2020年1月29日水曜日

お不動さんは火ばかりか水も関係あるんやな

佐古不動谷のお不動さんは滝のある断崖(滝があるから当然断崖だわなぁ)の懸垂岩に鎮座していた。



 



 そして私がよく行く大滝山の滝口(滝の焼餅本舗のあるとこ)にもお不動さんが二体もある。下の写真の右にある石仏が不動明王であり左奥に見えているお堂には金銅製の不動明王が祀られている。年号を確かめたわけではないがおそらく石仏のほうが古いであろう。

 左奥にある不動堂、右の崖が大滝山の滝になる。今の時期水量は少ないが一筋の滝が流れている。

 石仏そしてこの不動堂のお不動さんのお参りしたあと、御本尊の(金銅製)不動明王さまを撮影させてもらった。

 上を見るとわかるがお不動さんは火炎を背負い、頭の左に辮髪をたらし、右手に剣、左手には羂索を握っておられる。これらの姿がお不動さんのおしるしである。火炎を背景にして立つお不動さんはいかにも火生三昧の仏さんであることがわかる。去年の暮れからアッチャコッチャの不動のお寺、不動堂にいったがどこも護摩壇や境内に柴燈護摩のあとがあり、お不動さんといえば護摩の火、盛大に燃え上がる柴燈護摩のあとの火渡りなどをイメージするため、火ぃの仏さんや~、と思ってしまうが、直近に行った佐古不動谷のお不動さんも大滝山のお不動さんもどちらも滝を祀るような形でお不動さんが鎮座していた。
 
 火ばかりではなく滝、水、その関連から水神、そして水・雨水をつかさどる龍王そしてその眷属ともいえる蛇ともお不動さんは関係がありそうである。
 
 そういえば直近ではないが二か月前、入田の建治寺へ行った時のブログの写真をもう一度見返してみたら建治の滝のそばには「不動堂」があった。こちらも滝の不動である。

 滝といえば宗教的な修行の一つに「滝行」がある。滝行は宗教的な修行の一つとして神仏習合の修験道でよく用いられる。建治寺の滝行もここ四国では有名だ。
 近畿地方ではポピュラーな滝行の地に神戸龍樹院の滝がある。この滝の堕ちている岸壁には大きな文字で「大聖不動明王」と刻んである。ここでも不動と滝は密接な関係にある。

 また関東の方では人気がある滝行場の一つに八王子高尾山の薬王院にある。ここで滝行を行う人を見てみると梵字とご神体のお名前が記された木の板を持っていて滝行を行っている。口を開いて発しているのはおそらく真言であろうか。

 上の木札の種子をよく見るとこれは「カンマーン」不動明王の種子である。(不動さんにはカーンの種子もあるが)これもお不動さんと滝との密接なかかわりを示唆している。

 ただ滝行に出てくる守り本尊のお不動さんは仏教色より神道色の勝った修験道の本尊としての性質を強く感じる。密教と修験道で同一のお不動さんとしていいのだろうか。結論から言えば同じお不動さんといってよい、咒言も真言も種子も同じである。また修験道の柴燈護摩の時の最初に山伏問答というのがある。それによると、御本尊は何や?と聞かれ
 「総じては金胎両部(金剛界、胎蔵)曼荼羅、別しては不動明王である・・・云々」とあるから密教(仏教)でいう不動尊が本尊となっているのである。
 
 しかし修験道の柴燈護摩、滝行で不動明王は重要な守り本尊ではあるが、いろいろな修験道の修法の本尊を見ていると不動明王の基本的性質を受け継ぎつつ、それとよく似た仏像(明王)であったり、あるいはまったく新しく仏像(権現)を作り、それを本尊としている場合もある。それらの場合でも不動明王の性質は変わらず有していると信じられている(つまり不動明王が教え諭す方便として仮に姿を変えて一見別の尊格をもって現れたとみるのであろう)
 上記の高尾山薬王院の滝行青年の持っている木札の本尊(蛇瀧青龍大権現と読める)種子はカンマーンであり不動明王の種子と同一である。またこの高尾山薬王院の御本尊は「飯縄権現」である。下がこの飯縄権現のお札と御神像である。種子はカーン、これも不動明王の種子である。


 火炎を背負い剣、羂索を持っているのは同じだがそのお姿はずいぶん違って奇妙である、カラス天狗のようにくちばしがあり羽が生えている。これは不動明王が基本であるお体に 迦楼羅(怪鳥の神様)、弁天様、聖天、荼枳尼天(だきにてん)が合体したいわば「キメラ」であるといわれている。そうではあるが大本の基本形は不動明王である。だから不動明王の咒言、真言をとなえ、種子で御本尊を表してもいいわけである。

 密教はさまざまな外来の仏、インドの神や地元の神々などを取り入れて密教世界を作っているが密教と強く結びついた修験道ではその上にいくつかの仏や神を合体して曼荼羅にはないまったく新しい尊格を作ることもあるのである。こうゆうのワイ好っきゃ~わ。

