2019年5月31日金曜日

隣町にはこんな古い歴史遺物がある

20180713

 わが町に残っている一番古い伝世の(捨てられたり、埋められたりせず代々持ち伝えている)ものは古いものでもせいぜい平安末期ころの仏像と言われている。ところが隣町の石井町の神社には奈良時代初期の墓碑の磚がある。ご神体とされているため、手ンごろ易く見せてはもらえないが、神社の境内にはその墓碑の磚のカラー写真と書かれた文字と意味、納めた当時の豪族名などを表示した説明板が立っている。

 今日、江川を下って、石井町の覚円まで自転車で行ったついでにこの神社にもいってその説明板を見てきた。南山のふもとと聞いたが、少し山を登った高い位置に神社はある。


 中王子神社の正面


 境内にある説明板、養老7年というから西暦722年、この年代のものだと、弘法大師よりも100年は古い。伝世のものとしては誇ってよい古さだ。


 墓碑の磚の写真拡大図


 これを納めた氏族の名前は『粟凡直』と書いてある。読み仮名を打ってくれてない。専門家でも読み方が確定していないのであろうか。私は「あわのおおしのあたえ」と一応読んだが、どうだろう。

 古代は平野部は吉野川や中小河川が我が物顔に氾濫を繰り返し、農業するにも居住するにもむつかしいところである、そのため古い時代ほど、標高の高い丘、山すそ、扇状地などに農地や居住地が集まっていた。神社は小高い山すそにあり、平野部を眼下に眺める位置にある。この豪族もこの神社を中心にした高地にその根拠地があったのであろう。この山すそを1kmあまり西に行ったところ(童学寺のすぐ下)にはやはり古代に作られた「石井廃寺」跡の遺跡がある。

江川の源流から終点の河口までたどる

20180713

 我が家の前を流れている江川は水量の多い割には極めて短い川だ。全長10kmにも満たない。源流は吉野川医療センター(7年前は吉野川遊園地だった)のすぐ西横、吉野川堤防の際だ。今日、自転車で源流から最川下(吉野川と合流点して江川が亡くなるところ)までたどって写真を撮った。地図で江川の全長の流れを示す。地図の番号を参照しながら写真を見てほしい。


 堤防から源流付近を見る。医療センターの案内板の横、こんもりと木々の生い茂ったところが江川源流の泉のあるところ。写真①




 写真②、吉野川高校のグランドの横を流れる江川


 写真③


 写真④


 写真⑤


 写真⑥


 動画⑦、ここで吉野川と合流し「江川」の名前が消える。



 なぜ、江川はこのように10kmにも満たないくらい短いのか、それには理由があった。それはまた別のブログでご紹介します。

阿波国衙はどこ?

20180711

 どれくらい前だろうか、淡路島に橋も架かっていない時代、ワイはたぶん20歳過ぎた頃、つうことはもう半世紀もまえの大昔か。そのころワイはガッコへいってたが、一足早く淡路で警察官になった高校の友人のところへ遊びに行った時のコト。鳴門黒崎から巡航船にのって福良に上陸、そこからバスで友人の下宿先へいった。当時の田舎の路線バスであるから、地元の人も多く乗っていて、ほぼ各停留所で乗り降りがある。途中、注意を引いたバスの停留所の名前があった。「次わぁ~~、コクガでございます~、お下りのかたわぁ~」女車掌が声を張り上げる。

 「こくが?けったいな名前やな、どんな字ぃ~書くんやろ」

 バス停のスタンドをみると『国衙』と書いてある。その時は日本史などにはほとんど興味なく(専攻は化学だったので)、「衙」という字もしらなんだ、あれ、ガと読むんじゃな。いっちょベンキョになったわ。後になって「国衙」とは古代(奈良・平安)に国(淡路とか阿波とか)の国府の政庁の建物を意味することが分かった。

 淡路は国府の跡が「国衙」という地名になって現代でも残っている。それじゃぁ、この阿波の国ではどうじゃろかい、のこっているんかいな。国府とか府中っつう地名は残っている。これが阿波の国衙のことか?でも国府より国衙の方がより狭い意味で阿波の国の政庁の跡を限定的に指し示すんじゃないやろか、阿波国衙は何処に?

