2012年10月31日水曜日

旅に死す

 私は長崎、東京へ旅をしたが、鈍行とはいえ列車である。そして長崎、東京は別々の旅行で、長崎から帰ると我が家で2週間以上休養し、それから東京へ出発した。

 これが途切れのない続いた旅行だったらどうだろう。長崎から直接東京まで行くとすると、これはかなりきつい。そしてさらに列車などを使わず、長崎から東京まで歩いていくとしたら・・・・・・・

 私が実行するとなると、これはかなりの確率でぶっ倒れ、悪くするとそのままお陀仏かもしれない。でも、倒れずに歩けたとすると、何日くらいかかるだろう。

 江戸時代、東海道を江戸から京都まで、壮健な成人男子で普通、15日くらいかけて歩いたから、歩いて長崎~東京(江戸)までだと一か月~二か月近くかかったのではないだろうか。

 まあ、江戸時代は基本は「歩き」だから江戸長崎の旅はみんな歩いた。この時代の日本人なら旅といえばてくてく歩き、いくら遠くても国内ならどこまでも行った。

 しかし、ヨーロッパ人ならどうだろう。この時代、ヨーロッパでは大型馬車、駅馬車が発達し、長距離旅行には利用されていた。もし、江戸時代、ヨーロッパ人がわが日本国内を旅行したら、さぞやきつかろうと思いますよね。

 鎖国だからそんなことはありえないとお思いでしょうが、江戸時代にあってヨーロッパ人が堂々と旅をする機会があったのです。

 それが長崎出島の商館長(カピタン)の江戸参府旅行です。1640年代にはじまり1790年までは毎年、以後は4年に一回、大名行列の格式で長崎から江戸城まで往復したのです。この参府旅行は大勢の日本人を伴い行列して江戸に向かいました。カピタンは長ですから大名と同じで駕籠ですが、ヨーロッパ人にはさぞや窮屈だったろうと思います。

 そんなこともあってか1798年の江戸参府の帰り、掛川でオランダカピタンのヘンミーが病のため亡くなってしまいました。遺体はこの町の天然寺に葬られ、墓を作りました。仏式で供養が行われ、戒名までつけられました。

 江戸時代、旅先で死ぬ人はかなりな数に上ったと思われます。しかし、鎖国時代の日本でヨーロッパ人が旅をしていて亡くなるというのは極めてまれなケースです。

 今回の私の旅行で、その掛川のオランダカピタンのヘンミーの墓に参り、合掌してきました。

2012年10月29日月曜日

鎌倉と銭

 鎌倉時代は前の平安時代と違って、経済活動に『銭』が広範囲に使われるようになった。以前、函館空港付近にある中世の発掘遺跡現場を見学したが、数多くの甕に入った多量の銭が発見されたことを知り、驚いたことがある。日本の辺境ともいえる北海道での中世に貯められた多量の銭である。全国的に普通に通用していたものと思われる。

 鎌倉武士は質実剛健、自供自足の生活と考えられているが、実態を知ると結構、銭に対し欲がでたりして、意外な気がする。
 現代の世の、「世の中銭がすべてでおます!大概の問題、悩みは銭で解決しまっさ!幸せも銭の多寡に比例する!」というような風潮もこの時代から出てきたものと思われます。

 このような風潮をこの時代の人は
 『銭の病』
 と名づけました。うまい言葉ですね。

 さて、このたびの旅行で鎌倉を歩いていて、そのような「銭」に関する、名所旧跡をつばかりご紹介いたします。

 建長寺から北鎌倉のほうの道を歩きたいのですが、ミーちゃんハーちゃん、キクちゃんらの有象無象がわんさかいるのと、憎らしい車の行列に恐れをなし、北鎌倉のほうへ向かって山には入りました。具体的な地名で言えば(後から知ったが)
 『源氏山~化粧坂きり通し』
 でした。

 そのあたりをうろうろ迷っていると神社がありました。
 『銭洗い弁天』
 です。

 何という面白い名前の神社だろう。察するに、人間の欲望の染み付いた銭をここで洗い落とすという効能があったのではないかと思います。マネーロンダリングみたいですが、そうではなくて、銭使いはもうこの時代やめられなくなっています。それならせめて、金に染みついた悪習や欲など目にみえない穢れををきれいにして使おうという願いでしょうか・・・・

 って、あとでウィキを調べたら、ここで洗ったら銭が何倍にも増えるとか!