2020年1月28日火曜日

御本尊 大日如来さま

 最近仏教のことをちょろっと勉強していてわかったことだが、この大日如来さまは別名、大毘盧遮那仏とおっしゃるのである。これがわかった時、ん?と思った。以前ブログを作っていて毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という仏さまのご尊名には聞き覚えがあったからである。この毘盧遮那仏はあの東大寺の大仏様のお名前である。そのお名前の前に「大」というのを冠したのが大毘盧遮那仏つまり大日如来様である。ということは東大寺の大仏と大日如来様は同じ仏さまといってよいのである。ただ同じといっても、東大寺の毘盧遮那仏は「華厳経」に基づく根本仏であり、大毘盧遮那仏つまり大日如来は「大日経」に基づく根本仏であるという違いがあるが、空海さんによれば華厳経も大日経も互いに包摂し合う関係にあり、二つの経に基づく一つの仏といってよいそうである。

 大日如来はこの世のすべてに遍在する存在であり、宇宙そのものであるといわれている。だから密教における様々な仏、菩薩、明王、天、神、権現なども大日様が姿を変えて現れたものと解釈される。大日如来さまの御尊像は高野山の根本大堂にある大日如来さまが有名である。下がその大日如来さまである。綺羅綺羅しくいかにも大宇宙の根本仏の威容を感じさせる仏である。

 しかし大日如来さま像が初めてつくられたのは7~8世紀のインドであった。この頃の大日如来像は高野山の大日如来像とはずいぶん雰囲気が違う。下がインドで密教が発生したころの大日如来像である。(インド・ウダヤギリの金剛界大日如来像)

 青年期特有の苦悩の表情ではないのかと思わせるような若々しいお顔、華奢に見えるが力みなぎる肢体、腰、手首、足首に飾りをつけ頭に宝冠を載せている以外、薄物の布も身に着けていない裸体に近いせいもあってか素晴らしい肉体を見せている。不遜な感想かもしれないが性的魅力をも感じさせるような像である。しかしちゃんと大日如来さまらしく智拳印を結んでいる。このインドの大日如来様は中央アジア、中国と伝わってくる中でずいぶんと変わったものである。私は発生期のインドの大日如来さまが大好きである。思わず手を合わせたくなるが、皆さんはどんな感想を持たれますか。

 今日は小雨の降る中、お参りしたのが「大日寺」、板野町にあるお四国さんの四番札所である。この寺の御本尊はその名のとおり大日如来さまである。真言宗は大日如来さまを根本仏とするため真言宗の寺は御本尊も同じであろうと思われようが、前にも言ったように大日如来さまはさまざまな御尊格の仏さまに姿を変えられるため真言宗の寺といっても様々な御本尊様がいらっしゃる。
 山門 

 本堂

 そうそう、真言宗で非常に大事にされている咒言で光明真言というのがある。私は
 「オン、アボキャ、ベイロシャノウ、マカボダラ、マニハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン」と唱えているのであるが、言い方は真言宗の諸派、あるいは僧侶によって微妙に違っている場合もある。先日この光明真言をとなえる僧侶の声を耳にしたがそこでは
 「おん、あぼきゃ、毘盧遮那(びるしゃな)ぅ、まかぼだら・・・」といっていた、それを聞いて、あ、そうか、ベイロシャノウは毘盧遮那ぅ~、すなわち大日如来さまの本名だったんじゃとわかった次第である。光明真言にはちゃんと大日如来の本来のお名前が入って唱えられていたのである。

 それからこの「大日如来」さまは耶蘇教(カトリック教)ともかかわりがあったのをご存知でしょうか?戦国末期、日本に初めて宣教師が到来し、布教を始めたとき、彼ら耶蘇教の唯一絶対神(のちにはデウスと読んだりしているが)のことを日本語に訳すにあたり当初は「大日さま」と読んだそうである。日本人に馴染みやすいようにこのように訳したと思われるが、すぐに宣教師たちは真言宗の大日如来と一緒にされることに気づき「デウス」と名を変えたことが知られている。(ザビエルの書簡を見ると当初自分たちの神に大日という名をつけたことに対し誤りであったといっている)
 いっそのこと耶蘇教の唯一神も大日如来さまとよびつづけ、他宗や他の神像仏像にも寛容であったならばもしかすると、耶蘇教(カトリック)も真言宗の新しい一派かなという風に受け取られ江戸時代を通して共存できたかもしれないが、まあ、そりゃないわな。

2020年1月27日月曜日

懐かしの悪役

 今、図書館ロビーで「懐かしの映画ポスター展」をやっている。映画全盛時代の昭和30年代のものだ。

 ポスターはこの徳島市立図書館蔵ではなく、市場町図書館から借り受けたものである。20枚以上貼ってあるが、そのどのポスターの映画もあまり見た記憶がない。古希を迎えるオイラはその時、小学生である。町内にあった二つの映画館に家族に連れられて見に行ったものである。なぜ見た記憶のある映画がないのだろうか。

