2021年5月15日土曜日

ブログのアップが間遠ぅになります

ブログの更新が途絶えてもホテ死んだわけではありませんのでおしらせしておきます。 昨日、とうとうパソコン(ウィンド10)がブチめげてしまいました(内部がどうのこうのではなく、文字通り、本体から画面が分解・解体してバラけてしまいました)。新品で買って四年目です。サンキュッパ(39800円)の台湾製で、ワイの酷使にもかかわらずよくぞここまで持ってくれたと感謝しています。 昨日のブログアップしてからブチめげたので、じゃぁ今日のブログはどこから?以前の古いパソコン(ウィンド7)からこれを書いています。しかしこちらのパソコンはセキュリチのバックがなくなっているので恐る恐るアップしています。余計なサイトなんどは見ず、投稿のみでパソコンを立ち上げています。 今後は図書館備え付けのパソコンか、古いウィンド7のPCでブログを書こうと思っていますが、図書館のPCは一時間しか使えないし、ウィンド7のPCもセキュリチが不安なので長時間は出来ません。そのためブログのアップが間遠ぅになります。 次回は、出来れば「沙羅双樹の花」の開花の頃、その写真入りのブログが作れたらなぁと思っております。

(特別投稿)

 年々早まる梅雨副題、仏教と梅雨

   次回ブログは沙羅双樹の花が開花を迎えるころ投稿しようかなと思っていたのですが、本日(15日)梅雨に入ったというニュスが聞こえてきた、一瞬思ったことは「えぇっ!ホンマかいな」という感想である。今日は5月15日である、6月ではない。こんな早い梅雨入りなんど聞いたことがない。でもネットで確かめると間違いない、本日午前11時気象台は四国地方の梅雨入りを宣言していたのである。驚くのも無理もない、なんとワイらの四国地方でのこの梅雨入りの早さは前例がなく史上(もちろん統計をとりはじめてだが)最も早い。この現象は近代工業社会の宿痾といってもいい時とともに進む大気中の炭酸ガスの増加が影響を与えているのは間違いないと思う。史上最も早い梅雨入り(四国)のニュスに触発され、いろいろ思い浮かんだこともあるので「ブログ一時中断」というお知らの後ろに特別投稿することにしました。

 さて、去年の梅雨入りを見ると去年は5月31日でした。とうとう梅雨が5月に始まるようになったか、と思ったものですが、今年はそれがさらに半月早まりました。近年梅雨入りが早まる傾向はずっと続いていますが、注意することは梅雨入りはどんどん早くなっても梅雨明けはあまり変わらないかむしろ少し遅まる傾向になっているということである。ということは「梅雨の期間」が長くなっている。この前倒し傾向が続けば梅雨がどんどん長くなり、3ヶ月びゃぁにもなると四季(四分の一は3ヶ月だ)のうちの一つは「梅雨」になりそうだが、そもそも梅雨という名称は梅の実のふくらむころということから名づけられたものである。しかし前倒しになると梅の結実よりずっと以前に始まってしまう。これらのことを考えるともう「梅雨」なんどという優雅な名より「雨季」とした方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 そもそもワイら日本人はこの時期を「梅雨」というように特別な名称で呼ぶが、外国人、特に一年中雨量が一定している欧州や乾燥地帯の国から来た人は、この日本の多雨で湿気の多い時期は「雨季」という認識である。「梅雨」と聞いても、ワイの好きなお釈迦様のインドは思い浮かばないが、「雨季」と聞くとすぐインドの風土を思い出す。インドの気候は強烈なインパクトのある「酷暑期」と「雨季」で有名であるからである。

 お釈迦様大好き、お釈迦様を恋い慕うワイからすると、去年の猛暑の時のブログでもチョロっと書いたが猛暑・酷暑は大歓迎である。なぜならお釈迦はんのインドの風土に近づくからである(ところが日本の夏はヘタレたことにどうしてもインドのように50°ちかくにならへん、40°近くで大騒ぎしている。鈍なこっちゃ!)。だから梅雨が長くなって一つの季節の大部分を占め「雨季」と称するようになってもどうっちゅうことあらへん。雨季のあるインドに近づくだけのこっちゃ、お釈迦はんはこの「雨季」という鬱陶しい時期もちゃんとすばらしい過ごし方を教えられたのである。(以上は出家者や、半分死んでいるようななにもせぇへんワイのような者であって、仕事を持ち社会生活をしている人には当てはまらず、迷惑な異常気象となる