 『ああ、どこまでも欲に導かれるのか、人類に救いはない』

 そことは反対の山際になるが(前回の動画でちらりと見えているが)小町の山のほうを流れる小川がある。「滑川」という。下は私が撮った現代の滑川です。

 鎌倉の昔、銭に関し、この小川でこんな話があった。

 『ある武士がこの滑川を渡っていて川の中に銭10文を落とした。夜であったため、松明を50文で買って探させたそうだ。人は、馬鹿なやつよと、言ったそうだ。収支が合わないから普通はそう考える。しかし、この武士は、10文を川の中に失えばその財は永遠に失われる、しかし、50文を使い、10文を見つけ出せば、合計60文の財が天下に流通し、社会全体は益を得るだろうと。』(詳しくはここクリック
 なるほど!為政者になるような人にはこういう人がいて欲しいものですが、私などは下司の根性が沁みついているため、目先のことだけ考えてようしません。

2012年10月27日土曜日

帰って来ました

 夕方帰って来ました。家に帰った途端、どっと疲れが出て、何をする気も起りません。またあす以降、旅の報告をします。

2012年10月23日火曜日

2012年10月22日月曜日

長崎出島遊女を思いつつ、今日のニュース雑感


 オランダ人も出島に閉じ込められてさびしい。誰だって一緒だ。

 でも、わが江戸幕府はいい意味で法治国家であり、厳格に、かなり公正に(当時としては)法が施行されている国なのだ。
 原則、出島からオランダ人は

 「出たらあかんぞ!」

 という規則があるのでこれはダメだ。その厳格さは目こぼしだの、賄賂だのを受け付けない。
 しかし日本人は一方では(私的面では)かなり融通性があり、特に男女関係では粋な計らいをする。

 私の見るところ、さびしいさびしいオランダ人に現地妻を持たせるような制度が、唯一、遊女のみ出入り自由という制度だと思っている。

 ほんとは遊女ではなかったのではないかとも思っている。だって、そういわなければオランダ人のいる出島に入れないんだもの。次の図を見てほしい。(江戸時代の画家が当時の風俗を写生したからかなり真実に近い)

  オランダ人の後ろに控えているのは一応「遊女」となっていますが、そんなアホなですよね。遊女が何ヶ月も出島に居続けで、子供までいるなんて信じられますか?子供をおんぶしていますがハーフのため金髪であることがわかりますね。

 つまり、遊女とは法を逃れるための仮の身分、ほとんど現地における妻だったのです。

 やさしい日本女性を妻にし、子供まで儲け、ここで楽しい家庭生活を続けられたから、出島のような牢獄に近いところで数年にわたって辛抱できたのです。

 『苦しいつらい境遇でも、やさしい女性がいれば、男は生きてゆけるのだ!』

 それで昨日ニュースを見ていて、徳島県警の殺人指名手配犯がつかまることもなく、往生したということを知った。
 前のオーム手配犯もそうだったけど、やはり庇護し、何から何まで(この男仕事をしていなかったそうだ)世話をする女性がいたのだ。女性は15歳も年上だったという、妻としてだったのかあるいは母親として甘えていたのだろうか。
 普通は11年も暮らしていけないような境遇でも、やさしい女性がいたら生きていけるのだ。

 という感想ですが、そう思ったからといってこれからこのことを私の人生の教訓にしようなんどということは、夢、思っていませんから、念のため。



 

2012年10月19日金曜日

東海道を行くには


 鎌倉、東京に行くにはやはり東海道のコースで旅をしたい。ホントは江戸時代の弥次喜多珍道中のように歩くのがいいんだけれど、歩きの専門家が言うには、東海道は四国巡礼の旅のように歩くことは勧められないという。
 四国巡礼の歩き遍路道は、もともとあまり車が多くない四国の道であるうえ、巡礼用の遊歩道が設置されている。
 これに対して東海道はそんな道はほとんどなく、車の多い国道1号線を行かねばならない。これは歩きに慣れた人でも敬遠する。だから東海道を歩いて制覇する人は稀である。

