2021年5月10日月曜日

奈良時代の讃岐国分寺遺跡見学

  讃岐の鉄道を「汽車」といってはいけない。琴平からは線路の上に電線を引っ張っていて讃岐の国の鉄道はほぼ電化している。だから「電車」といわなんだらあけへん。ワイの住む阿波の国は未来永劫電車なんど走ることはないだろうなぁと思う(電化の話はこれっぽっちも出ないうえ、むしろ大赤字で鉄道そのものが廃止の崖っぷちに立っている)。四国四県で電車のないのはわが県だけである(ワイの県を除く四国には高知電気鉄道、松山坊ちゃん電車、琴平電鉄、そして予讃線がある)。

 こんな県は珍しい(鉄道がない沖縄は外すとして)たぶんウチラの県だけじゃないんか知らん。だからウチらでは鉄道は絶対電車とはいえない。ウチの県の鉄道にワイは「汽車」という言葉を使い続けている。よそモンからは馬鹿にされそうだが、むしろ電化されない鉄道を持っていることにちょっと埃を感じてあえて今でも汽車という言葉を使っている。列車という言葉もつかえるが、だいたい赤字の超ロカル線でほとんどは一両である。列になる列車でもない一両に列車というのもおかしい。

 汽車というと蒸気機関車をイメジするが、今はさすがワイの県でも動力機関はディジェルエンジンとなっている。ディジェル機関車を「汽動車」と呼んだりするから、ワイとしては汽動車のディジェル車を「汽車」(真ん中の動の字をとって)と呼ぶことにしている。

 善通寺のおだいっさんの誕生寺参拝の後、高松行きに乗ったがさすがぁ~早い、でもワイはウチンくのゆったりはしる汽車がすっきゃわ。もし同じ運賃なら、ワイは目的地に素早く10分でつける電車より、できるだけ長く時間をかける汽車を選ぶ。ゆっくり鉄道の旅を楽しみたいっちゅう考えを持っているワイやから早い電車はどうもスカン。だがここで乗ったのは鈍行各駅停車ではあるが電車なので非常に速い。

 次々と多度津、丸亀、坂出駅と過ぎていく、丸亀駅あたりでは名城「丸亀城」が車窓から眺められた。このお城、天守や櫓はあまりパッとしないが、石垣の形の美しさは群を抜いているんだよなぁ。


 そして降りたのが「国分駅」、ホームは長いが小さな駅舎しかない無人駅である。そこから5分ほど歩けば、国分寺と奈良時代の国分寺跡遺跡がある。

 広い国分寺遺跡に残る当時(奈良時代)のものは各伽藍の礎石のみである。しかし見学者がよくわかるように敷地内には当時の伽藍の何分の一かのミニュチュァ模型があり、金堂、講堂、塔、鐘楼などの配置やその形がよくわかるようになっている。日本史の生きた資料として使える。残念なことにわが徳島県の旧国分寺跡遺跡はこのように整備され歴史教育に使えるようにはなっていない(棒杭が一本寂しくたっている)。


 国分寺を囲む「築地塀」も当時と同じサイズで一部、下の写真のように復元されている。そうそう遠景に見えるいびつな台形状の山地は「五色台」といい。高原状の山の上にはいくつかの寺院、保養施設、遊場などの建物がある。43年前、ボロッタァの軽四に乗り、徳島からこの山まで来たことを思い出した。ある通信制大学のゼミに参加し一泊するためである。指導教官を囲んで寝泊まりをしながら受けた実技指導は今も忘れられない懐かしい思い出となっている。


 ミニチュァの伽藍や復元された築地塀があるばかりでなく、ここには体育館のような「覆い屋」があって、むき出しになった発掘現場が保存されている。また当時の国分寺内部の僧房の生活の一端が等身大の人形を使って再現されている。おそらくこれは写経をしているのだろう。



 ここでちょっと考えてみる。ワイのように妄想癖のある歴史ファン、あるいは最近の若い衆(ワカイシ)でも歴史もののゲームが好きな連中は、過去の偉人の生きた時代に、わが身を飛ばし、その時代にワイが生きとったらこんなことをするのになぁ、と想像をたくましくする。はなから歴史上の偉人のまわりに生まれ変わるつもりでいる。しかし今も当時も同じだが、生きる人の大部分は偉人でもない平凡な人々である。もし(ありえないとしても)時空をワープして歴史時代に自分がポンと現れても、せいぜい生きられるのは庶民以下の生活である公算が大きい。

 この国分寺ができた西暦760年頃、もし、ワイが生まれとったらどうじゃろかいなぁ?確率から言っても農民の小せがれ、平城京の貴族にうまれることなんどないだろぅ。ワイ、体も弱いし、喧嘩は強よぉないし、ドンくさい持ち前はいまのままやろ、こんな時代に農民の小せがれにうまれたら、生きていけへんやろと思う。

 しかし当時農民の小せがれとして生まれとったとしても唯一、農業せんでもええ、浮浪人・乞食や盗賊の手下にならんでもええ、おまけに辛い肉体労働せず、税も納めず、しかももしかしてうまくいけばその道で少しは世に出る方法があった。

 「なんやと思います?」

 まぁこのブログの流れからいっても予想はできますわなぁ、そう、上の僧房の再現にあるようにこの国分寺の下級僧侶、といっても最初は寺の雑用係、そのため農民の小せがれでも採用される。そして馴染めば文字や経を覚えられる。さらに能力があれば写経係になり、そこから官僧への道も開かれていた。

 はっきり言ってこれ以外に庶民の子どもが出世する道は当時(8世紀奈良時代)はなかったといってもよい、これが唯一上昇の道であった。

 などと考えつつ、国分寺遺跡見学を終えた。

0 件のコメント: