2019年12月31日火曜日

地元のお不動さんにお参りしてきた

 約一ヵ月前に建治寺のお不動さん参拝を参拝して以来、県内のあちらこちらにある有名なお不動さんにお参りしてきた。わが地元にもお不動さんがあるがいつでもいけるという容易さから参拝は今まで延ばされてきた。しかし一年の最後の今日、お参りしてきた。

 藤井寺。正面が本堂で左に不動堂、右には大師堂がある。まず御本尊さま、そしてお大師さまを礼拝する。

 そして不動堂へお参りする。お不動様は火炎を背負っていらっしゃる、火生三昧という御祈祷もあるくらい「火」に関係した仏さまだ。ささやかながらロウソクを点し灯明をあげる。いっしょに経本の中の「聖無動尊秘密陀羅尼経」をあげさせていただいた。

 前のブログで光明真言塔のことを紹介したが、ここ藤井寺山門横にも光明真言塔が建っていた。

 中央に光明真言を2537万遍唱えたことが刻まれている。光明真言だけでなく左右には、不動経458万8千遍、(般若)心経21万2720遍唱誦したことが刻まれている。誦持者の名前も刻まれているが一人でこれだけの数を唱誦したとするとのべ時間はとてつもなく膨大になるはずだ。信仰が深く決意も固くなければなかなかできることではない。
 「光明真言」は梵語の呪文の一種で23文字しかなく一番短い。「(聖)不動経」は短いお経だがそれでも112文字ある。そして「般若心経」はこの中では一番長くて266文字である。やはり短いものほど唱誦した数は多くなっている。
 石塔の上に梵語の「種子」一字が刻まれている。帰ってから調べるとやはり「大日如来」の種子で(大日如来を表す種子はいくつかあるがその一つ)「アーンク」と読む。

 それから昨日のブログで密教の瞑想修行の一つ「阿字観」のことについて触れたが、今日図書館で法華経絵巻と華厳経入法界品絵巻を見ていると同じ巻に「阿字義絵巻」というのが入っていた。これは「阿字観」の瞑想行の絵巻である。絵巻の作成年代は平安末だから、古くから「阿字観」行われ、貴族社会で流行っていたようだ。
 下は「阿字義絵巻」の一部、胸の部分(こころの中を表しているのだろう)に「あ」の梵字が浮き出ている。

 こちらは尼御前

2019年12月30日月曜日

ここで密教の瞑想法が行われたのではないか

 3日前にいった聖天寺奥の摩崖仏のことを思い出している。あの場所のなんともいえない静的な、それは聖的にも通じる雰囲気、そして自然石に彫られた摩崖仏に囲まれた不思議な空間・・・
 私は宗教の知識もなく、ましてやホンの少しでも宗教的な修業をしたこともない。それでもあの場所は聖地いや霊地といったほうがいいかもしれない場所であると強く感じる。

 帰ってからさらにあの場所のことを調べた。旧山川町史(今は町村合併で消滅したが)、郷土の遺跡遺物の解説書類である。そうすると、摩崖仏は江戸期の宝永年間に作られたものではあるがあの場所は太古(記紀以前からと考えられる)から磐座(神の依りますところ)であり、聖地であったことがわかった。磐座は「いわくら」と読み、まさに自然の「岩」に神の依る「座」である。今は神様のいらっしゃる空間は「神社」という社殿建築になっているが、これは太古にはなく、神は山そのものあるいは森、川に遍在していた(かたちに現れずその全体に)、しかし祭祀などを行う場所としては磐座のような天然の岩、大木、などが神の依りしろとなる聖地として存在していた。

 この磐座に後世彫られたのが摩崖仏であった。この場所には神殿や寺院ができるずっと前の太古の祭祀形式を示す「石殿」というものがあることがわかった。わかったのは摩崖仏を参拝して帰ってきたあとそれに関する文献を読んでからであった。そのため3日前に行ったときはそのことは知らず、当然意識して写真も撮っていなかった。それでも、もしや、と思い撮りためた写真を見ると・・・おおぉ!その太古の祭祀形式の「石殿」が隅の方に写りこんでいた。
 下の写真である