 歩きはダメとして、ゆっくりのんびり東海道の景色も見つつ行くには鈍行列車の旅が最適である。気に入ったところでは下車もできる。車窓からは移りゆく東海道の景色が見られる。
 対する新幹線などは早すぎて味気ない。おまけに運賃が高い。景色なんかも流れるように過ぎてしまって落ち着いて見られるものではない。
 だから私は乗車券のみ購入して普通列車の旅を楽しむことにしている。

 その普通切符だが、普通列車乗り放題で一日当たり2500円、3日セットで7500円の特別キャンペーン切符は、明後日の21日で終了である。
 最初はそれで行こうと思っていたが、体調が思わしくなく延期しているうちにお得きっぷは期限が来てしまった。

 それで結局、これから行くとして、計画を立てる場合は、割引のない正規の切符を購入しなければならない。いくらくらいするんだろうか。安く行ける一つの例として考えたのは

 徳島港~和歌山港~南海電鉄~難波駅まで、これが2000円(好きっぷで期間限定)

 難波~名古屋(近鉄)、2390円、

 名古屋~東京(東海道本線JR)、6090円  ※3日間有効、もちろん何度でも下車できる

 合計・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10480円

 恐らくこれがもっとも安いと思う。深夜バスなどで直で東京へ行く場合はもっと安いだろうが東海道を鈍行で下車を繰り返しながらゆっくり旅をすることはできないから、そんな方法はとらない。

2012年10月18日木曜日

道富丈吉 日蘭ハーフ


 長崎旅行を企てる以前から、この道富丈吉の名は知っていたが、長崎へ言って旧立山奉行所にある歴史博物館、出島跡にある出島博物館で勉強し、その人のことがよくわかった。

 まず、この道富丈吉の父はオランダ商館長(カピタン)のドーフである。母は遊女となっているが、前のブログで紹介したように、遊女の身分でなければ出島に入れないので、仮に遊女の身分になったことも考えられ、そのままは受け取れない。つまり、普通の娘であった可能性もあるわけだ。
 といってもこの時代遊女が今思われるほど卑しい職業とは思われていなかったことも事実だ。

 母「遊女、瓜生野」から生まれたのは1808年(文化5年)だ。名前からわかるように男の子であった。今日、彼の肖像画は残っていないが父、ヅーフの日本人画家による肖像と、オランダの肖像をあげておく。

 父に似ていたのかどうかはわからないが、日蘭のハーフである、さぞや美男子だっただろうと推測する。(そういえば宮沢リエも日蘭ハーフだ)
 
 父はオランダに子供もなく跡継ぎもいないため、彼をつれて帰りたかったが日本の国法ではそれができない。残された子は、日本で混血児として苦労しながら成長するかもしれないと、父は危惧したであろうと思われる。というのも彼は、日本を離れるに当たって、子供のために長崎奉行にくどくどと子供の行く末を頼んでいるのである。
 
 そのため彼は長崎奉行所に自分の財産である白砂糖を預け、その利子を子供の養育に当てることを頼むのである。白砂糖と知っても馬鹿にしてはいけません。記録によれば、その預けた白砂糖の代金の利子だけで年間400両あったそうですから、充分な養育費です。
 
 頼まれた長崎奉行は快く引き受けたそうです。そのときの長崎奉行はあの桜吹雪の刺青で有名な遠山の金さんのお父さんだったそうですから、歴史は面白いですね。
 
 さらにヅーフは幼い子供に名前をつけますが、オランダ語の名前では将来いじめられるかも知れないと思ったのでしょう、日本名『道富丈吉』と名づけます。切ない親心ですね。
 でもこの道富(ミチトミと読む)は、音で読むと「ドーフ」、自分の名前も刻んでいたんですね。
 
 ヅーフは養育費の心配ばかりでなく、幼い子供の進路も心配しています。日蘭ハーフで一般的な職業にはとても就けないから、どうか、唐物目利き(オランダ、中国の貿易の貿易仲介者の一種か)にしてくれるよう頼んでいます。
 