 考えると、昭和30年代の市場町の地方映画館である。もちろん封切館ではなく、二番落ち、三番落ちのフイルムが回ってくるため1~2年遅れの映画上映も普通であったと思われる。おそらく三本立である。人気の出た作品が来てももちろんその三本立ての一つ、それもごくたまに混じっているだけである。だから多くはっ切り言えば駄作、人気のある作品はこの映画館には来ない。それでも人気のある映画はごくたまに(一年か二年遅れで)来る。しかしそんな人気のある作品のポスターは終わった時から貰い手が多くて後の世まで残る可能性が少ない。結果としてあまり知らない(人気の出ていない)作品のポスターが残ったのではなかろうか。

 見たことはなくても主役級の映画俳優はよく知っている。でもその中で私の注目を引いたのは主役級の俳優ではない。多くの作品(特に時代劇)によく顔を出しているいわゆる「悪役」の人たちである。
 ちなみに展示の中から時代劇作品(多くあるが)その中から2つだけ無作為に選ぶと、私が子供の時みた悪役級の俳優が出ていた。
 子供の当時、その悪役の名前を覚えていたわけではない。今回のポスター展を見ながらネットで名前を検索し、当時の悪役の名前がわかった次第である。
 二枚の時代劇ポスター



 悪役と名前、70代くらいの人には懐かしい顔じゃないのかな。
 原健策

香川良介

三島雅夫

山茶花究

2020年1月25日土曜日

百年前のパンデミック

 今日のニュースなどを見ると中国発の「新型の流行性肺炎ウィルス」の感染が中国国内で広がり、そこから何か国かにも飛び火し、世界的に拡大する可能性が指摘されている。そうなればパンデミック(死亡率の高い伝染病の世界的大流行)である。なんとか水際で食い止めてほしいと願っているが、報道によると日本にも入ってきて数例の患者が出ている。

病原菌に国境を越えさせない「水際作戦」が重要であるが、これだけ大量の人モノが移動するグローバル化した世の中でかなりそれは難しい仕事になる。ましてや今、中華圏では「春節」で民族大移動といわれるほど中国人が海外に出かけるそうであるから、水際作戦が成功するかどうか不安である。そんな不安からかエドガー・アラン・ポーの有名な小説『赤死病の仮面』を思い出した。全身から血が噴き出す致死性100%の疫病から逃れるために山奥の何重もの頑丈な壁で守られた城に王侯貴族たちが孤立して暮らす話である、城中では無聊を慰めるためファンシーボール(仮面舞踏会)なども開かれ、バタバタ死んでいる世間を尻目に面白おかしく暮らしている。しかし死神の仮面をつけた疫病はやすやすと侵入する・・そして全員を屠るという、こわ~~~~いお話である。自分たちだけ助かろうとした罰なのか、それとも死神や疫病はどんなに防いでも必ずやって来て取りつくという教訓なのだろうか。

 直近でもっとも恐ろしかったパンデミックは百年前に流行ったいわゆる「スペイン風邪」今でいう新型インフルエンザであった。

 モラエスさんの著書「おヨネとコハル」には百年前の徳島のことが書かれている。文学作品としても面白いが一世紀以上もたった今、読んでみると大正時代の徳島の庶民生活や風俗を知る上でも貴重な資料となっている。その中の1919年9月の随想日記を読むと、前年重篤な流行性感冒が流行り日本各地で多くの死者が出ていることが書かれている。まさにそれがスペイン風邪・パンデミックである。

 人口密集地である大阪などでは悪性風邪による死者が多数出たため、火葬場の処理が間に合ず、大勢が順番待ちで、荼毘が追い付かないため多くの並べられた遺体が腐臭を放つ始末である、そのため悪徳な火葬仲介業者などが出てきて、金の多寡によって順番を早めることが行われ、金持ちはすぐ火葬され、貧乏人は放置されているとモラエスさんは書いている。

 またモラエスさんの住むここ徳島でもスペイン風邪による多くの死者がでた、ある日歩いていると横町から棺桶が5つも続く葬列が出てきたこと、また別の日モラエスさんが仕立て屋に注文しに行ったところがなんと店の家族9人全員が悪性風邪で寝込んでいたことなどがその随想日記からわかる。

 続いてモラエスさんはその悪性の流行性風邪が日本に流行るより前に欧米に広がりそれから日本を含む世界中に広がったこと、その死者数は最初の数週間で第一次世界大戦の死者より多くなったことを書いている。いまでいうパンデミックである。流行中にはそんなことはわからなかった。まだ20世紀の初めである、テレビ・ラジヲはなく、新聞が情報の主体である。モラエスさんがこれを書いたのは一年後のことで、世界中からかなりの情報が得られたためである。モラエスさんはこの病を「インフルエンザ、ネウモニカ」とギリシア語で呼んでいる(著書にはカタカナで書いてあるが)。直訳すると流行性肺炎である。

 そのあとモラエスさんは面白いことを書いている。日本の庶民はそんなギリシァ語も知らないし、詳しい医学的知識も持っていなかったが、その流行り病は、今から(1918年)200年前(ということは18世紀初め)に日本全国で流行った「お染かぜ」の再来に違いないと思ったらしい。この令和の御代からだと「お染風邪」は300年も前だからその病原菌がわかるわけがないのだが、多くの疾病史学者の見るところお染風邪は「新型インフルエンザ」が猛威を振るったものであろうという予測で一致している。とすると大正時代の庶民の予想も当たっている。この大正時代の悪性の流行性感冒も新型インフルエンザで後に「スペイン風邪」と呼ばれたのであるから。