 拡大すると

 郷土誌の説明によると

 『この摩崖仏そばの山肌には、緑泥片岩の板石を四角形型に組んで内部をカミが宿る室とする「小石殿」と呼ぶべき簡素な「山ノ神」の小祠が祀られている。剣山の北斜面から徳島市に至るまでの山間部、旧美馬郡・麻植郡・名西郡を中心に、このような石殿を祀る文化が数多く見られる。これは「山ノ神」「おかまごさん」「おふなとさん」「秋葉さん」など様々な名称で呼ばれ、特に忌部族に関係する地域に顕著に分布する。素朴な構造かつ信仰ながら、原初的(アニミズム的)な祭祀形態を現代に残しており、貴重な日本の民俗学的遺産となっている。』

 もともと摩崖仏の彫られた岩は磐座として神の依る場所であり、その傍に太古の祭祀の名残である「石殿」が設けられ、大昔から続く素朴な「やまのかみ」信仰として今に残っているのである。このような太古からある各地の「磐座」あるいは聖地は少なくとも飛鳥時代以降(仏教寺院が建てられ始めた影響もあるのか?)には神社が建てられ始め祀られるようになる。やがて「本地垂迹」の考えのもと仏も祀り寺院も併存もするようになる。ここ山川町山崎の磐座でもその傍に神社も寺院も設けられている。しかし、より古い祭祀形式の「石殿」がここには残っているのである。

 世界史的な常識では古い古い信仰(古代アニミズムといわれるが)は歴史の展開とともに後世まで継承されることは難しい。民族そのものが滅びそこでプッツン。あるいは異民族に支配され古代祭祀は圧殺され衰亡、また異民族の支配や交雑が起こらなくても有力な新宗教が入ってきたときにはどうなるか?イスラム、耶蘇教の布教を思い浮かべればよくわかる。強制圧殺という手段はとらないにしても彼らの体系的で組織的な宗教活動によって徐々に古い信仰を新宗教に置き換えていくのである。その時よくとられる手段は古い信仰の聖地の上にわざと自らの宗教施設を立てるのである。いわば乗っ取りである。このように有力な新宗教が入ったらやがて時代とともにその古代信仰は薄れ消えて行ってしまい。まったく途切れてしまう。

 幸いなことに日本は島国でかつ異民族の支配も異民族の大きな流入もなかった。しかし有力な新宗教である「仏教」が入ってきて飛鳥時代以降日本人の信仰世界に大きなインパクトを与えた。だが仏教は神々たちとすぐ共存し始め、神々の信仰を圧殺することはなかった。むしろ相互に影響し合い、「本地垂迹」(神さんは実は仏さんじゃった)や「本覚思想」(山川草木悉皆有仏・自然のすべてに仏は遍く存在し宿る)というような考えを生んだ。古代からの信仰は仏教の影響を受けある程度の変質を受けた。しかしこれを途切れたとは言わない。流れは変容しながらも切れることなく続いているといってよいだろう。

 今から約300年前にこの磐座に摩崖仏が刻まれたことを考えてみよう。これは断絶とは云わないのか?古い信仰の換骨奪胎ではないのか?結論から先に言うとこれは断絶にも乗っ取りにも当たらない。その後も古代からのヤマノカミ信仰もアニミズム的信仰もとぎれることなく残っている。
 古代からの「ヤマノカミ信仰・アニミズム」と「修験道」、そして「密教」は極めて融和的で、というより混然一体化している。密教の側から言えばいろんな神仏をそのまま認めつつ、それは大日如来のいろいろなかたちでの表れであるというし、修験道の側からいうといろいろな行や修法は密教と不可分であり、修験道で重んじられる神仏はみんな仲良く密教世界(曼荼羅)の中に存在する。だからこの磐座に密教の三仏尊(大日如来、不動明王、弘法大師)を彫ったとて以前からの信仰が大きく変質することもない。横には仲良くヤマノカミの石殿はあるし、隣接していろいろな神仏もズラズラと並んでいる(各種石仏、お堂、寺など)。密教はすべてを認めその信仰や祈りを否定することはない。