 このように日本を離れるにあたって幼い丈吉のことを心配したが、その丈吉はかわいそうに17歳で病没する。
 
 聡明であまりにも美しく、神に愛されすぎて早々と神の国に召されたのでしょうか。
 
 シーボルトの娘、いわゆるオランダおいね、は有名であるが、彼のことを知る人は少ない。



2012年10月17日水曜日

なんで鎌倉なのか


 久しぶりのお湿りである。暑くもなく寒くもないこの時期の雨はしっとりとして気持ちよい。いつものように図書館のパソコンからの投稿である。
 窓から見える眉山も雲がまとわりついて墨絵を見ているようである。

 体調がよければ今頃鎌倉を歩いていたのかなぁ、と考える。なぜ長崎の次は鎌倉か、どうして?と聞かれるかもしれませんね。
 私のような歴史好きにとって2つの町とも何度でも行ってみたい町なのです。

 江戸時代三都、といえば京、江戸、大坂です。これに長崎を入れて4都市とすることもあります。それだけ重要な町だったのです。だから近世の歴史好きには行ってみたい町はこの4つといいたいところだけど、東京、大阪は近代的な建物が立ち並び歴史的な風致はほとんど残っていません。だから行くとすれば、京都、長崎です。

 じゃあ、鎌倉はどうでしょう。これは中世都市の中心なのです。中世(鎌倉時代~室町初期)にかけて二都といえば、京、鎌倉です。
 だから鎌倉巡りは長崎と違って中世前期の歴史物めぐりの旅でもあるのです。

 例としてこのブログでも取り上げたものをご紹介しましょう。まずはこれ

 ここクリック

 鎌倉の地形はありがたいことに公共事業とやらの大土木事業で周りの山やヤツといわれる谷筋をぶち壊していないので、街中や周辺を歩くことによって、当時の鎌倉を白昼夢で見るという私の才能でもある妄想をかきたてることができます。
 この絵巻のあたりは鎌倉のどのあたりでしょうかね。

 次の2例目はこれ

 ここクリック 

 私は鎌倉周辺の地理には詳しくありません。この片瀬の浜がどこにあるのか知りませんでした。先日鎌倉旅行を企て、江ノ島へ行く方法を模索していました。
 江ノ電に乗って稲村ガ崎(ここも鎌倉滅亡の重要な歴史拠点だ)をとおり行くのが一般的だが、もうひとつのルートを検索していた。
 このブログ取り上げた私の大好きな一遍上人の宗派の大本山が藤沢にある、そこも見学経由して行けばよいと考え小田急で江ノ島へ行くルートです。
 そのルートの最終地駅が小田急線『片瀬江ノ島』だったのです。

 「片瀬浜とは江ノ島の近くだったのか!」

 これはこのルートでぜひ行ってみたいと思いました。今では一遍さんの時代の念仏踊りに代わって江ノ島や片瀬浜では、若いおねえちゃんやお兄ちゃんのブレークダンスやモダンダンスが見られるかもしれませんね。
 それはそれでまた妄想を掻き立てられます。
 

2012年10月15日月曜日

鎌倉へ行くチャンスだったが行けない


 一昨日知ったのだが、昨日の10月14日は鉄道記念日だった。毎年あるのだが今年は特別な記念日で鉄道関係のイベントもたくさんあったようである。というのも明治5年に鉄道が開通して140年目ということで大々的な記念となったようである。

 それは別にどうでもいいのだが、それに伴い2500円で一日乗り放題(全国どこでも)切符が3枚
セットで(7500円)で売り出されることになった。

 ということは鎌倉までここ鴨島から2500円で行けるということである。調べると一日で行けそうである。

 ここクリック

 しかし、体調がもうひとつ思わしくない。このキャンペーン切符、10月の21日までである。

 『今しかない!』

 ほとんど行こうと決意しかけたが一週間前の発作の起こったことを思い、残念ながらあきらめた。

 「いい時期の鎌倉に2500円で行けたのになぁ」

 この3枚で鎌倉歴史散歩して、江戸城本丸跡(今は東御苑になっている)見て、江戸博物館見て、スカイツリーを背景に写真を撮ることを考えていたのだが・・・・・

2012年10月14日日曜日

彼岸花はこのように


 曼珠沙華は変わった花である。ある日、何もないところ(茎も葉っぱも何もない)から急にまっすぐな茎が伸びて花をつける。葉がないのでこれをうんと縮小すれば青かびの類の「赤カビ」(そんなのがあるかどうか知らないが)のようだ。

