中に見せているのである。そして締めくくりがギャテェーギャテェー、ハラギャテェ、ハラソウギャテェー、ボジソワカ、の真言となるのである。まことに納得のいく般若心経の解説である。『般若心経秘鍵』だけを読んだのではわからないが、順々とこの悟りのステージが上がっていく納得感は、お大師さんの別の著作にある「十住心論」という教えを読めば頷けることである。

 般若心経で多くの人がもっともとらわれる部分は「色即是空、空即是色」で表されるように「空」論である。しかしこれは難解をもって知られており、本格的に知りたければ初期大乗仏教の論者である龍樹や世親などの著作を読んで研究しなければならない。現代において「空」論を優しく解説した書がいくつも出ているがそれぞれの書によって違っており「空」論をすんなり理解するのは難しい。

 「ワイは般若心経を理解せずに唱えるのはどうもスカン、なんとか知的に理解したうえで心行くまで般若心経をうたいたい」、という人もいるだろう。そんな人は知的好奇心からどうしても「色即是空、空即是色」などの「空」論部分に目が行ってしまう。あげくホンマに龍樹はんの意図した「空」論かいなぁ、というような全く違う偏頗な理解に陥ったり、わかったような気分になった程度であいまいに切り上げたりする。

 そんな人には『般若心経秘鍵』がお勧めである。密教的立場で書かれているとはいいながら、大所から大乗仏教の教えの歴史的流れを辿り、密教に至る過程が理にかなって説かれている(欠点としては経が短いこともあり細部の深い掘り下げはしない、「空」論も内部からの理解より大乗仏教の大きな流れの中での外からの眺め、というようなものにとどまっている)。般若心経を理解せずに唱えるのはスカン、ちゅう人には一読してほしい。特にお四国(八十八ヶ寺めぐり)は密教の修行道場であり、そこで唱えるお経のもっともポピュラーなのが般若心経であることを考える時、『般若心経秘鍵』による般若心経の理解はもっともふさわしい気がする。

2021年5月6日木曜日

スィッチバックの駅、坪尻

  60年以上たったが、汽車の旅の楽しみはガキの頃と変わらない。車窓を眺める楽しみは全行程を通じてのものだが、ガーッと音がして鉄橋を渡るとき、そしてトンネルに入り抜ける時は、この歳になってもいささか興奮するというかワクワクする。小ンマイ頃、家族に連れられて汽車にのるとき、乗車距離が短く、トンネルも鉄橋も通過しない時はがっかりしたものである。

 ワイんくは徳島線に沿ってある。この徳島線は残念なことにトンネルはごく短いのが一つ、長い鉄橋は鮎喰川橋梁くらいのもので、この路線沿いにある親戚を訊ねるためよく汽車に連れられて乗ったが、いささか物足りない気がした。しかし一年に一度あるかないかだが金毘羅はん(これは土讃線)や八栗はん(こちらは高徳線)にお参りに行くときは、多くのトンネルや、長い橋梁を渡るため、遠出の楽しみ以上にトンネルや鉄橋を渡る楽しみがあった。特に土讃線は谷や山すそをめぐり、阿讃の山脈を突貫するためトンネルが多い。子どもの頃、金毘羅はんへ行くため土讃線に乗った時は大興奮したのを覚えている。

 その土讃線は徳島線の終駅一つ手前の駅・佃で乗り換える。60年たってもこれは変わらない。5月3日の朝、乗り換えのため久しぶりに佃駅のホームに降り立った。


 琴平行きに乗り換え出発するとすぐに吉野川橋梁を渡る。小ンマイ時は外界の認識も幼稚で鉄路が通っている地勢や地理的条件などに関心はなかった今は地勢や路線の地理的条件に関心が向くようになった。車窓左を見ると阿讃の山々が見えているがあの山裾の結構高いところまで汽車は登り、谷筋を走り、阿讃のトンネルのいくつかを抜け、讃岐の国に下りて行くのである。


 左へ大きくカーブしながら汽車は山の中に入っていった。キキー、キュキーと車輪と線路がきしむ音がする。ディゼル機関の音が一段と高くなってきた。線路の勾配がキツクなった証拠である。速度も当然おそくなった。周りをみるが深い山の中を走っているような感じで緑の木々しか見えない。60年も前のワイの子どもの頃は蒸気機関車が喘ぎ喘ぎ登って行ったのだろうと思うが、子どもの関心はトンネルや周りの景色に魅了されてか、そんな記憶はない。だから全国の鉄路の中でも珍しい「スィッチバック方式」もその時は全くしらなかった。

