2021年5月14日金曜日

インドは昔から日本人のあこがれの地、どうしても三聖樹にふれたい

  西洋文明を考える時、そのアイディンティチにかかわる根幹には三つの大きな幹(ミキ)があるといわれている。一つはギリシャ・ローマの古典文化、第二はキリスト教文化、そして第三、これが最も西洋人の内奥深いところにあるものだと思われるが、ゲルマン民族あるいはケルト民族の文化といわれている。

 同じように日本を一つの文明圏として考えるならば、もっとも深いところにあるものは縄文・弥生そして古事記などに表される土着の文化、そして第二の西洋のギリシャ・ローマの古典文化に当たるものは六朝から隋・唐をへて宋くらいまでの中国の(古典)文化であろう。そして第三は仏教を通じてのインド文化じゃないかと私は思っている。

 仏教は非常に古くから受容されてきた。しかし仏教はインドに生まれたものであるが、わが国には中国を通じて入ったたため、仏典はほとんどが漢文で書かれ、仏教の内容もかなり中国化されている。その中で日本にはどれほどインド文化というもが影響を与えているのだろうか?とクエッチョンがつきそうだ。

 しかしかなり古くから(仏教を受容したときに遡るくらいの時)、我々日本人は、3つの文化、いや3つの文明圏といったほうがいいだろう、ずっと意識してきたのである。それは『本朝(日本)、唐・から(中国)、天竺(インド)』言葉が表すようにこの世には三世界があると言い慣わされてきた。この中で中国とは人や文物の往来は古来より頻繁にあり、ある意味身近な文明圏である。しかし「天竺」となると人や文物の往来・交歓はほぼほぼないのである(奈良時代に数人の中国経由でやって来たインド僧がいるにはいたが)。まったく夢のような遠い国である。それなのに「唐、天竺」と同等に並べる意義は大きいと言わなければならない。

 平安末に成立したといわれる説話集に「今昔物語」がある。中学高校の国語にもとりあげられるくらい有名な説話集である。仏教色の強い説話が中心であるが、この説話集の構成を見るとまさに「日本、中国、インド」の三世界なのである。そして最初に天竺が来て、そのあとに震旦(中国)、そして本朝(日本)と続くのである。やはり仏教説話の打ち立て・最初はお釈迦様の故郷・インドから始まるのである。ここではお釈迦様の生涯を描いた説話を通してインドの風土、文物、草花樹木、動物などが取り上げられている。このように平安末という相当古い時代から、庶民の耳にも心地よく入るであろう「説話」として天竺(インド)は人々に馴染んでいたのである。そして中国とは違った精神文化を日本人の心に注ぎ込んでいたのである。そのインドの精神文化は仏教という大きな風呂敷に包まれているが、内実は仏教以外のインドの精神文化をも内包しているのである。

 例えば「愛」、古典中国だと、どうも人間愛は、親子、子弟、兄弟、主従、のような型にはまり、ずいぶんと建前が優先する堅苦しい感じがする。男女の愛も前述の人間愛に比べるとずっと劣るというか大っぴらにできない傾向がある。中国古典の大書、論語、孟子、あるいは史記などに見られる人間愛はそのようなものである。

 これに対しインドの「愛」、インドにはカーマスートラという愛の古典があるが、濃密な男女の愛を赤裸々に率直に表している。男女の愛どころか同性の愛でさえも肯定されている。読んでいてこの書は、愛欲に溺れることを奨励しているのではないかしらんと思うくらいである。

 インドで生まれた仏教は当然のことながら一般の人であっても愛欲の溺れに対する戒めはある。出家者などは厳禁である。しかし世俗の人間の男女間の細やかな愛情は肯定的にとらえている。それらが「苦」の元となると説いてはいるが、それらはおおっぴらに語られ、初めから否定することはない。