 ともかく葉っぱがなく青く長いストローのような先に派手な真っ赤な花のみがあるので何か人工的で、不気味な感じがする。

 葬式花として嫌われるのも頷ける。

 しかし、枯れ始めるこの頃観察すると・・・
 
 下は花はしぼみ枯れ、茎も倒れている曼珠沙華

 根元をよく見ると、茎と派手な花が枯れ始めると、小さな葉っぱが出てきている。これからは花も茎もないこのような葉っぱのみが成長し、秋から冬にかけてこの植物は過ごすことになる。

2012年10月11日木曜日

2012年10月9日火曜日

長崎は歌の町 その1


クイズもあります。ここクリック

今日のニュースから


 最近、ニュースを見てもお隣のC国やK国の我が国に対しての居丈高な態度に嫌気がさし、努めてニュースなど見ないようにしていた。
 今朝起きて、パソコンのヤッホーのホームページを見ると、トップニュースが目に飛び込んできた。

 『ノーベル生理・医学賞を山中京大教授が受賞』

 久しぶりのスカッとする気持ちの良いニュースである。さっそくネットで(地デジは見られないので)ニュースをしばらく見た。

 iPS細胞についてはある程度今までにニュースで知っていたので、なんで受賞したかはよく分かった。さらに動画ニュースでアナウンサーが

 『細胞の初期化・・・・・』云々

 と言っていて、今回初めて聞く言葉だけど、なるほど、と思った。パソコンをやりだしてよくわかったが「初期化」は重要である。
 内容についてはよくわからないのでこれ以上踏み込まないが、これは実用化、医学における応用への強い需要があり、薬メーカーを中心に巨大な金も動く大きなビジネスになる。
 というのも利にさといアメリカなんかではオリジナルを生み出した日本以上にこの分野で開発を続けているという。
 医学の未来、巨大な金儲け、という意味でもこの受賞の意味は大きい。

 それにしても山中教授はすごい。ふつうノーベル賞は研究発表から数十年はかかるのが普通である(評価が定まるのを待つのか)、ところがわずか6年目の受賞である。彼と同時の医学賞の英国のガードン教授は発表から半世紀、現在79歳だ。長すぎた待機期間である。
 これを考えても彼の偉業はわかろうというものであろう。

 動画で彼の顔をまじまじ見た。

 「天才の顔ってどうなんだろう。我々とどう違うのだろう』

 ごくごく真面目な普通のサラリーマンと違わない顔をしている。ちょっと冷たそうな感じはするが学者肌という人はこうなのだろう。丸刈りに近い5分刈りの髪型は好感が持てる。特に天才の顔といった何かの特徴は発見できなかった(当たり前だろう、今までの天才もずいぶん普通の人の顔だ!)

 最初に返るが、お隣に対してもちょっと鼻が高い。もちろんC国やK国に対してである。つつましやかな日本人ですから
 「Cさん、あんたとこはウチより10倍も人がいますがまだ一人も受賞してまへんな」
 とか
 「Kさん、たしかあんたとこでは、倫理に反する女性の受精卵をしこたま集め、iPS細胞を作り出した。さあ、国初のノーベル賞候補だ、と大騒ぎし、後で嘘がばれて世界的に恥かいたことがありましたなぁ」
 などとは口が裂けても言いません。が、口に出さなくても気色の良いことです。

 CやKにたいして腕力では敵わなくなってる老大国日本ですが、このような科学・技術・伝統工芸で追随を許さぬ老成した国になればいいと思います。

2012年10月8日月曜日

長崎は異国の窓


 長崎(ここではあえて長崎県と云おう)は江戸時代における異国の窓であったというのは小学6年生でも知っている。ではその異国とはどこの国?と質問すれば、複数の国を答えられる人はちょっと少なくなる。オランダは誰でも答えられる。じゃあ他には?もう一つは清国(当時の中国)である。