 神戸、大阪、横浜などでは、その風邪に罹らないおまじないとして「久松留守」と書いたお札を戸口に貼ることが流行ったことも書いている。モラエスの徳島での生活から遡ること二百年前、西暦1708年(宝永5年)大坂である心中事件があった、店のお嬢様のお染と手代の久松が手に手を取って入水し二人とも死んだのである。ちょうどそのころ悪性の風邪が流行りだした。人々はその二つを結び付けた。お染はあの世で久松と添い遂げられず、お染の霊は久松を求めて家から家へと彷徨い、霊が訪れた家に「お染風邪」という災厄がもたらされたと信じたのである。そして200年たち同じような悪性風邪に見舞われた人々は「お染風邪」の再来ではないかと恐れ、お染の悪霊から家族を守るため、お染の霊が訪ねてきても戸口から引き返すように、そこに「久松留守」と貼ったのである。

 大都会でそんなまじないが流行ったことを書いているがここ徳島ではどうだったかモラエスさんは書いていない。しかし徳島でも多くの人がこの病にかかり、死者も多数出たのである。特効薬もなく決定的な治療手段もない当時の人々は神仏頼みとともにこの「久松留守」のお札もあちらこちらに貼られたのではないだろうか。

 

2020年1月23日木曜日

このお寺もお不動さんやったんやな

 もう三年前になるな~ぁ、まだ平成の御代じゃった。佐古地区の山際をふらふら歩いていた。前にもブログで紹介したが佐古の山際はいくつもの小谷が切れ込んでいて、だいたいその谷には神社仏閣、あるいはお堂があるものである。大谷石の採れるところの谷筋よりいくつか東寄りの谷の谷口を通っていたら、上に狸の祠あり、との立て看板を見つけた。その当時のブログで確かめると『不動山狸祠』とあった。急な谷を上がると崖の上に小寺院が見えてきた。近づくと驚いた。なんと最近火災を被ったらしくまだ黒く炭化した建物の梁が残っていたりして焦げ臭いにおいも立ち込めていた。立ち入り禁止のテープも張り巡らされていてとても参拝できるような状態じゃなかったので、そのまま引き返したことがあった。その時、谷の写真と罹災した寺の写真も撮っていた。

 それから三年。そんなとこへ行ったこともすっかり忘れていた。まあ、参拝もできなかったので寺の御本尊が何であったかも記憶に残らないのは仕方がないかもしれない。むしろ火災が起こったお寺として覚えてしまった。ちょうどそのころ童学寺本堂も燃え上がり焼失してしまったので三年前のことを思い出すと火事の寺としての印象が強く刻まれてしまっている。

 ところが今日の昼過ぎ、ハロズへそろそろ「梵字」(悉曇文字)を書く練習もせなあかんなと思い道具を買いに行った。小筆、墨汁、書道用半紙である。ハロズは佐古駅のすぐ近く、駅で降りて買い物はすぐすんだが次に乗る汽車を待つ時間が一時間以上もある。することもなく駅前で何気なく歩道横にある佐古地区の地図を見るとちょうど駅からまっすぐ山へ行ったところが不動谷となっていて「寺」のマークがある。

 「あれれれぇ~、これってずっと前に火事が行った寺ちゃぁうんかいなぁ、」

 時間もあるし、直線で距離も近いため行ってみた。やっぱし三年前に火事の行った寺だったわ。火事で焼失した建物はすっかり片づけられ今回はちゃんと参拝することができた。そこでわかったのだが、このお寺は最近では狸の祠のある寺としてのほうが有名であるがお不動さんの寺だったのである。この寺のネット上の情報は少ないが御本尊さんは「波切不動」であるという。地名も「不動谷」であるからなるほどなと思う。

 三年前の火事のすぐ後の様子

 今は上の写真跡は更地になっている。御本尊は奥の新しいお堂(写真には見えていない)にお祀りしてある。

 臨江寺のお松狸の十傑として出陣した亀七狸、不動の徳狸の二体の狸を祀ってあるお堂もある。

 横にはその狸にちなんだ井戸もある。

 参道は、急な坂、かなり傷んだ狭い道なのでたれくれまくらんように気をつけなければならない。

 確かめたわけではないがこのお寺も密教系じゃないだろうか(真言宗か天台宗か)いろいろな仏さん、お地蔵さん、権現さん、ルーツがちょっとわからない神様も祀ってある。御本尊は波切不動とあるがお堂の中に安置されているお不動さんより、下の崖の巌頭に立つ石仏のお不動さんのほうが御利益がありそうな気がする。むき出しなので坂の途中のどこからでも拝める。江戸時代に作られたようである。不動の真言をとなえ手を合わせる。
 崖のお不動さん