 汽車はバスや自動車と違い、坂が苦手である。バスが難なく登れる勾配でも汽車は無理であることが多い。限界の勾配があってそれに近い鉄路を上るときは空回りしないよう、砂を鉄路に振りまくこともあった。限界以上の勾配を汽車が登る手段は、二つあった。一つは二本の線路の真ん中に歯のついた鉄路をもう一本敷き、そこを特別の機関車の歯車をかみ合わせ列車を牽引しながら登らせる方法、アプト式といわれるが、この場合は結構な急こう配でも登れる。

 もう一つは急な坂を一度に登らず、ジグザグに前後ろに行きつ戻りつしながら登る方法でこれが「スィッチバック方式」である。理論的にはたくさんのジグザクを組み合わせ何度も行きつ戻りつすればどんな急坂でも上れるが、地勢の制約もあり、限界はある。外国のアンデス山脈の鉄道のスィッチバックは十回以上行きつ戻りつしながら、かなりの高度まで上がるが、日本ではせいぜい1~2回ほどの行きつ戻りつである。

 前者のアプト式はワイの子どもの頃は軽井沢あたりの信越線の急こう配にあったが、今はなくなった。そのため急こう配を登る手段として残るは「スィッチバック方式」だけである。

 そびえる阿讃山脈の手前にその「スィッチバック方式」の駅『坪尻』がある。汽車のとまっている右横にもう一本線路が走るがこの高低差を汽車が行きつ戻りつしながら登るのがスィッチバックである。


 この坪尻駅、実は地元の生活駅としての使命はすっかり終えてしまっている。というのもこの阿讃の山ふところ深いこの駅周辺、民家はすべて廃屋になっている。だから地元住民の乗り降りは全くない。このため今は普通列車が特急をやり過ごす待機駅としての使命しかない。しかし駅舎はコジャンとしていて、待合室も整備されている。これは最近、秘境駅としての観光価値が出てきて、ここで乗り降りする観光客が増えたためだ。



 汽車は20分ほど停車したのち、バックして右の線路に入り、長い阿讃トンネルを抜けて讃岐の国に入った。

2021年5月5日水曜日

鯖大師

  考えるとケッタイな名前のお寺だ(もっとも正式名は八坂山・八坂寺であるが鯖大師というほうが世間一般に知られている)。鯖はもっとも生臭げぇな魚である。魚鳥の肉食を忌避する(本来は)寺に鯖の名を冠するはちょっと不思議だが、寺伝によると、鯖に関する大師伝説があり、そこから通称名が由来している。

 早いうちに讃岐をフリー切符でまわったので県南のどん詰まりに近い場所にある「鯖瀬駅」についたのは午後5時45分であった。寺は駅を降りたすぐのところにある。納経のなどの寺務は午後5時でおしまいだが参詣するのはまだ明るいので問題なかろうと思いつつ急いだ。

 鯖瀬駅、ホームからは海が見える


 小さな橋を渡ると駅のホームからほとんど隣接して見える六角堂の前に出る。馬頭観音をお祀りしている。参詣者の姿は全く見えないが駐車場に香川ナンバーの車が止まっていて、お堂の中からドンツクデンツク、ベチポンパンと太鼓の音と般若心経を唱える僧侶の声が聞こえてくる。たぶん車の人が頼んで御祈祷を挙げてもらっているのだろう。


 観音様はいろいろに変化するため多く違った観音様がいらっしゃる(千手、十一面など)。みんなお優しい(母性的な)慈悲の相であるが、この馬頭観音様だけはお不動さんのような忿怒の相をしている。それだけにお頼みすれば、なんか馬力のある力強い効験がありそうである。

 馬頭観音堂を抜けると鯖大師本坊である。この時刻、参詣者は私以外誰もいない。


 鯖大師堂の前には「鯖」の石像がまつられている。


本坊全景


帰りの汽車は二時間に一本しかなく、乗り遅れるとエライことになるが、駅が隣接しているので、ブォ~という汽車の近づく音を聞いて走っても間に合いそうである。

 帰りの汽車がトンネルを抜けてホームに入ってきた。汽車を降りて45分ほどの滞在・参詣であった。かなり暗くなっていた。

2021年5月3日月曜日

四国再発見フリー切符の旅

 始発の上り列車で池田行きに乗り佃駅で乗り換え、善通寺でお大師様の誕生寺をお参り、そこから讃岐国分寺へ、ここでは札所の国分寺をおまいりしたあとそれと隣接している奈良時代の国分寺の遺跡・遺構を見学する。高松経由で再び徳島へ帰り、そこからまた牟岐線に乗り換え、終点の海南駅二駅手前の鯖瀬駅で降りて鯖大師へお参りする。家へ帰ったのは9時を過ぎていた。

