2019年5月31日金曜日

旧伊予街道鮎喰から石井まで

20180710

 長く降り続いた雨も昨日からは真夏のような晴天になった。関東甲信越は早くから梅雨が明けていたが四国の梅雨明けはどうなったのだろう。、もうあけてたのかな、とおもったら今日、四国地方の梅雨明け宣言だ。

 昨日の続きで旧伊予街道のつづきを鮎喰川堤防から始める。今は鮎喰川は立派な橋が架かっているが江戸時代の鮎喰川には木製の橋もない。伊予街道は前のブログで紹介した六十六部大権現のある場所を降りたところに渡船場があり、船にのって向こう岸にわたった。ここの渡し場は亀の胴といわれ、昭和初年ごろには渡船のため作られた石の構築物が残っていたが、今は旺盛な繁殖を示す竹藪に隠されて消えてしまっている。

 対岸の国府川の河原から渡船場のあった亀の胴と言われるところを撮影する。


 船から上がったところにあるのがこの地蔵尊


 ここから旧道を行く。天狗久のある国府の町並みから一本南に入った道が、古い伊予街道となる。この道は大御和神社前で遍路道と一緒になる。


 舌洗い池を右に見てなおも進み


、南バイパスを横切り、西へ行くと国分尼寺の遺跡ある。この辺りで低い山にぶつかる。小山と小山の間を旧伊予街道は通っている。


 なぜ山を迂回して平地を通らないのか、下の鳥観図を見てほしい、旧伊予街道は黄色の線である。わざわざ(低いが)山を越えることになる。それよりか赤い線の(現在の車道はそうなっている)道を行くと平地ばかりなのでずっと楽なように思うが・・・・・


 実はこの赤い線の場所は平地だが昔は低湿地または沼沢、河川であったと考えられる。河川地、沼地、泥土で水生植物が茂り、通行しにくいところであった。それより山道だが水はけのよい乾燥した石道がずっと通りやすいのである。そこで伊予街道はここでちょっとした峠を越えるようになっているのである。

 ただ上の鳥観図をよく見てほしい。今は車を通すため切通になっているが、旧伊予街道はその切通(道が白く見えている)の少し上を通っているのである。今はこの道は廃れて藪が生い茂りほとんど人は通れなくなっている。しかし、ここは鎌倉初期に山城(鳥坂城)があったところなのでたまに歴史好きの人が通る。かくいう私もその一人、その時はなぜ、こんな人の通らないところに、江戸時代の年号の刻まれた立派な地蔵尊や碑があるのだろうと疑問に思ったが、なるほど、こちらが鳥坂越えの旧道だったのである。

 今はほとんど人が通らず、藪に消えそうな山道に江戸期の地蔵や供養塔が立っている。


 鳥坂越えをしておりたところに地蔵尊、供養塔、消えてわからなくなった石碑などがある。この前を旧伊予街道は通っていたのだ。


 そこからしばらく西に向かっていき、白鳥神社を左に見るあたりで再び国道と一致する。


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