 この古代は磐座だった密教の三仏尊の場所をよく見てみよう。

 三方に仏尊を刻んだ自然石があるため一方向だけが開いている。今はそこにステンレス製の祭壇を設けているがもちろんこれが刻まれた江戸時代(宝永年間)にはそんなものはなかった。経を上げ真言で礼拝したあと、失礼して三仏尊の中に入り撮影させていただいた。

 左の岩には大日如来が彫られている。周りの円周上には梵語が彫られている。

写真をもとに帰ってから調べると思った通り、光明真言「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」を梵語で書いたものであることがわかった。普通3回、7回、21回と連祷するが回数が多いほど効能も増し、百回連祷加持した土砂を死者の上にかければその加持力によって諸々の罪障は滅し往生できると信じられている。そのため江戸時代に大変流行った真言である。この光明真言を人々がのべ百万遍唱えその功徳を表した真言百万遍の石塔が今でもあちらこちらにある。(一例を取り上げた私のブログがこれ・クリック

 光明真言の梵語は左のようなものであるがこの大日如来に刻まれた梵語と一致する(オンからウンまで23文字ある)。時計短針の6時の位置に初めの文字がきてそれから時計回りに配置されている。






 この大日如来の下にはこの大日如来を刻んだおりの祈願が記されている。下の写真である。

 願いは「天下泰平・村中安全・五穀成就・家運長久」となっている。実はこれが作られた宝永年間は歴史な大災害が日本を襲っている。「東海・南海トラフ大地震」と「富士山の大噴火」である。二つの災害がほとんど間髪を入れず起った。2011年の東日本大震災の規模を越えるマグニチュード9以上といわれる東海南海大地震がまず起こり、その揺れと津波で家屋人畜は甚大な被害を被った。とりわけ沿岸部は壊滅的状態となった。それからわずか49日後には富士山大噴火が起こり火山灰で関東は日が遮られ闇に近い状態となり、灰は何十センチも降り積もり農作物に大損害を与えた。
 幸いこの村は大噴火の影響はほとんどなく、地震も津波の被害はなく揺れによる被害は大きくはなかった。しかし全国から聞こえてくる二つの大災害の被害伝聞はこの世の終わりを思わせるには十分なものがあった。そんな世相の中、刻まれた大日如来さまへの願いの「天下泰平・村中安全・五穀成就・家運長久」は切なるものがあった。

 そして右の岩には下のような不動明王が刻まれている。不動明王も大日如来さまの別のお姿であるといわれている。

 三つ目の岩(正面)には弘法大師様が刻まれている。下の写真である。

 右手には金剛杵、左手はちょっとわかりにくいがおそらく念珠を持っている。掛け軸などでよく見る両目を開け決然としたお大師様像と違いこのお大師様は両眼を閉じていてその表情から瞑想(禅定)しているのがわかる。こちらにも梵字が刻まれているが丸い円の中にたった一字である。この梵字は最もよく知られた有名な一字で母音の「あ」の音。第一番の文字であるところからすべての始まりの音に擬せられ、転じては万物の根源、つまり宇宙そのものである大日如来の象徴とされている。

 この円の中にある「あ」字の梵語一字、これに向かい観ずる、といわれる瞑想法が密教には古くからある。それは『阿字観』(あじかん)といわれている。本などによる説明によれば丸い円に「月」を観じ、そして梵字の「阿」字を観じる方法である。それによって大宇宙・自然の神羅万象つまり大日如来と本質的には一緒であることを体感するのである。下が今も行われている「阿字観」をやっているところである。手前の修行者は女性、向こうは外国人のようであるから、作法がわかれば一般人でもできる瞑想修行である。