 日本には初めに言ったように外来の中国、インドの二つの文明圏から影響を受けている。政治や社会の規範としては中国文明圏の影響を受ける一方、個々人の「愛情」に関してはインド文明圏の影響をかなり受けていると思われる。平安時代に書かれた「源氏物語」がある。これなどは人の逃れられない愛情の溺れとそれに対する仏教の因果応報、罪悪感がなければ成立していないものであろう。日本の文学で示される細やかな愛情や罪の意識などはインド思想の入った仏教がおおきな影響を与えている。どう考えても日本の土着の思想や中国古典文明とは異質なものである。

 世界には「文明圏」と呼ばれる圏域がある。西洋文明圏、イスラム文明圏・・などである。文明圏を最も象徴するものは宗教であるといわれているがそれに劣らず重要なものに「文字」がある。日本が中国、インドの二大文明圏から影響を受けた証拠にその二つの文明圏の文字が残り、生かされてきた。「漢字」については言うまでもあるまいが、インド文字もしっかり定着し生かされてきた。仏教で用いられる悉曇文字(梵字)がそれである。卒塔婆などを見ると今でもしっかりと書き継がれている。日本では19世紀になるまでこの二つ以外の文明圏の文字は定着しなかった。文字をとってみても古くからインド文明は日本に入り、それなりの地位を占めて今日まで伝わっているのである。

 「文物」の伝播に関して「文」はかさばるものではないし、伝播の途中で劣化消耗することは少ない。それに比べ「物」の方はそうではない。例えばインドの生き物などは直接運ぶ以外ない。インドの風土でおなじみの象、仏典にもよく登場し、普賢菩薩の乗り物でもあるこの生き物については日本人は最初直接知ることはなく、絵画などについてその情報を得るしかなかった。生きた象が日本にもたらされたのは室町時代になってからである。それもごく一部の人しか目にできなかった。それでも平安の昔から、庶民は今昔物語や仏典の説話、そして普賢菩薩などの仏像を通じ意外と象は身近な動物であった。孔雀なども実際には全く見られないにもかかわらず象と同じように身近なインドの生き物であったのである。

 インドの動物はこのように移入することは難しいが、植物となれば動物よりずっと移送が容易である。種や苗ならば大洋を運ぶことも難しくない。日本人が昔から特にあこがれと親しみを持ったインドの植物に仏教の「三大聖樹」がある。菩提樹、沙羅双樹(沙羅の木)、そして無憂樹である。前二者はみんなよく知っているが無憂樹はあまり知られていない。この木はお釈迦様の誕生の時、この木の下で生まれたとされる木である(母親マーヤ夫人がこの木の枝をつかんで出産したといわれている)。ところが残念なことに昔から庶民にも親しまれあこがれをもって見られていた樹木であるが、この三樹ともインドの風土熱帯地方で育つ木であるため寒い冬を持つ日本では露地で育てるのは無理である。今、どうしても日本で見たいと思えば植物園の温室のなかでしか見られない。

 大昔の日本人のとってみればあこがれの強い木であるが本物は移入し育てることはできない。しかしどうしてもお釈迦様の三聖樹をこの目で見てみたい触れたいという強い願望があった。そこでいろいろな似た理由やいわれはあったが、日本ではお釈迦様の三聖樹として日本で育つ木が選ばれ、それにあてられている。後世になると(平安時代以降)それを決してまがい物とは見ず、本物の三聖樹とみなしたのである。だから今、寺院や家の庭などにその三聖樹は普通に見ることができる。

 近辺で見られる三聖樹

 菩提樹

 シナノキであり、セイヨウ菩提樹とごく近い種である。一番札所霊山寺、撮影日令和3年5月13日



  沙羅の木

 別名ナツツバキ、二番札所極楽寺、撮影日令和3年5月13日、見ると花のつぼみが米粒ほどになっている。6月中下旬に咲く、一日花として知られており、それが儚い栄枯盛衰を象徴するといわれている(平家物語の序章の文句で有名である)



  無憂樹

 百日紅がこれにあてられる。インドオリジナルの無憂樹と花が似ているとも言われるが、理由は確かではない。撮影日令和元年7月29日、常楽寺へ行く道で撮影。

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