 ブログのネタは3~4ほどあるので次回から具体的に書こうと思っています。 

2021年5月2日日曜日

薬王寺、平等寺におまいりする

 朝は快晴、昨日吹き荒れた風も今はほとんど吹いていない。日和佐駅で汽車を降りると反対側のホームから隣接した道の駅にぬけられる。


 道の駅はすべての店、付属施設みんな閉まっている。トイレまでブロックして入れなくしている。駐車場には車も全然なく、人もほとんどいない。数人のバイクライダーがあずま屋で寒そうに背中をまるめて休んでいた。

 道の駅から薬王寺入り口はすぐ近く。山門横には、りんご飴屋が店を開いていたが、開店休業状態であった。


 本堂


 山門横の水洗トイレを使い、前のベンチで休んでいると30歳くらいの青年がトイレの洗面所で顔を洗って出たきた。顔が日焼けでずいぶんほてっている。とめてあったママチャリ(お買い物自転車)の方に向かっている。私が思わず、君ぃ~、ママチャリで旅行してるの?と聞くと四国一周の旅の途中であるという。なるほど見るとママチャリの荷台には寝袋が積んである。岡山をでて反時計回りに三分の二ほど終わったそうだ。これから徳島~鳴門に向かうといっていた。

 ママチャリの旅かぁ~、いいなぁ~、四国一周くらいだとなんとかワイも出来そう。野宿はさすが無理だから民宿に泊まるとして二週間くらいか、この歳が実行のギリギリの年齢かも、行きたいなぁ。

 薬王寺参拝のあと半時間ほど歩いて大浜海岸に行き、砂浜で小一時間ほどボ~っとする。ここではナナハンライダーのオッサンにあった(50~60歳くらいか)、ナンバーを見ると「旭川」となっている。ずいぶん遠くからだ。聞くとこの人も四国一周で10日間、山間部を含めくまなく回るそうだ。

大浜海岸動画

 

  帰り道、新野駅で下車し、半時間ほど桑野川沿いを歩いて平等寺におまいりする。川沿いの道をテクテク歩いたが野薔薇のいい香りがずっと漂っている。下の写真はノイバラの葎の河川敷、川面にはよく見ると(豆粒みたいだが)カイツブリ鳥のつがいが仲良く並んで遊泳している。


 平等寺山門、前の参拝からちょうど一年たったが、仁王さんお二人ともまだマスクを外せないでいる。いったいいつになったらマスクなしで素顔をさらすときが来るだろうか。


 本堂、石段を上り詰めたところにある。

2021年5月1日土曜日

霊山寺・極楽寺・金泉寺の三ヶ所まいり

 坂東駅で汽車を降りてまず霊山寺をお参りする。駅から寺までの道には昔の撫養街道の雰囲気が残っている。


 霊山寺山門


本堂内部


手水場の右横に仏教の三聖樹の一つ菩提樹がある。(ただしインドの菩提樹はクワ科であるのに対し温帯の日本ではシナノキ科の菩提樹を代わりとしている。



霊山寺から2番さんの極楽寺へ行く途中、15年前に公開された映画『バルトの楽園』のオープンセットが残っているので見学をと思ったが、立ち入り禁止になっていたので外から撮影した。


2番極楽寺山門と本堂、なんで秋でもないのにモミジの紅葉が?とおもうがこれは季節にかかわらずこのような葉の色らしい。


そこから2kmほど歩く。風がずいぶん強かった、おまけに向かい風なのでルンルンの歩きには程遠い、極楽寺参拝したあとなので、これがホントの、歩くのに「往生したわぁ!」

3番金泉寺山門と本堂


ここのお参りを終えたとき、雨がパラつきだした。ちょうどよい、ここで予定は終了、帰りの駅、板野駅もすぐ近くである。間の良いことに駅に着くとすぐ出発の汽車が入ってきた。乗り込むとワンマンカーなので一人の運転手がすべてを操作している。車内アナウンスを聞くとなんと女性の声である。驚いて運転席を見ると若い女性であった。毎日のように汽車に乗るが運転手が女性は初めてである。このことと雨の降るタイミング、待たずに入って来た汽車、などを思い合わせると、なぜかラッキーな気分になった。