 上の写真の阿字観に使う掛け軸の丸い円中の「あ」字を見ていると、もしかしてこの三仏尊を彫った岩は昔、「阿字観」に使われたのではないかと考えた。もう一度この三仏尊の岩の並びを見てほしい。

 昔はステンレスの祭壇はなかったので一方向にのみ開いている。この開いている場所(ステンレスの祭壇の場所)に座ると、お大師さまの浮彫の上の丸円の「あ」字が真正面に来る。もっと大胆に推測すれば横には大日如来岩と不動明王岩がある、これを胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅を象徴するものと見立てればどうだろうか、「阿字観」瞑想の場所としてこれほどふさわしいところはないだろう。ここで宇宙や自然と一体化し、即身成仏の境地に達することをめざして阿字観瞑想が行われたのではないだろうか。私が調べた本の中には、この場所で「阿字観」が行われたという記述はなかったが、この場所に行って三仏の岩の配置と弘法大師上の「あ」字の形を見ると、そうではなかったのかと強く思うのである。

2019年12月28日土曜日

山川町山崎の不動明王の摩崖仏

 昨日は旧山川町内の山崎にある不動明王の摩崖仏を参拝してきた。わが阿波には摩崖仏は少なく一般的に摩崖仏と言われているのは今日参拝したところと勝浦の星の岩屋の奥に彫られている二ヶ所だけといわれている。ウチラへんでは石仏はその辺の路傍や山道にたくさんあるが確かに摩崖仏は今日見るまこの辺では見たことがなかった。

 同じ石造とはいえ石仏と摩崖仏でははっきりした違いがある。石仏はたとえ大きくて重くても単体で独立しており、持ち運びもできる。しかし摩崖仏の方は大地そのものに根付いてそこから出ている岩に刻んだ石仏である。いわば地球と一体としているので切りはなさない限り分離はできない。大地と一体化した岩に彫られているといっても、その彫り方には程度がある。台座あるいは石仏の下部が大地の岩とつながっているだけでほとんど三次元的立体の石仏と、垂直の岩面に浮彫した石仏とがある(この浮彫も深彫りと浅彫りがある)。このなかで特に崖の石面に彫ったのを「摩崖仏」としている。

 大地そのものである岩に空間を穿ち、中に石仏(その岩を彫あげて仏の像を作る)石窟寺院はその伝統は古く、インドで仏像が出現したときとあまり変わらない時代にその起源が求められる。インド⇒西域⇒敦煌石窟⇒雲崗⇒龍門石窟と中国まで伝播し、お隣の韓国までは8世紀の仏国寺の石窟庵にみるように石窟様式は入ってきたが、なぜか日本ではあまり見かけず、石窟様式ではなく垂直の大地の岩面に浮彫する摩崖仏形式がほとんどである。しかしそのルーツや系譜を考えると、この「大地そのものの岩に彫るという」石仏形式は日本の摩崖仏もインドで発生した石窟仏と同じ流れにあるといえる。

 その摩崖仏も九州にはたくさんあるが先に言ったようにここ阿波では稀である。それだけに昨日始めてみるウチの地域にある摩崖仏への期待は高まった。ワイは若い時からよく九州へ旅行をし、国東半島へはよく言ったので摩崖仏は何度も見ている。ここの地の摩崖仏は規模(かなりな高さの垂直のがけに彫られている)が大きい。直近の見た記憶を過去のブログを基に探ると5年前の春に豊後高田の熊野摩崖仏を見ていた。ブログを繰ってみたところ下のような写真をその時アップしていた。
 九州・豊後高田の熊野摩崖仏