 今日、昨日石井へ置いてあった自転車を徳島まで乗って行くので途中の国府町矢野にある市立考古資料館に寄って学芸員さんに聞いてみた。すると、阿波国の国分寺跡や国分尼寺の跡地はよくわかっているが、阿波国の政庁跡(つまり国衙)ははっきりここだとわかっていないそうである。候補の有力地はいくつか存在するそうだが、ここだといって「国府政庁跡」とかいう表示も立てられていない。

 学芸員さんの言うには、南バイパスの工事の時に出てきた多量の古代(奈良、平安初期)の木簡から小字名「観音寺」から「敷地」あたりにかけて、国府の官衙が点在していたのではないかと思われる。しかし、一方、国府町の町筋にある「大御和神社」あたりが阿波国衙の中心地であると、強く主張する意見も有力だそうである。

 まあ、かなり広いが、時間はあるし、自転車でアッチャコッチャうろうろできるのでまとめてそのあたりをまわってきました。

 広々した農地が広がる字、「観音寺」から「敷地」にかけての風景、向こうに鳥坂城のある茶臼山が低く見える。奈良平城宮の跡でさえ楼閣は早くに消え去り、牛が糞を垂れながらペカペカあるく農地だったことを思うと、阿波の国衙も幾星霜をへてさびしい農地になっても不思議ではない。


 このあたりのバイパス工事の時、多量の木簡が出土、国衙関係の木簡が出たことからこのあたりに国衙があったんじゃなかろうかといわれている。



 こちらの大御和神社が阿波国衙の中心だったという説もある。


旧伊予街道鮎喰から石井まで

20180710

 長く降り続いた雨も昨日からは真夏のような晴天になった。関東甲信越は早くから梅雨が明けていたが四国の梅雨明けはどうなったのだろう。、もうあけてたのかな、とおもったら今日、四国地方の梅雨明け宣言だ。

 昨日の続きで旧伊予街道のつづきを鮎喰川堤防から始める。今は鮎喰川は立派な橋が架かっているが江戸時代の鮎喰川には木製の橋もない。伊予街道は前のブログで紹介した六十六部大権現のある場所を降りたところに渡船場があり、船にのって向こう岸にわたった。ここの渡し場は亀の胴といわれ、昭和初年ごろには渡船のため作られた石の構築物が残っていたが、今は旺盛な繁殖を示す竹藪に隠されて消えてしまっている。

 対岸の国府川の河原から渡船場のあった亀の胴と言われるところを撮影する。


 船から上がったところにあるのがこの地蔵尊


 ここから旧道を行く。天狗久のある国府の町並みから一本南に入った道が、古い伊予街道となる。この道は大御和神社前で遍路道と一緒になる。


 舌洗い池を右に見てなおも進み


、南バイパスを横切り、西へ行くと国分尼寺の遺跡ある。この辺りで低い山にぶつかる。小山と小山の間を旧伊予街道は通っている。


 なぜ山を迂回して平地を通らないのか、下の鳥観図を見てほしい、旧伊予街道は黄色の線である。わざわざ(低いが)山を越えることになる。それよりか赤い線の(現在の車道はそうなっている)道を行くと平地ばかりなのでずっと楽なように思うが・・・・・


 実はこの赤い線の場所は平地だが昔は低湿地または沼沢、河川であったと考えられる。河川地、沼地、泥土で水生植物が茂り、通行しにくいところであった。それより山道だが水はけのよい乾燥した石道がずっと通りやすいのである。そこで伊予街道はここでちょっとした峠を越えるようになっているのである。

 ただ上の鳥観図をよく見てほしい。今は車を通すため切通になっているが、旧伊予街道はその切通(道が白く見えている)の少し上を通っているのである。今はこの道は廃れて藪が生い茂りほとんど人は通れなくなっている。しかし、ここは鎌倉初期に山城(鳥坂城)があったところなのでたまに歴史好きの人が通る。かくいう私もその一人、その時はなぜ、こんな人の通らないところに、江戸時代の年号の刻まれた立派な地蔵尊や碑があるのだろうと疑問に思ったが、なるほど、こちらが鳥坂越えの旧道だったのである。