 オランダ人は長崎の出島に閉じ込められての生活だった。清国人も人工の島ではないが町の一角に塀をめぐらせ出入りを監視されていた。けれどオランダ人よりは自由がきいたと思われます。

 これが長崎の江戸時代の絵地図の中の清国人(唐人と呼んでいた)の居住地です。
 このあたりは今も中華街の一部となっています。この唐人の居留町はだから中国式のお寺や祠堂(日本の小社、お堂)が建てられていました。
 その中の中国祠堂の動画です。

 この近くにはこんな表示石も残っています。

 じゃあ、長崎の異国の窓はこの二国だけか、とお思いでしょうね。この二国、交渉といっても公的な外交した国ではないのです。交易の付き合いだったのです。オランダの場合、商館長(オランダカピタン)が大名行列に準じた「江戸参府」などを行い、また毎年オランダ船が入るたびにオランダ風説書(世界の諸国の動静が書かれてある。いわば国際ニュース)の提出が義務づけられていたので多少政治的な付き合いでもありましたが、正式な国交使節団ではありません。

 江戸時代、正式な国同士の付き合い(外交)があったのは唯一、「李氏朝鮮国」(今の韓国)のみです。江戸まで国書の交換に朝鮮の使節が「通信使」としてソウルから向かいました。
 この受け入れの窓口も長崎(何度も言うようだが長崎県です)だったのです。

 さて長崎(県)のどこでしょう。それは対馬だったのです。

 「ええぇ~~!対馬って長崎県か!」

 と思う方もいるでしょうね。方向位置距離から言っても福岡が近いと思いますが長崎県なのです。ここが朝鮮との外交の窓口だったのです。(長崎は幕府の奉行が管理しましたが対馬は対馬藩を通しての外交です)

 「だから長崎(県)は江戸時代、3国への異国の窓だったのです。」
 
 対馬は離島だがけっこう大きな島、旧国区分では対馬島だけで一国『対馬国』である。いいところらしいけど何せ遠い。日本の観光客は敬遠して行きたがらない。いま増えているのは韓国の観光客とか、

 「みなさん!ここがかってに韓国領土だと宣言されないように我らもしっかりここに観光に行きましょう』

2012年10月7日日曜日

病にかかったとき見る夢


 朝、病気の発作という大きなハンマーで殴られたため、今日は一日、ほとんど布団の上で過ごしました。本もDVD映画も見る気が起らず、ぼんやりしながら鬱々とすごしておりました。

 一応の病気の苦しみが去った後は。何か楽しいことでも考えればいいと思い、あれこれ楽しそうなことを思いましたが、楽しむにあたっても基礎の基礎は『自我の基となる肉体の健康』、それが損なわれては楽しみもあったものではない・・・結局それに帰ってきて、また病のことをおもいだし気分は下降。

 それじゃあ今度は過去の楽しかったことを思いましたが、長崎のことよりも浮かんでくるのは一昨日の別府・竹瓦温泉。

 使い切れぬ湯量では世界の3本指に入るくらいの温泉地、ボイラも燃料もいらずたっぷりの95度の湯がいたるところに湧いてあふれんばかり。
 だから市内いたるところに公営の浴場がある。この風情ある竹瓦温泉もそう。公営で自然湧水の熱湯を利用できるため、この温泉も含め入湯料は100円の安さだ。

 そして昔は熱海と並ぶ大歓楽地だったが今はさびれている。老人、猫が多い。

 「ワイの病気がちの残された人生を送るのにいいかもしれない。つつましやかに生きていけそうな町かも知れない」

 「100円をポトンと入湯金箱に入れて、日替わりでのんびり公営浴場めぐりもいいかもしれない。」

 「別府富士といわれる鶴見岳を見ながら砂浜や公園で古典を読むのもいいかもしれない」

 などなど、夢をみる。

 これは私が撮った動画です。


 
 こちらは内部の様子(この写真は別府市パンフレットから)、白壁で高い位置の縦長の窓、まるで昔の講堂のような浴場です。若い人は不潔な感じがして嫌う人がいますが、湯垢や成分の鉄がこびりついたもので汚れではありません。これも歴史の長さを感じさせるものです。