 拡大図

 動画、深い谷は砂防ダムで区切られているがその上方の崖の懸垂岩にお不動さんが立っている。

2020年1月21日火曜日

道を歩きつつ梵字を読む演習をしてみようや~っと

 以前から路傍に古い石仏、光明真言塔、おっぞうさん、などがあると歩を止め、手を合わせそれから書いてある文字や年号を読んだものである。古いものを知りたい、大昔の人の信仰生活を知りたい、というまぁ歴史的な興味からであった。その石面を見るとき、漢字文字列ならば読めるし、仏教独特の漢文体ではあるがだいたい意味も分かる。それは特定の人の供養塔であったり、あるいは万人一般の供養・天地平穏を祈るものであったりする。歴史的に起こったある大災厄の記念碑的な供養塔であったりする場合もある。塔といったがそれはお地蔵さん像であったりする場合も多くある。

 漢字以外にひらがなもあるがそれも当然読める。しかし中にはくずし文字でお家流に書いてある文字もあり読むのに苦労はする。それでも写真に撮ったりして後でそれを読み解いたりもできる。困るのは石面に刻んである図象のようなもの、あるいは梵字である。漢字の一般的な知識はもっているし、日本史に登場する仏像の図象についての概略的な知識もちょろっとは持っているが、仏教的な図象や梵字は勉強したことなくまったくお手上げで、家に帰ってきてから撮った写真をみてそれらしい図象や梵字を辞典から探したものである。

 そこで前のブログでも書いたが最近、梵字(悉曇文字)を勉強している。勉強といっても本格的なものでなく、その形を見て「読める」(文の一部として意味を理解して読めるのではなく日本風にタダ音読できるだけ)ことと、文字を「書ける」ことを目的としている。まあローマ字を例にとっていうと、A,B,C・・を「エー、ビー、シー・・」とよめてペンで「A,B,C・・」と書けるだけでよいのである。梵字の形を覚え読むのはそうむつかしくはない。というのも本式のインドの発音はしなくてよいからである。もう1000年以上も昔から真言宗には梵字の日本風の読み方があり、いわばそれが梵字の正式な読みであるので、その発音ならば全く難しくない。そりゃそうだ、完全な日本式の発音だからである。英語でbookとあるのをカタカナ式に「ブック」というようなものである。

 これに対し書く方はちょっと厄介だ。基本は毛筆ではあるが、刷毛、木のヘラのようなもので書く書式もある。密教的な文字であるため作法はちょっとうるさい。初めの打ったて点は「命点」といいあだやおろそかにしてはいけない。書き損じはしたらダメ。書き散らしても駄目、梵字を書いた紙を捨てるのはあかん、焼却処分なんどはもってのほか。梵字は一字で仏の尊格そのものを表す。ええ加減なことしよったら、地獄に落ちるぞ!と脅される。そして書く時は敬虔な気持ちで姿勢も正さなあけへん、そしてなんと、法衣(僧侶の袈裟)を着て書かなあかん、とある。これじゃ書く練習もできひんわ、とまあ、これが一応規則だが、全部守るとなると練習もできないから、法衣を着て書かなあかんというのだけは勘弁してもらい、書くつもりである。

 書くつもりである、といったが今のところは読みの練習だけで、ちょっと厄介な書く練習までは進んでいない。今は読みの勉強に専念している。しかし歳ぃ~いくと物覚えはウンと悪くなり、覚えてもしばらくたてば忘れる。忘れにくくするためにはもう何回も何回も文字を確認し音読を繰り返す以外にない。基本文字は50余りだがこれに母音がついて文字を形成したりまた他の子音もくっ付いて(一つとは限らず4、5個がくっつく時もある)それらが合成して梵字一文字になるから数百以上の文字になる。でも基本梵字と合成のパターンを覚えれば梵字を認識し(密教風に)音読して読むことはそうむつかしくはない。

 なんという文字か認識し、読めるだけでは梵字を学習する意味はない。「梵字を読める」ということはその文字が宗教上どのような意味を持つのか、そして密教にたくさんいらっしゃる仏の尊格のどちらさまを表しているのかも同時に知らなくてはならない。胎蔵・金剛界曼荼羅は千を超える仏尊がいらっしゃるからこれは大変である。主要な御尊格からボチボチ覚えていってるところである。

 路傍にある石仏、石塔、おっぞうさん、などには梵字(種子・しゅじ)が刻まれているので礼拝しながら、梵字を読む演習にはちょうどよい。だいたい種子は1コかあるいは3つくらいまでなのでわかりやすい。昨日、自転車で西高川原をふらふら通っているとこんなものがあった。台形に組んだ石柱があり上には鯱瓦のような石像が二体向かい合って載っている。石柱にはひらがなで「さぬき二十二」とか刻んである。なんやろ?これはちょっとわからない。

 しかしこの後ろには石仏が三体並んでいる。左は不動明王尊が彫ってあり右は六地蔵が彫ってある。そして真ん中は種子がたくさん彫ってある石塔であり。ちょうど種子(梵字)をお勉強しているのでさっそく読むことにチャレンジしてみた。

 拡大図である。(仏花・樒がちょっと邪魔なので一時的に抜かしてもらった)

