2019年5月31日金曜日

眉山山麓の幻の名水跡

20180520

 以前モラエスさんの徳島の日常生活の随想の中で、徳島市は上水(大正5年現在)もないし、庭にある井戸の地下水は塩水が混じっているため飲料には適さない、そのため各家庭は水売りから水を買って台所の大甕にためて使っていると書いている。その水は何処から供給しているかというと、眉山山麓の麓から流れ出る谷水、又は岩の割れ目から流れる水、窪地に湧く泉である。

 しかし平成30年の今、その水の供給源は宅地化の影響や砂防ダムの建設などにより、枯れるか埋め立てられ多くがなくなった。辛うじて残るその供給地は『○○水』(一字に龍の字がついている場合が多い)として名水指定され、人々が水を汲みに出かけている。これについては私のブログで何回か取り上げた。

 明治大正時代には現代に残る名水の幾倍かの名水が眉山山麓の至ることろにあった。しかし今その跡(水売りがいたときの飲料水供給地)は宅地が広がったり、砂防ダムが作られたり、谷の斜面の護岸をしたりで、消えてしまい、ここが水場であったという雰囲気も消えてしまっている。眉山山麓を歩いても見つけることは困難である。

 昨日、その幻の名水を見つけるというような目的でなく、眉山山麓をただそぞろに散策していたら、こんな昔の名水跡を偶然見つけた。場所は金毘羅神社の奥手に周り、忌部神社の裏参道の石段を横切り、観音寺の上の方の山道へ出ることろで見つけた。

 古い石碑なので、刻んだ文字が消えかかっているが『清龍水』と読める。年号は辛うじて、明治四年と読める。この石碑が建てられた明治頃にはここに清龍水と名づけられた名水があったのである。

 しかしまわりどこを探しても、ご覧のようにどこにも水の流れ、あるいは湧き出ているところはない。

 このあたりは眉山山麓の谷筋にある、だから大昔、ここに水が流下していたのかもしれない。少し行くと古い立方体形のコンクリートの上水漕があるから(でもあまりにも古く廃止されていたような雰囲気だった)、後に筧(かけひ)を無くしたとき、このような簡易上水施設を作ったのかもしれない。もちろんこの時点で名水の場所の価値は(囲い込まれ槽にされたため)無くなったに違いない。

 そこから下に下りると古い墓地を通って観音寺でた。さがせば他にも消えてしまった名水跡の石碑が残っているかもしれない。


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