楽しみのあとには・・・だけれどこれは苦しすぎる

 
 未明、1年以上起こっていなかった持病の発作が起こった。時間外来でいつものように看護婦さんに(あらかじめカルテに処方支持を書いてある)やってもらったが、今回は様子が違った。
 具体的には書かないが、結局、家に帰って再び病院へいった。まだ5時ごろである。しかし、2回目となれば看護婦さんも処置できないといわれ、朝9時まっで主治医を待ってくださいとのこと(今日は日曜だが朝9時に回診に来るので)。

 しかし苦しくて辛抱できない。なんとか!とお願いするが、看護婦も当直の内科医も、泌尿器科の先生が朝出て来るのを待ってくださいとの一点張り。
 冷や汗だらだらの苦しみなのに、マニュアルに沿って対応といわれればそれまでだが、対応の看護婦が鬼に見えました。

 あまりの苦しみに近くの緊急指定病院を調べ、すぐ向かいとりあえずの処置をお願いした。しかし、その病院の先生(外科)がやっても処置できない(カテーテルが膀胱に達しない、先生はそうは言わない。『入っているはずなのに尿が出ないなぁ~』と気楽なことを言っている。入っていないのは私でもわかる。技量不足なのか)

 結局、その医者は『もう少し辛抱して主治医に見てもらってください』とのこと、で、主治医を待つしかなく、またもとの病院へ、七転八倒の苦しみの後、9時前先生が出勤してきて処置すれば難なく成功。

 「家に帰っても大丈夫ですよ。当分は尿が出なくなるということはないと思いますよ。」

 もう体も、気持ちも打ちのめされ、帰っても先ほど午後3時まで布団に横になっていた。こんな時付き添いの家族がいないのは侘しいものである。

 一応おさまったが、このような状況では手術の選択も考えねばならない。莫大な(私にとっては)金が要る。ということが頭をよぎる。そんな金ない!もうお先真っ暗のような気がする。

 とりあえずは、あの処置できなかった緊急病院の支払いである。(いつも行ってるかかりつけ方は何回もやっているので常識的な請求だった)
 無駄も無駄!いっそ患部を傷つけたかもしれない!しかし、これはダメだなぁ~、といいながら消毒パック入りのカテーテルを2つ3つ破って出して試みていたから、時間外割増、なんか加算され、どうなるだろう。
 事務がいないので預かり金をいくらか払い、休日明け清算ということになったが、1万くらいはとられるかもしれない。

 今日は七転八倒の苦しみと、先に待っている治療費なんかを思うと一瞬、死んだ方が楽かもしれんと思いました。

 「長崎の楽しい旅のあとはそれを差し引きする以上の苦しみ、私の人生こんなものか。トホホホ」

追伸
 多分、鈍行列車の長時間座位が再発発作をもたらしたのだと思います。

 少しだけいいように考えれば、長崎旅行中でなくまだよかったと思います。
 無駄なあの緊急外来も私が選択したのだから恨み言を言ってもしかたないです。未明にバタバタと病院を移動したときに財布を落としたとでも思って諦めます。病院の請求、処置に文句つけてもいいことないですからね。

 京・鎌倉も最後に見たい、と思っていましたがもう無理かもしれません。

2012年10月6日土曜日

なんとか帰りつきました


 八幡浜から鴨島までの9時間半の鈍行列車乗り継ぎの最後のコースはさすが疲れが出たのか、乗換駅の手前では何とか覚醒したものの、ほとんどは地の底へ引きずり込まれるような睡魔に襲われ、グースカ・ピーと昏睡状態。
 道後温泉で4~5時間下車して温泉にまたまた浸かろうと思っていたのだが、これはパスしました。

2012年10月5日金曜日

別府・竹瓦温泉


 今日のブログは別府のネットカフェから投稿しています。といってもここで夜通しいるわけではありません。今夜の別府発八幡浜行きの深夜便に乗るため時間つぶしをしているわけです、