 今はほとんど人が通らず、藪に消えそうな山道に江戸期の地蔵や供養塔が立っている。


 鳥坂越えをしておりたところに地蔵尊、供養塔、消えてわからなくなった石碑などがある。この前を旧伊予街道は通っていたのだ。


 そこからしばらく西に向かっていき、白鳥神社を左に見るあたりで再び国道と一致する。


旧伊予街道を通って鮎喰まで

20180709

 一転、今日は青空の広がる天気になったので昼過ぎ、自転車にのって旧伊予街道を上鮎喰まで写真を撮りながらサイクリングしました。

 出発地は徳島中心地に近い寺町の滝薬師、なぜ出発地をここにしたかはまた次のブログでお話しします。写真右の立て看板の「聖観音堂」の横に少し薄いですが「創建400年」と書かれていますね。ここからこの上の山一帯は江戸時代、いくつもの寺院の伽藍、塔頭があり、「持明院」と呼ばれていたそうです。


 そこからいったん旧街道は車道と一致します。イノタニのラーメン店を過ぎると三島神社がありそこから横道に入ります。佐古橋までの間に眉山のがけに沿って旧道は続きますが途中こんな道標があります。一面は恩山寺、別の一面は井戸寺とかなで刻まれています。


 佐古橋を渡り左に行きます。


 旧道は佐古の問屋街に入ります。高い石段の諏訪神社が見えると諏訪橋を渡ります。


 そうすると迷子石が見えてきます。


 なおも佐古川にそっていくと蔵本に入り、道は八坂神社(祇園さん)を通り過ぎます。


 田宮川を渡り、


 今は裏道となっている庄町を過ぎると、昔は袋井用水の流れがあって(今は暗渠になって川はない)、常盤橋という橋が架かっていました。その橋柱が記念に残してあるとのことで探して見つけましたが、横倒しになっていました。この辻に川が流れていました。左は昭和27年ころの写真、右は今



 鮎喰町に入ると一里塚跡があります。


 そこから少し行くともう鮎喰川です。土手を上がる所に「六十六部大権現」


 並んで一字一石経王塔があります。


 そこを過ぎると河川敷、江戸時代は鮎喰川に橋はなくこの下に「亀の胴」という渡し場がありました。


 鮎喰川の向こうの旧街道はまた次回のブログで

わが町の中世の信仰

20180708

 八百万の神がいて、その上、仏教の仏様、それに付属する神様もいらっしゃり、それぞれに信仰がある日本である。その状況は中世日本でも変わらない。いやむしろ神さまの数はもっと多かったかもしれない。一人の人があの神もこの神も、また仏さまも信仰するという日本人の宗教は中世から変わっていない。多神教はどんな神仏も共存だがその時代に優勢な神、流行りの仏というものはあった。特に有力者、中でも皇室や大貴族に信仰されれば莫大な寄進が集まり、神社、寺も大きくなり、その神仏の信仰も抜きんでたものになってくる。

 麻植保の保司だった平康頼が信仰した神様に熊野大権現がある。昔の麻植保の奥、山際にある熊野神社はその康頼が勧請した神社と言われている。熊野の信仰は院政時代に興隆を極め、京都から熊野まで上皇、女院、貴族がひきも切らず参詣に訪れたといわれている。後白河法皇などは34回も参詣している。中世の時代、京都~熊野の距離を考えたらこれはすごい宗教的情熱と言わなければならない。

 平氏政権になっても熊野信仰は衰えることなく、清盛はじめ平氏一門も深く信仰した。平治の乱の時、清盛が熊野参詣に旅立っていて京都を留守にしていたのは有名な話である。都の中下級貴族であった平康頼が熊野大権現を信仰していたのもこの時代のいわばトレンドであった。

 康頼神社よりさらに山際、玉林寺に近い谷筋に熊野神社はある。今はひっそりした小さな神社である。


 境内の隅に経塚があるとのことである。この時代、経を筒に納め土中に埋め塚を築くのが流行ったといわれる。雑草の生い茂る境内を歩いてみた。これのことだろうか?