 私のブログの説明では制作時代は平安後期、左の摩崖仏が不動明王で右が大日如来となっている。よく見ると左の摩崖仏はかわいい顔だがいわゆる「忿怒相」でよく見ると剣を持っているのでなるほどお不動さんだ。右はよく見えないが如来形のようだ。手の印契がどのようかはちょっとわからない(大日さまは独特の手印をしている)。この摩崖仏はかなりの高さがあった。
 さて、そこでウチんくの摩崖仏さんである。隆盛を極めた国東の摩崖仏とは違い、ほとんど流行らなかったこの阿波の摩崖仏である。あるにしても、おそらく規模はチンマイやろなぁ~、製作年代も(国東の摩崖仏なんかをみて感化されてできたかもしぃひんし)ずっと新しやろなぁ~、と推測し、行く前に少し郷土の本なんかを開いて調べると、やっぱし規模は小さいし、製作年代も江戸時代中期の宝永(1707年頃)で国東と比べると600年びゃぁも新しい。それではこの山川町山崎の摩崖仏を見てみよう。

 確かに規模は小さい。しかし囲むように大地から生えた岩の内面に彫られている。不動明王の浮彫は小さな崖になっている。

 三面の岩に大日如来、不動明王、弘法大師と浮彫されている。
 大日如来

 不動明王

 弘法大師

 不動明王の彫られた岩面はちょっとした崖になっている。崖の上からのぞく、当然お不動さんは真下なので見えず、対面の大日様が見える。

 なるほど、確かに規模は小さく国東の摩崖仏とは比較にならないが、小さいながらも崖(お不動さんが彫られている)と対する大地から突き出た岩に(大日様)彫られているので摩崖仏といって間違いない。

 国東の摩崖仏と同じようにこちらも大日如来と不動明王が並んで彫られている。あんまし宗教には詳しくないオイラでもこれは「真言密教」や「山岳修験道」の信仰の元に作られたのだろうなぁとわかる。国東の摩崖仏と違いこちらには二尊の他に「お大師さん」が加わっているのはここ四国で大師信仰が盛んな影響だろうか。

 この摩崖仏の50mほどの坂下・石段下に聖天寺本堂がある。住持は常駐しておらず、法会、縁日に来て法要を行うようである。下が本堂、最近建て替えたばかりのようだ、寺らしい外形はしていない(支持する有力な檀家信徒が少ないためか)ので一見普通の平屋民家のようであるがガラス戸越しに見ると祭壇法具が備わっている本堂である。

 寺の縁起の説明板などもありそれによると
 本尊、は観音菩薩、別院に歓喜天を祀る。歴史は古いが、寺の名称、宗派などは幾多の変遷を経たようである。文政の頃は修験道の寺院であった。戦後無住であったが、今は吉野金峯山修験本宗四国別院、源正山聖天寺となっている。ということは上の本堂は観音さんがお祀りしてある。別院の方はちょうど摩崖仏のある場所の横に、この本堂よりむしろずっと立派な「聖天堂」が建っている。下がその聖天堂。この裏らてに摩崖仏がある。寺名前といいまた建物の立派さといい、本尊の観音様より聖天さん(歓喜聖天)のほうが有名なようである。地元の人にも「お聖天さん」として知られていて、観音様が本尊じゃ、といっても「え~ぇっ、ほうじゃったんで、じぇんじぇんしらなんだわ」という人が多い。
 下が坂道石段を上ったところにある聖天堂である。この裏に摩崖仏がある。

 石段坂道を登ってこの聖天堂に来る途中、このような神仏が祀られている。脳天大神、白蛇大神、そして西国三十三ヶ寺の本尊である千手や如意輪観音など各種の仏、神さまが混然となってもうそこらいたるところに祀られている。この神仏の秩序は言葉や論理で説明できるものではないな、と思うほど雑然である。一見、もう思い付きでボンボン、勝手気ままに仏や神様方をあっちこっちにおいて祀っていたとしか思えない。しかし、考えるとこの聖地は密教、修験の信仰の宗教世界である。密教の「曼荼羅」を見るとものすごい数の仏、天、神々がいて目を回すほどである。なるほど!曼荼羅を思う時、この神仏の状況、視覚的に納得するわ!

