2019年5月30日木曜日

昔は二軒屋に木賃宿があった

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 江戸時代の木賃宿

 百年前のわが県庁所在地は人口約7万、河口の洲が陸化した川中島や埋め立てたデルタ上に藩政時代にできた城下町である。だから伝統的に屋敷町(上中層の武家屋敷)、下士層の住む町、商人街、職人街、と町割りが区切られ、そこにどのような人が住むかも決まっていた。今でも、紙屋町だの紺屋町とかの町名が残っているがこれは商人街、そして伊賀町、鷹匠町とかは下士(下層の武家)が住む町であった。

 城下町の中心は当然、城であるが、沖積層の形成によって、昔は島であったであろうデルタ上にポツンと残された小山にその城はある。その小山に城を築けば、周りが蜘蛛の巣のように網目状に流れる川に囲まれた川中島やデルタなので、その水路を利用すれば掘割作りも容易だし、また城および城下町に直接水運で物資の輸送ができる。

 まず小山に城を築くことから始め、その外郭に武家の屋敷、そして寺町(防御の目的もあった)を配し、それから町屋や職人街、そして下士の屋敷地などの地割をした。商人街は身分上、城下を同心円状に考えると、一番外側じゃないかと考えられようが、そうでもない。城に隣接する南側は商人街である。江戸でも日本橋の町人街は江戸城のすぐ近くである。

 藩政時代の城下町はこのように身分職能によって住む町が整然と区画されていた。さて、そのような町家で貧民街というようなものは存在したのか。答えはノーである。城下町は、武士、下士、そして町人(商人、職人)、そして街中の寺社の僧神官が決められた場所に居住しており、その日暮らし、あるいは生活に困るような人々が住む余地などなかったのである。

 しかし、これは建前、実際には家も持たず、その日暮らしの貧民が街中で暮らしていたのである。そういうと、江戸の職人で長屋暮らし、いわゆる九尺二間の長屋暮らしがそうではないかと思われようが、この人たちは借家暮らしとはいえ、立派な町の構成員、末端の行政権を持った土地持ちの『町人』でこそないが町の一員である。貧民窟の住人とは違う。

 ここでちょっと考えてみよう、幕府や藩は町への流民を禁止していたが、もしこれが、「いえ、わたしは流民ではございません、一時的な旅行者、あるいは一時的な滞在者です」といえば、そんな人まで排除はできなかった。そんなひとが町へ来たらどんな所に居つくか、宿屋街である。それも高級なものではなく、木賃宿である。そこで江戸とか大坂のような大きな都市にはそのような人のために木賃宿の集落ができる。最下層の仕事ではあっても都市にいる限り、何らかの仕事はある、願人坊主、零細な小売、行きずりの路上で芸を見せてわずかな金をもらう、そして乞食も立派な職業である。そんな人が木賃宿を長期の定宿として暮らしているのである。

 木賃宿というからは期間を限った滞在と思われようが、そうではない、あまりにも貧乏過ぎて、まとまって月ぎめの家賃を払えないから、木賃宿で、毎日、一泊の日銭を払うのである。空間は畳一畳、布団もあるがこれも日貸しの銭を取られる。

 江戸時代の大坂でこのような木賃宿街だったのが、長町(今の日本橋を渡り、南に向かってずっと細長く伸びていた町である、そのために長町といったのかもしれない)である、この長町、日本橋に近い方が(つまり北)割と普通の宿屋(東海道中膝栗毛の弥二さん喜多さんも長町の宿に泊まっている)、南へ行くほど、木賃宿、日貸しの部屋(部屋というより区切ったボロッタァ~の鶏小屋と見た方がよい、わずか三畳しかない)が多くなり貧民窟の様相を呈してくる。

 さてそこで百年以上前のわが城下町徳島である。明治末年から大正までは前にも書いたように比較的職能別の町割りがこの徳島の町でも残っていた。そんな中で、貧民の屯するような木賃宿になりそうなところは大坂の長町のように、区画から外れた域外との境である。

 徳島の古老たちは、勢見山までが徳島の町とよく言っていたのを聞いたことがあるが昔はこの辺りより南は域外と認識されていた。今の二軒屋町である。ということはこの二軒屋が城下町と域外との境、ということはこの辺には木賃宿が多くあったのではないかと調べるとやはり、ありました。

 賀川豊彦の小説『死線を越えて』を読むとこの二軒屋に貧民が集まった木賃宿が出てくる。主人公が親に反抗し、ドクレて家出する。散々さまよった挙句、町屋が尽きる(ということはここが二軒屋)ところに木賃宿を発見し、そこで一晩泊まるのである。詳しくは小説を読んでほしいが、幾人もの貧民の描写が見られる、乞食の親子が出てくるが、乞食といっても、ここは四国である、「ナムナム~、ミョウホウレンソォ~」とかわけのわからぬ呪文を家々の門口で唱えても、主に米だが御喜捨がある。それが一日一升数合になるそうで、それを米屋に売れば結構な収入になると、何も知らない主人公は木賃宿の主人から教えられる。

 すざまじいのは、子供相手の飴売りである。これ以上、きちゃなくなりようがないほどの襤褸着をきて、顔や手足は汚れでマツカサのよう(よ~そんなんで子供相手の飴屋ができると思うが、それはそれ、やっぱり保健所のような気の利いたもののない大昔のことやから、おもちゃのおまけつきの飴に子供も寄ってきたのだろう)、匂いもすごいので主人公は近くへ寄りたがらないが、なんと、自分の体に巣くっているシラミが血を吸って、麦粒くらいになったのを捕まえて、パクリと食べるところがある、ちょっと信じられないような描写だが実際の写実に基づいて書かれている。

 もう一つの小説の描写は林芙美子の『放浪記』である。原文を抜き書きしてみよう

 『 ・・・屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれ、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。
 泊る客もだんだん少くなると、母は店の行灯へ灯を入れるのを渋ったりした。
「寒うなると人が動かんけんのう……。」

 しっかりした故郷をもたない私達親子三人が、最後に土についたのが徳島だった。女の美しい、川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は一年徳島での春秋を迎えた事がある。
 だがそれも小さかった私……今はもう、この旅人宿も荒れほうだいに荒れ、母一人の内職仕事になってしまった。』

芙美子親子はこの二軒屋で木賃宿を経営しているが、芙美子親子自身全国を放浪し、木賃宿をねぐらとして世渡りをしてきたある意味、由緒正しい貧民である。その芙美子親子が木賃宿を経営している、貧民から抜け出せたのであろうか。もうこのころは昭和となっており、少しは木賃宿も改良が進んだのであろう 『死線を越えて』のような貧民たちのすざまじい描写はない。しかし古ぼけて客も入らぬ木賃宿では芙美子も客であるその日暮らしの貧民と変わらぬ生活をしている。(このあと結局、宿経営もうまくいかずまたほかの地方へ流れていく)

 この場所は二軒屋のどのあたりかわかっていて、今、ここが昭和のはじめ頃の林芙美子はんのその宿でっせぇ、と碑が立っていて、我々にその位置を教えてくれている。見えにくいが時計店の看板の下に「林芙美子放浪記の舞台」との木製の碑が立っている。

 今はこのような大通りになっていて、昔のように二軒屋は街はずれではない、そして木賃宿どころかホテルや宿も今はない。

 南二軒屋へ抜ける(おっぱしょ石のある方)山沿いの道のほうがどちらかというと昔の二軒屋の面影が残っているような気がする(?)


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