2019年5月30日木曜日

モラエスさんのみた武家

2018311

 モラエスさんが徳島の随想を書いたのが100年前(正確には104年前大正3年)、江戸時代から明治に変わった明治元年はちょうど今から150年前である。ということはモラエスさんの時代から50年以前は江戸時代ということである。私も20代や30代の若いときは50年前・半世紀も昔というと、自分が生まれる前の大昔という感じがした。しかしジジイのなって50年前を振り返ると、その時私は高校二年生、記憶も鮮明に残っているし、その時の喜怒哀楽、感情の動きなども忘れてはいない。高校二年といえば体格や体力では大人、もう牛に踏まれたり馬にも蹴られたりはしない一人前である。ジジイになって50年をふりかえると50年前の高校二年の時のコト・モノなどすぐそこにあったような気さえする。

 大正3年、モラエスさんは私と変わらぬ年齢である。そしてモラエスさんの周りにいた徳島のじいさんはみんな50年前の江戸時代を身をもって知っている人ばかりである。モラエスさんの住む徳島は城下町であり元武家がたくさんいた。年寄りは昔の話が大好きである。特に武家は維新になって落ちぶれた人が多いため、元武家のお年寄りは、昔はこうだったが今は、というような話をよくしたに違いない。青少年期に武家の修身や教養で人格形成をしたため、今の教養人とは違った倫理観や人生観を持っていた人がまだ生きていたのである。

 モラエスさんは徳島のそんな武家のお年寄り2人を随想に書いている。一人は隣に住む元武士の74歳の老人とその家族である。

 「この家族は旧武士の74歳の老人、その妻、旧武士の息子、その妻と幼い息子、全部で五人からなっている。老人は彼の階級が消滅して以来、すなわち32歳以降、何の職業にも就いたことはなく、無為な生活を送っており、妻がなんとかやりくりしたりけっこうともいえない仕事をすることでやっと暮らしているということだ。現在家族全員を養っているのは町の小学校で教師をしている息子である。彼は月に18円稼ぐ。老人がその全額を預かり管理する。気晴らしに料理をし、皿洗いをし、植物の世話をし、あばら家のあちこちを素人大工仕事で手入れする。ときおり彼はきっと昔がなつかしいからであろう、ものすごいヒステリーに襲われる。その時にはどうしようもない手の付けられない狂暴な振る舞いに及ぶ・・・(彼の家族は)想像できる通り極めて質素に暮らしている。昼食はしばしばゆでたサツマイモだけ(この地方では琉球芋という)、アフリカ人の食事の方が私の隣の小学校一家よりずっと結構なものを食べている。」

 年寄りの頑固さ怒りっぽさはこの時代も今も変わりはないだろうが、支配階級だった昔の栄光から、落ちぶれはて、かといって今の時代に合わせて身を処していく術も知らぬため、新しい職業に就くこともせず、長年過ごしてきた元武士の老人はこの時代だけのものである。現代に生きる我々は、武士の矜持をもってかくしゃくとして清貧に甘んじながら生きる元武士、と美化して見がちだが、実際にそのような爺さんたちがまだ生きているのが大正3年である。その時代にあってモラエスが元武士を見る目は厳しい。

 武士階級は人口の一割未満であるが、それでもかなりの大人数である。維新後、以前のように支配層である役人になった武士もあったであろうが、それはごく一部、特に徳島藩のような外様では新政府の役人になれる人は少なかったであろう。よくて下っぱ役人か邏卒(巡査)、漢籍をよくしているものは教師という道もある、しかし、大部分は市井の人として生きる道を探さねばならないのであるが、「武家の商法」という言葉が残っているように失敗を重ね結局は無為徒食に落ちぶれる人が多かったはずである。明治政府は士族に対してごく初期には金禄を(元の一割くらいだが)支給していたがやがて打ち切る。しかし、四民平等と言いながら政府は「士族」として戸籍に書き入れる(銭がかからんからな)、結局、収入もないまま落ちぶれても、士族という身分はある。仕事もせず収入もないがプライドだけは有する貧乏士族が出来上がるのである。、モラエスさんの隣にいる老人はまさにその典型である。