 え~っと、まず種子の数であるが、上に一つ載っている、これは別格ということかな、そして縦に四つの種子が三列ある。4×3で12個、そして別格の一を加えると全部で十三、お、これ十三仏さんの種子ちゃうか、まずいちばん上の一つだけ別格の種子を確認すると、虚空蔵菩薩さんじゃ、とすると虚空蔵はんを除いてあとの十二仏を順番に確認していくと、やっぱ、間違いない十三仏さんの種子やわ、
 写真一番右下から「不動明王」カーン。「釈迦如来」バク。「文殊菩薩」マン。
 二段目に上がって右から「普賢菩薩」アン。「地蔵菩薩」カ。「弥勒菩薩」ユ。
 下から三段目は右から「薬師如来」バイ。「観音菩薩」サ。「勢至菩薩」サク。
 下から四段目右から「阿弥陀如来」キリーク。「阿閦如来」ウン。「大日如来」バン。
 そして最上段は「虚空蔵菩薩」タラーク。
 である。
 虚空蔵はんは別格といったが三列四段にしたから最後の虚空蔵はんが13番目で余ったから上段に置いたわけで別格というわけではない。だからお不動さんから虚空蔵はんまでちゃんと13仏さんの順番になっている。

 皆さんもよく知っての通り十三仏さんは13回ある各年季法要(初七日から三十三回忌まで数えて13回)のそれぞれに充てられる守護仏である。そして普通だいたいは三十三回忌の13回めで弔いあげとなる。その最後の十三番目が「虚空蔵菩薩」である。ということはこの十三仏の刻まれた種子の石塔はなくなった人の弔いあげとなる三十三回忌後、供養として建立されたものかもしれない。左右にお不動さんと六地蔵の石仏があるがこれもなくなった人のための供養として建てられたのだろう。

 推測が当たっているかどうかはともかく、種子(梵字)を確認し、読むええ演習になったわ。

2020年1月18日土曜日

密教のお寺やなぁ、いろんな仏さんばっかでなく神さんまでいてはるわ

 寺の公式な説明ではこの取星寺の御本尊は二体あって『虚空蔵菩薩・妙見菩薩』となっている。御二体の御尊格を解説した本によると虚空蔵菩薩さんは明星に化身することがあり、妙見菩薩さんの方も北斗七星の化身であるらしい。どちらもお空に煌めく星であるからこの寺の由来縁起の落星伝説ともつながっているし、また寺の名前が「取」ってきた「星」という意味に分解できるのもこれとかかわりがあるからだろう。

 日本では多くの仏さまと神さまは人間社会のように仲良く隣り合って共存している。いろいろな宗派の中でも真言密教は特に仏さま神さま方の相性が極めてよく、それらの諸仏諸神たちが曼荼羅図の中で秩序だった世界を形成しているのを見るとなるほどと理解できる。中心はもちろん大日如来さまであり中心に近いところに如来さま方、次に菩薩さま方となって同心円的な配置になっているが外周部には、神さま方、天部、龍神、月、太陽の神様、星の神様だっている。曼荼羅を見るともう無数といっていいほどの仏・神さまがいる(千は越えるやろなぁ)。その中を根気よく目当ての仏神を探してみよう。有名な如来方菩薩さま方は大きく描かれていることもあってすぐわかる。でも外周部にいらっしゃる小さな仏・神(天部)になると探しにくい。いくら探しても見つからないとあきらめるのはまだ早い。いくつもの名前を持つ方もいらっしゃり別名で潜んでいたりするからややこしい。実はそれワイのこっちゃ!といって別名でいらっしゃるのも多い。

 そんなことを踏まえたうえでこの密教寺「取星寺」の仏さま方神さま方を見てみよう。まず御本尊二体の一方の虚空蔵菩薩さまであるが、これは胎蔵曼荼羅を見るとかなり重要な仏さまであることがわかる。菩薩とはいいながら大日如来以外の如来さまより重要度が高いんじゃないかと思ってしまう位置を占めている。というのも単体で配置されているのではなく大曼荼羅の中でも「虚空蔵院」という区画、いわば小宇宙を形成したかなりなスペースに虚空蔵院の諸仏が配置されている中心にいるのが虚空蔵菩薩である。

 もう一方の妙見菩薩さまは菩薩位であるため、虚空蔵菩薩さまと同じ尊格でいらっしゃるが、虚空蔵さんほど有名ではない。もともとは妙見さんは日本や中国の神であったか、あるいは「天部」の諸天のように(日天、月天、梵天、地天など)古代インドから来た神であっただろうと思われる。寺の本尊の由来説明からそのように推測されうる。ずっと昔から(日本に仏教が伝来)菩薩位であった虚空蔵さんと違い、妙見さんの方はずっと後から「神」あるいは「天」を菩薩位に格上げしたのであろう。寺の由来説明記にはそういったことは書かれていないが、妙見菩薩の称号は虚空蔵菩薩と比べると新しいものであることは間違いない。明治の神仏分離令で神仏混淆が禁止され無理に引き離されたとき明神あるいは権現であった「みょうけん」本尊に菩薩位を送った可能性がある。そうすると150年ほど前である。