 ところで上に写真にある脳天大神、なじみのない神様だが、なんか最近聞き覚えがある。それもそのはずついこのあいだ参拝した不動霊場の一つ石井の童学寺のお不動さんが「脳天不動」といった(童学寺不動ブログここクリック)。ん?かたや不動明王、かたや脳天大神、なんか関係あるのかしらん?そこでこの「脳天大神」を調べると、こちらは大和・金峯山の神様(もちろん修験道だから本地は仏さまであったりする)である。聖(ひじり)がある金峯山系の山にいた脳天を割られた蛇を年ごろに供養したところ、この蛇が脳を守護する神となることを夢で霊感したところから、祀られたようだ。大神とあって不動明王との関係は見つからなかった。しかし先も言ったように本地垂迹の説に立つ修験道である。脳天大神の本地が不動明王さらには大日如来に収れんされても不思議ではない。

 石井童学寺の「脳天不動」はネット検索をかけるとここ以外には例がないようだ。う~~~ん?どうだろ?関係あるのか?実はそれについて考える手掛かりはある。幕末の頃、この聖天寺の阿闍梨(住職)が石井の童学寺に転職していることが文書で確認された。このことが脳天大神と不動明王が結び付くきっかけとなったことが考えないだろうか。不動明王の尊格形は観音様と違って一つである。ただ効能によって波切不動とか身代わり不動、とげぬき不動などの名前で呼ばれる。だから脳天不動は脳の病気に効能があるからこう呼ばれるのである。そう考えると、金峯山系の神様である脳天大神の効能が同じ修験系で大切にされる不動明王の効能の一つとして結び付くのは不思議ではない。脳天大神を祀っていた聖天寺の住職が童学寺に移った影響で不動明王の効能にこれが加えられ、何らかの霊験も加わりそのような不動の名前になったとは考えられないだろうか。

摩崖仏動画

2019年12月23日月曜日

阿波町・明王院のお不動さん

 今朝はそう冷えた朝でななかったが、高越山を見ると薄っすらと雪化粧していた。今冬の初冠雪である。

 この高越山を見ながら今日は西へ西へと自転車を走らせた。今日は阿波町・明王院のお不動さんへの参拝だ。川島町学までは西へ、そこで阿波麻植大橋を渡り土手をまたひたすら西へ、途中休みながらの1時間40分ほどで明王院が見えてきた。大山寺と違い平地にあるため自転車で山門前まで行くことができる。

 山門を兼ねた鐘楼門が境内の入り口だ。

 ふりかえるとすぐそばが吉野川土手、そして高越山が見える。

 鐘楼をくぐると左に不動堂がありその右に本堂、それぞれどちらも御本尊で不動明王と阿弥陀如来さまをお祀りしている。

 制吒迦童子(せいたか)がお出迎えしてくれる。参拝後不動堂の中をのぞくと本尊前には護摩壇があった。

 子持ち石がある。梵字で種子が刻まれている。最近よくお不動さんにお参りするので不動明王の種子の形を覚えてしまった。「カンマン」と読む。

 ここのお不動さんは鼠不動と云われ米を食い荒らすネズミを追い払い、豊作への願いが込められ、厄除祈願、学業成就にも霊験あらたかといわれている。

 動画、境内の様子
 

動画、明王院から南を見る。高越山の雪はほぼ消えたが奥山には雪が残っている。

2019年12月20日金曜日

大山寺へ参拝

 今日は上板の大山寺へお参りしてきた。昨日、下浦駅に自転車を置いてあったのでそこから自転車で出発した。天気も良く、温暖化のせいか師走の20日だが暖かくてまだ晩秋の風情だ。途中、王子神社では紅葉の銀杏がまだ葉っぱを落とさず日を受けて黄金色に輝いていた。