 モラエスさんの隣の爺さんが(武士)『武士は食うわねど、高楊枝』といったかどうかはわからないが、収入がなく、ホントに食えなければ餓死するしかない、なんとか食っていけたのは妻が(おそらくは)武士の妻であるというようなプライドを捨て、いろいろな内職、賃仕事をこなし、また新時代に生まれた息子が安定した仕事に就いて親を養ったからである。でも息子が小さい時のコトを想えば、奥さんの負担はいかばかりであったろうと推察する。元武士のじいさんよりこの老妻の方が何層倍もえらい。(モラエスさんに言わせると武士の妻に限らず、当時の日本人女性はたいへん素晴らしく、伴侶としては世界一だと絶賛している)

 もう一つはやはり近所に住む元御殿女中だった老女とその兄のことである(彼女も武士の家のむすめであった)。彼女は(今は城山公園となっている)お城の御殿女中として仕えていた。封建制度崩壊の後、陸軍士官と結婚したが夫は戦死したという。その彼女のエピソードである。

 「さて、何日も雨が降り続きじめじめしたあと、からりと晴れた今日、善良な婆さんは縁側に干すことを思いついた・・・何をだと思うかね?ーーー素敵な軍服をだーーー私は見たのだが、夫の制服、ズボン、羽根つきの軍帽、そのほかの用具!感動的だとは思わないかね?・・・
 ついでながら、婆さんは現在、兄と養子と一緒に腐り崩れかけたあばら家にはなはだしい困窮のうちに暮らしている。
 兄は、私の知人たちは彼が腰に日本の刀をはさんだ堂々たる侍だったのを今でも覚えているそうだが、老いの手すさびに家に隣接する菜園を自らの手で世話をし、欲しい人に野菜や収穫物を売っている。二十歳ほどのすらりとした若者である養子は、中学校を落第し、かっての軍人寡頭制の怠惰と腐敗のしるしをその顔に刻みつけており、埃を払ったり、家を掃いたり、食事の支度をしている。婆さんは何一つしない。思い出と追慕にひたりきり、ひどくみすぼらしい着物に気品高く身をつつみ、夢に生き、何十年も前に戦死した夫の軍服をときどき虫干しする。・・・」

 ここでは元お城の御殿女中のお婆さんが昔の栄光を誇りに何もしないで暮らしている。家事も養子の青年にまかせっきりである。兄の爺さんのほうがまだ野菜などを作りそれを売ってわずかばかりの収入を得ている。

 両者に共通するのはあばら家に住みはなはだ貧しい暮らしをしていることである。維新前、商人だの職人だのと見下していた連中の方が今はむしろいい暮らしをしている。しかしご当人はそんなみじめな境遇も表面上、苦にしている気配はない、よく言えば気高く、孤高のうちに暮らしているのである。もと武士の誇りがそうさせるのであろうが、おそらく死ぬまでくじけずにその態度を通しそうである。(もう二人とも十分通して死ぬ直前まで来ている)。そう考えると「武士である」という誇りはいかに強固で永続したものであるか、まったく感心させられる。

 しかし、そのような生き方は武士として生きた時代があったからこそである。前者の爺さんの息子、そして後者の婆さんの兄の20歳になる養子となると、そのような時代を体験していない。爺さん婆さんが死んでこの世代になれば一般の下層民の中に溶け込み、元武士らしさはなくなってくるはずである。そう考えるとモラエスさんが徳島にやって来た時代は、まだそのような老人が生きていた最後の時代である。例えると、モラエスさんは珍しい種を求めて世界各地を歩き回っていて、たまたま東洋のある島に上陸し、絶滅寸前の貴重な種を辛うじて観察できた動物学者のようなものである。彼の元武士の人に対する叙述は日本人では見落としてしまいがちなことがかかれている。当時の地元の徳島の人(もちろん日本人)だと、このような客観的な見方はできまい。

 武士の時代の写真

 徳島の古い写真集を探しましたが、武家屋敷町や武士その人が写っている写真は案外少ないものです。その中から私が見つけて貼り付けたのは下の青年武士の写真です。撮影は明治3年です。まだ廃藩置県前で武士階級が名実ともに残っていた最後の時代です。

 左から二番目の青年武士、すごくイケメンですね。土方歳三の写真のイケメンぶりを上回りますね。でもこの青年、稲田騒動で若くして切腹します。もったいない!かわいそうに。でも武士の栄光の最後の光輝の中、切腹で死んだのです。残念ですが、大正三年まで生きていたらどうなったでしょうか、新時代を乗り切ってすばらしい地位に登っていたでしょうか、それとも、何もしないで無為徒食のまま武士の誇りにすがって生きた人生を送ったのでしょうか。(一番右の青年も切腹して果てました)


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