 取星寺に隣り合う形で、というより広大な取星寺の敷地内といってもいいだろう、神社がある。その神社の名前が「明見神社」(みょうけん)となっている。寺の方の本尊は「妙見菩薩」、神社は「明見神」、同じ読み方である、明治以前は大権現あるいは明神として一つだったものが明治の神仏分離令によって二つに分裂させられた結果であろう。
 下が明見神社

 阿弥陀堂もあり、阿弥陀様が祀られている。堂の前には観音さま像もある。どちらも密教の曼荼羅世界では重要な仏様である。

 その隣には七福神の「福禄寿」が祀られている神社がある。七福神の神様は中国の神様やインド由来の「天」部にルーツを持つのが多いが、福禄寿さまは中国道教からきている。

 近くには不動明王さま、不動明王は大日如来の教令輪身(衆生を強化するために便宜の仮のお姿)と言われている。

 そして大師堂

 大師堂前には、虚空蔵菩薩、弥勒菩薩、大日如来の三像が祀られている。曼荼羅では大日さんは中心であり他の二体も大きな位置を占めている。

 山頂付近には三宝荒神の神社もある。日本土着の神様であったようであるが、密教では仏の守護神、護法の神と位置付けられる。曼荼羅には直接見当たらないが外周部の神や天と同位の尊格ではなかろうか。

 以上紹介した以外にも小さな石仏、神像がいたるところにある。
 

2020年1月16日木曜日

落ちてきた星に由来する寺

 寺の由来によれば、今から1230年も昔、天空に悪星が現れ、人々に様々な災厄をもたらしていたが修行中の若いお大師さんが悪星を祈り落とす修法を行った結果、悪星は堕っこちてみごと災厄も消滅したそうである。その堕ちた悪星がある山の頂上付近の松に引っかかり、それを拾ってお大師さんが妙見大菩薩の神像を刻み、堕ちた場所に本尊としてお祀りしたのが一昨日行った取星寺である。

 これは信仰の由来記なので実際科学的にどうかというのもおかしいと思うが、まず星が落ちるといえばすぐ隕石を思い出す。隕石の中にはかなり鉄の含有率の高い(というかほとんど鉄の塊の隕石もある)ものもあり、それを精錬して「刀剣」を作った例もあるから。落ちてきた星を別のものに作り替える話は実際にあることである。

 悪星が現れて悪さをするという話は日本歴史の古代中世にはよくある(さすが近世にはなくなる)。有名な話では太平記巻五に「天王寺の妖霊星」というのが出てくる。そこには『天下将(まさ)に乱れんとする時、妖霊星(ヨウレイボシ)と云ふ悪星下って災ひを成すといへり‥』とある。この後鎌倉幕府は滅亡し、戦乱が起こるので、この妖霊星という悪星は災厄を引き起こしたと信じられたのである。その妖霊星は具体的にどのような星で、当時天空に見えたのかどうか太平記には書いていないが彗星(ほうき星)の類ではなかったのかと推測する歴史家もいるようである。

 それからこれは私がまだ20代の頃、鞍馬山の山中の遊歩道を歩いていた時、お堂があってその由来説明板には次のようなことが書かれていたと記憶している。今からはるか昔、ン~ん万年前に金星から大魔王が下ってきた、大魔王は地上に降りると悪さをするのではなく何故か人々を守る護法の仏になってこの鞍馬山に鎮座したというのである。

 このように悪星だの金星だのが地上に降りて(堕ちて)云々、という話は中世の説話をさがせば他にもありそうな気がする。この取星寺の由来も上の二つの話が混ざり合ったような話である。

 この取星寺のある山はお大師さんが修行していた加茂谷の大龍から視界に入る距離にある。想像のイメージをウンとふくらませば、夜も日もなく真言を唱えている深夜、ついにお大師さんの加持力によって天頂にあった悪星がシュッと流れ星になって視界の果てにある取星寺の山に弧を描いて落ちた・・・というような図を思い描く。

 平地にある岩脇水際公園(桜並木で有名)からみた取星寺の山である。低い山である。

 下が一昨日行った取星寺の本尊が祀られているお堂である。本尊「虚空蔵菩薩」(本尊は二つあって別の場所に妙見大菩薩も祀られている)とある。そしてよく見ると(鰐口の左横)その時お大師さんの誦していた虚空蔵菩薩真言の「・・・アリキャマリボリソワカ」と書いた板が張り付けてあって真言を知らないあるいは忘れた参拝者の便宜をはかっている。上半分は隠れているがちゃんと書くと
 『なうぼう、あきゃしゃきゃらばや、おんありきゃ、まりぼりそわか』である。(真言宗の諸派によっては少しちがっている)

 このお堂にはモダンな壁画が描いてある。稚児姿なので十代のお大師さんである。一見したときは天空に輝く満月を見上げているので密教の瞑想法の一つである『月輪観』(がちりんかん)かな、と思ったがよく見ると一条の光線がお大師さんの胸に飛び込んでいるのをみて、
 「あ、これ、虚空蔵菩薩求聞持法の、ほれ、明星が体に飛び込んで、梵我一体(即身成仏?)となる神秘体験じゃわ」
とわかった。