 いよいよ明日は四国に帰ります、今夜はフェリーの上での船中泊となります。

 夕方、別府の竹瓦温泉に入ってきました。この建物は明治12年に建てられたもので、道後本館より古いです。あちらほどなぜか有名ではありませんが、レトロな温泉の風情がいいです。私は道後本館よりこちらが気に入りました。
 写真と動画をご覧ください。

2012年10月4日木曜日

明日は長崎を離れる


 明日は長崎を離れる。たっぷり3日間、思い残すことなく長崎の町をまわることができた。しっかり写真・動画も撮り、あちらこちらで資料ももらった。また帰ってからブログのネタにしようと思う。

 そして今日最後の日、いいものが見られた。それは「くんち」・諏訪神社の祭りである。本番は後3日後、7、8、9日である。だから私は見れないものとあきらめていたが、なにせ大きな祭礼である。前夜祭的な「にいぞろい」(人数揃い)というのがある。まあいわば本番そのもののリハーサル。それが今日なのだ。全部で5つの町内が当番で出し物も5つある。開始時間が重なる関係で2つしか撮影できなかった。

 今日は旅先からなのでざっとだけご紹介します。

 「長崎の祭りといえばやはりこれですよね。龍踊り(蛇踊りとも)」

 
 ところで帰途のコースであるが、来るときは山陽道コースだったので帰りは南海道コースにしようと思っている。(明日早朝6時に出発だ)

 眺めのよい(すばらしい九州山地の景色が見られる)九大線で久留米~湯布院~別府、別府では温泉に当然入る。そして八幡浜へフェリーで、またまた道後温泉に浸かり、帰る。

2012年10月3日水曜日

今晩はビジネスホテルで泊まりだ


 二日もネットカフェが続いたら気分はすっかり「ネットカフェ難民」だ。しかし今日はホテルのベッドでゆっくりくつろいで寝られる。

 それにしてもネットはすごい!夜通し退屈なのでネットで検索していたらネットで簡単にホテルが予約できることが分かった。今まで、ネットで商品やサービスを購入したことがなかった。これも初体験、それも旅先からだ。おまけにネットで予約できれば超格安のがヒットする。

 早速予約した。朝食つきで驚くほど安い。

 今、フロントの横に無料で供されているパソコンを打っている。フロントでホテル受付係りとお客の受付が聞こえてくるが、前日や今朝、電話で予約したお客の値段は「6000円」と言っていた。私と違わない部屋、朝食(バイキングつき)である。

 「ネット予約は格安に行き当たるし、難なく予約できる。ネットの威力はたいしたもんだ!!!」

 聞きながらにんまり(どれだけ安いかは他の客に申し訳ないので言わない) こじんまりしてるが清潔感がある。始終ドリップコーヒ飲み放題であるのもコーヒ好きの私にはうれしい。

 場所は長崎駅から歩いて5分、なんと県庁の前で、県警の横である。

 ベッドはセミダブル

 小さいがバスタブがあるのもうれしい。

稲佐山夜景


 あちらこちら回りましたが、追々ブログにするとして、今回は稲佐山の夜景の動画をあっぷいたします。
 余計な説明は加えておりません。
 この日は風が強く、帰りは強風でロープウエイが一時運休となり、スタッフがバンで頂上から麓まで送ってくれました。

 長崎湾がフィヨルド地形のように細長く内陸に入っているのがよくわかります。ここは函館山、六甲山と並んで夜景の美しいところです。

2012年10月2日火曜日

今、ネットカフェにいます


 前に田宮のネットカフェでお試し体験をしたが、長崎における今夜が本格的なやりはじめである。オールナイト9時間パックで1760円、最初の登録料300円。

 柔らかマットのフラット席(要するに和式)なので、ブランケットを借りて横になることもできる。カプセルとかわりがないように思う。

 明日の8時49分まで休める。

 さっき通路に出たら、いかにもオタクっぽい若くはない青年がなにやらごそごそしていた。

 「あぶなそう!」

 今夜は初体験でもあり、いろいろとどきどきする夜になりそうだ。

 パソコンソフトにムウビメーカがあったので動画をアップしてみた。