 上の熊野神社より北東に1.5kmほど行ったところに國一八幡宮と仙光寺がある。今はこの仙光寺は民家と間違うような小さなお寺だがここには中世から伝えられた文書が存在する。この文書には、この寺(中世の)は修験の寺であり、さらに熊野三社と大峰への代参、祈祷を旨としていると述べられている。文書は南北朝時代のものであるが、鎌倉初期に熊野神社が麻植保の奥に勧請され、南北朝時代になってもなお熊野信仰が盛んであり、代参や祈祷もここで引き受けていることがわかる。

 今の仙光寺

 当時の寺、祈禱所などが今残っているわけではないが、國一八幡宮と仙光寺は小河川の流れる平地から丘を少し上がったところにある。おそらくその上がったところ國一八幡の境内あたりがその跡地ではないだろうか。そんな雰囲気を感じさせる所である。



 中世の熊野信仰の様子を一遍上人絵伝から見てみよう。

 熊野信仰は三社の参拝ばかりではない。大峰山から熊野にかけて続く山々、熊野川、森林、路傍の小社、石仏、すべて熊野信仰の対象である。

 大峰山から熊野の山々をめぐる参拝の人々


 熊野川を下る人々


 熊野本宮に参拝する一遍

一遍上人絵伝に板碑は出てくるか?

20180705

 そもそも板碑ってなんやろ、それは供養塔の一種である。死んだ人の霊を供養するためたてるのである。ただし死んだ人といったがこれから死ぬ人も供養の中に入る。前者は「追善供養塔」となり後者は「逆修供養塔」となる。以前のブログで紹介したがわが町内の本行寺の供養塔(板碑)が逆修供養塔で生前に建てたものである。


 供養塔は別名、塔婆という、これはサンスクリット語のストゥーバ(塔)から来ているといわれている。今でも墓の周りにたてられる「卒塔婆」とも同じ語源である。今の卒塔婆にも梵字がかかれているのと同様、中世の供養塔である板碑にも梵字(種子)が刻まれている。中世の板碑の一般的な型を示すと左のようになる。

 今までわが町と隣町(石井町)の板碑を見たがおおむねこの形式である。







 ここで現代人の私としてちょっと疑問に思うのは、板碑は青石でできていて石工が腕を振るい上に見るような形作りをし、種子(梵字)、文字、場合によれば本尊の像や花紋を刻んだ立派なものである。これって、中世の墓石といっていいんじゃないのか?墓といってだめなら、この板碑と墓の関係はどうなるのだろう?

 同時代(鎌倉中期)を写実的に描く一遍上人絵伝を見てみよう。この中で墓が出てくるのは唯一、一遍上人のおじいちゃんの墓である。それを見てみるとこんもりと盛り土した小丘である。墓石などはない。木の供養塔はあったかもしれないが朽ちて無くなっているのかもしれない。ともかく墓石はない。墳墓となっている。じいちゃんの墓に詣で祈る一遍。

 それでは板碑はどうだろう。絵巻をずっと見て行ったが石造の板碑のようなものはない。ただこのようなものが立っている。これは木製の供養塔と思われる。いわゆる卒塔婆であろう。(一遍上人絵伝より、左の女性は浄衣・白の着物、を着ているので信仰の道行であろう。小屋に座る女性は何か売っているがはっきりとは分からない、この供養塔群と何か関係あるのかもしれない)

 よく見ると先端が三角形をしており、二条の線が入っているのがわかる。模様や文字は見えないが、少なくとも頭部は上記の板碑の形式をしている。おそらく供養のためたてられた木製の供養塔と見て間違いなかろう。別の絵巻物(餓鬼草紙)に同時代と見てよい墓が出てくるが、やはり小墳墓であり、上には木製の供養塔が立っているのがわかる。貧しい庶民は風葬といえば聞こえがいいが、葬送の最終地に取り捨てである。遺体は白骨化する風葬の過程がわかるむき出しである。

 
 鎌倉時代に作られた木製の供養塔は当然ながら今まで残っているはずはない。ただ石造の供養塔・板碑が現代に辛うじて残っているのである。

 ちなみに庶民まで墓石をたてるようになったのは江戸時代もかなりたってから(18世紀の初めころ)、それまでは風葬か、遺体をそのまま土に埋めるだけの簡単な土葬、よくて小墳墓、その近くに木製の供養塔をたてるのがふつうであった。ただし中世においても貴族や有力武士などの墓には石造の供養塔の一種「五輪の塔」がたてられたが重々しい石造の供養塔であるため、これを墓石としている。