 取星寺の本尊を拝んだ後、山頂(低い山だがちゃんと山頂になっている)に登り始めた。山道には古い石仏がたくさん並んでいる。山頂近くに、その悪星が堕ちたとき引っかかった松の場所が「星かかり松」史跡として残っている。また後に真言密教に溶けあるような形で「弥勒下生信仰」も存在したのか(?)山頂付近には600年前に経典を筒に入れて埋めた経塚もある。
 下がその星の堕ちたところ、山頂、経塚の動画である。また山頂付近は眺めがとても良い。

2020年1月12日日曜日

藍住の地福寺

  最近あちらこちらの寺に行くので「後桃山日記」ここクリックにも寺参りなどを投稿しています。

 今日行ったお寺は藍住の地福寺、ぽっくり寺、ボケ封じの寺として有名とある。どちらも高齢者の願いであろう。でも高齢者とはいえ、ぽっくりといってもすぐに死にたいわけではない。そうではなくて死の直前までピンコシャンコ元気で、あの世に行くときは長患いせず苦しまず、ぽっくり逝きたい、という意味である。

 勝瑞駅から歩いて15分ほどの距離だが途中、中世の城跡、勝瑞城跡を通るのでそこもついでに見ていけば退屈することもない。

 有名なお寺の割には、こじんまり、ひっそりしたお寺で、鉄筋コンクリート製だったのは意外だった。御本尊様は地藏菩薩である。縁日が毎月24日でその日は駅前からバスを仕立てて参拝に来る人がいるくらい賑わうそうであるが今日は誰もいず静かであった。このお寺も高齢者向きの祈願(ぽっくり大往生、ボケ封じ)に特化しているようだ。牛の島のお不動様と同じで経済的な基盤は御祈祷収入に寄っているのかもしれない。

 山門もなく寺の名称を刻んだ石柱とその横のお地蔵様が迎えてくれた。保久利院と書いてポックリ院と読むのだろう、なるほど。

 本堂、地蔵菩薩真言をとなえて参拝する

 お大師様の石仏が一番古そうであった。

2020年1月11日土曜日

阿南の路傍のお不動さん

 このお不動さんは市役所の裏にあるが、その横を交通量の多い県道が通っており、また桑野川と並行に走る道路も交差しているため交通事故も多かろうと思われる、それもあってか祈願の幟には大日大聖不動明王の御名とともに交通安全を掲げている。路傍のお不動さんだけあって素朴なお顔をしている。

 このお不動さんに手を合わせ、桑野川を渡り北上すると那賀川土手に出る、土手沿いを下流に少し歩くと鉄道橋がある。三角の鉄骨構造を台形に組み合わせた古い型の鉄橋である。昭和のごく初期の橋だろう。(そういえば古い吉野川橋もこんな形だ)
 土手には水仙が群れていてたくさん咲いていた。

 この那賀川鉄道橋にはあとから歩道がつけられ歩行者は渡ることができる。

 那賀川を渡るとすぐ右土手沿いの道端に小さな古いお不動さんがある。

 その横には平和の碑がある。昭和20年7月30日、太平洋戦争の最末期、この鉄橋を渡っていた客車がアメリカの艦載航空機の機銃掃射を受け乗客30余名が死亡、20余名が重軽傷を負ったことを刻んだ碑である。戦後アメリカは日本人の戦争犯罪者には容赦なく罪を問うたが、無抵抗な一般市民を無差別に殺戮したアメリカのパイロットは何らお咎めなし、おかしいとおもうが、敗戦国だから仕方ないのか。
 お不動さんと石碑に合掌する。

2020年1月2日木曜日

昔の住居のすぐそばにお不動さんの寺があった。

 30代の頃住んでいた住宅からわずか百メートルも離れていないところに小さな寺院というかお堂といったほうがいいかもしれない宗教施設があった。今日、三十年ぶりにそのあたりを歩いた。その小寺院のそばを通ると壁に大きくその寺の名称が書いてある。

 見ると「大聖院金不動明王」とかいてある。え~、お不動さんだったんじゃ、と昔、目と鼻の先に住んでいながら不動の寺と気づかなかった自分の無知に驚く。
 大聖院・金不動明王とある。お不動様にはその効能によっていろいろな名称がつけられている(例えば浪切不動)また、そのお姿の色によって赤不動、青不動、黄不動などがある。この中で黄不動(三井寺の国宝)は金色不動ともいうから、ここのお不動様も金色かもしれない。本尊も見えず、お堂には人もいなかったので確かめることはできなかった。
 この寺はどの宗派にも属せず、単独で唯一の宗教法人の寺である。寺の構えや独立独歩の寺であることを考えるとよって立つ経済基盤は御祈祷による収入ではないかと思う。

 不動明王のお経をあげて参拝する。

 お不動さんの反対側は千手観音さんをお祀りしている。こちらも観音経をあげて参拝する。