2019年5月31日金曜日

石造物の年号を頭から信用するのは考えもの

20180705

 あっちゃこっちゃの古い石造物を見て回り、古い元号の刻んである碑をみてそれが確認できたらうれしいものである。去年の今頃は眉山のふもとの古い墓石を見て回ったが江戸期の元号が刻まれた墓石がたくさんあった。古いものでも三百年あまり前なので石自体は風化が進んでいるが刻まれた元号文字などはしっかり読めて確認できる。確認しながら、あ、こっちの元号が古い、お、もっと古いのもあった。と、見て回ったおかげで元号の前後関係ばかりか西暦何年にあたるか、改元の年はいつで、何年続いたかも自然と覚えてしまった。

 最近はもっと古い鎌倉期の石造物を見て回っている。これも江戸期の墓石のようにくっきりと元号が刻まれていて確認できたらいいのだろうが、こちらはもっと風化が進み、元号が彫られているといった石碑でも素人目には確認しにくい。下浦駅近くにある石碑の『文永七年』は確認しやすかったが、同町内の一楽の板碑の『元弘八年』は読みにくかった。その場では確認できなくて高解像度で取った写真を処理して何とか自分なりに確認できたのはうれしかった。

 上で述べた鎌倉期の石碑はわが町内でなく隣町石井町にある。わが町内にも鎌倉期の元号の入った板碑はあるがこちらは極めて確認しずらい。わが町の鎌倉期の元号の入った板碑で最も古いのは石井町の板碑より半世紀も後の鎌倉末期の『元亨』の年号である。こちらも画像処理して何とか確認できないかとやってみる。しかし難しい。そこで学術書にあるこの板碑を参考に再び確認してみると
 元亨元年の文字の上の「元」と下の「元」が確認できる。「亨」の文字は上のナベブタ「亠」が確認できた。「亨」はどう見ても写真では確認できなかった。文字の相対的位置は学術書の写真の上部、梵字を囲んだ〇の位置から見てください。(クリックで拡大できる)

 石碑の元号は当然それが作られたときか、ジャストでなくてもその近いあたりの年月と思う。鎌倉期の年号が入っていればそれは鎌倉期にたてられたものであると信じるが、しかし、こんな例もある。先日、江戸期の伊予街道沿いにある古い石造物を見て回っていてこんな「庚申塔」を見つけた。見たところずいぶん新しく見える。それもそのはず、ここを通りかかった地元のお年寄りに聞くとつい数日前に落成したばかりだという。だが写真の年号を見てほしい。元禄四年となっている。これはどうしたことか。
 
 実はここには非常に古い庚申塔がたてられていた(古い石塔も敷地の隅にでも残しておいてくれればいいが見当たらない)。その庚申塔の年号が元禄四年だったのである。その庚申塔を地元でこの塔を信仰する人々が更新したのである。信仰の対象となった古くからの石造物であるので新しく作られても元のままの年号元禄四年と入れたのである。元禄四年とは今から約350年も昔である。こんなピカピカの御影石の庚申塔をそのまま元禄四年から存在する塔と今はだれも思わないだろうが、これがまた350年くらいたつとどうだろう。今の位置にたっていれば事情を知る人もいるだろうが風水害天変地異などによって流され埋もれ、後に発掘されたらどうだろう、充分古くなった石造物とみられ元禄の年号も信用されるかもしれない。
 本当に作られた年と記入された年号の違いはないのだろうかと一応は疑ってみる必要はある。

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