 王子神社の近くには、毘沙門さんの社があった。毘沙門さんをお祀りするところは少ないのでめずらしい。

 吉野川の潜水橋を渡る。渡った土手から北方をみると大山寺の山が見える。ふもとまで自転車で行ってそこからは歩いての参拝だ。

 上板・神宅の大山参道登り口、いくつもの石仏、供養塔が並んでいる。ここから少し行ったところで自転車を置いて歩き始める。

 車道と遍路道の分岐点、上りは遍路道を行くと決めてあったので右の道を行く。

 こんな道がずっと続いている。

 遍路道の両側にはこのような木苺の実がたくさんなっている。一粒つまんで口にいれる。甘酸っぱい野生のイチゴの味がした。もし道々、採りながら歩けば木苺ジャムができるくらいたくさん採れるだろう。

 途中、こんな新しい休憩所もある。

 あと10日余りで正月なのにまだ黄葉が残っている。

 杉の巨木が見えてきたらようやく大山寺の山門だ。

 古い山門なので屋根瓦は修理中でシートが被せてある。山門前では矜羯羅童子(こんがら)がお出迎えしてくれる。


 山門の仁王様もかなり傷んでいる。

 そこからかなり長い石段を上る。

 門のようになっている鐘楼をくぐると、三十六不動霊場の幟が左右にはためいている。


 そして短い石段を上ると本堂前の境内だ。本堂には千手観音様がいらっしゃるので観音経をあげてお参りする。

 不動尊の前には焦げた木材が井桁に組んである。ここで盛大に火を燃やし柴燈護摩(さいとうごま)をするのだろう。不動尊のまえで聖不動経をあげる。
  大山寺といえば毎年一月にある「力持ち大会」が有名だ。境内の隅にその塑像がある。写真、右側。

 帰りは車道をあるいて下りる。先の大山寺登り口まで往復4時間20分かかっていた。

 境内の動画、境内の銀杏の大木はすっかり葉を落としていた。

2019年12月19日木曜日

童学寺不動尊

 今日、お参りしてきたのは四国三十六不動霊場の十一番札所である石井の童学寺である。伝説ではここがお大師さん幼少時の学問所であったことから、学業成就の御利益がある寺として有名である。そのいわれはこの寺の名前「童学寺」にも表れている。御本尊はお薬師さん、ほかにも歓喜天、稚児大師像(童子姿の弘法大師像)などが祀られている。

 本堂は一昨年の火災で焼失しており、現在、本堂横にあって火災を免れた歓喜天堂に御本尊も併せてお祀りしている。この童学寺には焼失前に何度も参拝には訪れていたが、不動霊場の一つであることに注意を払わなかった。そのため山門をくぐり境内に入ってもいったいどこにお不動さんが祀られているのか、お不動さんのお迎え童子がいるのかはわからなかった。まず仮本堂の歓喜天堂でご本尊を参拝してから、不動堂を探す。

 名勝庭園「逍遥園(しょうようえん)」に続く参道の奥に不動堂があった。

 参道の入り口にはお出迎え童子、羅多羅童子(らたら)もいた。

 ここのお不動さんは「脳天不動明王」といい、その名称の示すように脳の疾患であるぼけ封じや中風除けのご利益があるそうである。

 帰り下浦駅で汽車に乗ったが小一時間ほど時間があったので駅近くの「釈迦堂」をお参りした。

 参拝のあと、ガラス越しに御本尊を撮影させていただいた。大きな釈迦如来坐像だ。

 伝承(由来記)によればこの釈迦如来坐像は奈良時代の行基菩薩がこの地に御巡錫のみぎり、お作りして祀ったそうである。その後、兵火に罹るも、奇跡が起こり、近くの蓮池に如来坐像は自ら難を逃れて焼失を免れた、という言い伝えもある。
 
 説明板を読むと、造られたのは鎌倉時代初期のようでそれも現在残るのは頭部だけで、胴、膝は室町時代、両手は江戸時代の作と考えられている。このような大きさの仏像は「寄木造」で作られるのが普通であるが、まさに時代を跨いで作られた寄木造である。焼失、破損を修理した結果、このようになったのである。
 この説明を読んで、飛鳥寺にある飛鳥大仏を思い出した。飛鳥大仏は仏教伝来初期の仏像であるが、この仏像もやはり火災により破損し、飛鳥時代のものは頭部だけである。