 「安居」(あんご)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。そもそもの「安居」の意味は、インドで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行することやその期間のことです。今、日本では死語に近い仏教用語となっています。というのもお釈迦様のいらっしゃった初期仏教の時代、出家者は糞掃衣と呼ばれるキチャないぼろ布一枚を身にまとい持つものは托鉢の椀一つ、もちろん家を持たないどころか居所も定まらず各地を死ぬまで遊行して歩いたのでした。ところが今の日本の僧侶は大きな寺院に住まいし、(お釈迦はんの当時と比べると)美衣美食しているのが普通です。だから遊行が常態であった初期仏教のように一定期間、1か所に集まって集団で修行するなどという「安居」はほとんど実施されていないのです。

 お釈迦さんの当時、アッチャコッチャを遊行・托鉢・説法をして回っていた出家者(お釈迦はんも含め)が寄り集まって一つところで「安居」するのに毎年よい機会がありました。それがインドの「雨季」でした。土砂降りの雨の日も多く、インドの土地は水浸しになってしまいますから、遊行はかなり無理となります。その時期、どこかに集まって集団で修行することにしたのです。在家信徒から土地や建物が寄進されそれにあてられたそうです。初期仏教ではこの場所を「精舎」といっています。もちろん雨季が終われば原則として遊行に戻ります。だからこの時期の「安居」のことを「雨安吾」と言ったりします。

 また仏教の考えからこのようにも説明されます。生涯を遊行し処を選ばない修行の身の出家者にとって雨だろうが水浸しの地だろうが関係ない、それを厭う理由で安居するのではない。この時期は生き物が死んだようになって活動を休止した酷暑・乾燥期が終わり生き物が水に喜び、生きかえり活動する時期である。修行者がペタシペタシと歩いていて、泥中や水中のミミズやカエル、虫類などの小動物を踏み潰すかもしれない。殺生を厭う仏教にとってみればこちらが安居を行う理由となる。なるほど、虫けらにでさえ思いやりをかける仏教ならではの説明である。これを聞いて思い当たる節がある。ワイの小ンマイとき、どこでも立ションベンしたらあかんて祖父に言われていた。どうしても立ションベンするときは『ミミズもカエルもみなゴメン』ちゅうてせぇよ、ていわれていたが小さな生き物にも思いやりを示す仏教の考えからこのような言い訳がうまれたんやなぁ。

 このように本来は「安居」は仏教の修行形態として重要なものであった。今でこそほぼ廃れつつあるが、江戸時代までは寺・庵に安住する出家者ばかりではなく、野山や村々を遊行しながら修行する人も多かった。たしかに江戸時代ともなると宗教者は幕府の方針でかなり規制をかけられ組織化されるが、そんな中でも特に山岳修行者などは「山伏」としていずれかの修験寺院に所属しながらも遊行しつつ修行を行ったのである。だから安居という修行形態も「雨安吾」や「夏安吾」という言葉で残っていた。

 学校教育で松尾芭蕉はんの「奥の細道」は必ずといっていいほど教材に取り上げられていますから知らない人はいないでしょう。好きな人はその中のいくつかの発句が頭に残っている人もいるでしょう。どの発句も有名ですからね。その中で元禄2年(1689)4月2日の作があります。日光に立ち寄り僧侶たちの修行の場でもあった「裏見の滝」を訪れ、実際に滝の裏に入りよんだ句です。

 『しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め』

  この「夏(げ)」といっているのが夏行(げぎょう)または夏安居ともいうのです。一定期間一室に籠って修行することです。期間は陰暦4月16日ころ(太陽暦では梅雨の始まるころか)から1~数か月間とされますから、初期仏教の伝統を引き継いだ「安居」ということができます。

 今日は夕方になって激しい雨になりました。車を持たない私は傘をさしつつもかなりビショコになって図書館まで行きました。道々、ワイのように歩いている人は少ないですが、車の通行は多いです。ほとんどの人は車を所有し、大雨でも濡れず、好きなところに移動できます。現にこんな大雨でも車の外出は多いです。たとえ外気は蒸し暑くとも車中はエアコンが効いて快適です。車がもしかしてミミズやカエルを押しつぶすかもなどと言えば、アホぉげとる、と一笑に付されるでしょう。車利用は快適さの見返りとして一方では車の尻の穴から膨大な炭酸ガスを放出しています。しかし人の幸福追求のためにそれは決して悪いことではないと思っています。まったく私もその通りだと思います。

 しかし果たしてこのままどんどん快適さを追及して行ってよいものかためらいがあります。なんか大きな犠牲の上にそれは進んでいっているのではないかという気がするのです。人が人を犠牲にするのは悪であり間違っているとみんな認識しているのですが、他の動物植物、環境、地球に対する犠牲はどうなんだろうと思います。現実にお釈迦様に邂逅することはできませんが、お釈迦様がもし現代に現れたときどのような説法をするのだろうかとかなわぬまでも思ってしまいます。

 梅雨入りが早いため梅雨の花、アジサイの見ごろもまだ早いようです。下は近所の八幡さま境内のガクアジサイと本殿。


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