2019年5月30日木曜日

徳島の武家屋敷

20180310

 徳島市は城下町から発展した町である。しかし、その城下町たる遺物となると他の城下町に比べるとはなはだ貧弱である。まず城下町のシンボルである城であるが、石垣は残っているものの天守はおろか櫓の一つもない。武家屋敷もほとんど残っていない。空襲にあったから、という説明もされるが、城下町で空襲にあった町は多い、しかしそのように空襲で荒廃した城下町であっても昔のように天守閣や武家屋敷を復元して歴史的風致地区として蘇らせているところもある。しかしわが徳島は・・・?
 徳島に住む歴史ファンとしては残念である。

 そのほとんど残っていないといわれている武家屋敷の中にあって、公式認定されている(もしかすると市内ではこれが唯一かも知れない)武家屋敷に今日見学に行ってまいりました。正式名称は『武家屋敷原田家住宅』。住宅といっても今は文化財になっているので誰も住んではいません。また、この屋敷はお城の御殿に咲いていた早咲きの『蜂須賀桜』を拝領し、それを植え守り育て今日に伝えたことでも有名です。そのため毎年、蜂須賀桜が咲くころに一般公開されています。

 屋敷の玄関付近


 現在は徳島のあちらこちらで蜂須賀桜を見るようになりましたが、元はこのお家の桜の木がルーツの木です。お庭に大きなこの蜂須賀桜の木があり、ほぼ満開の花を咲かせておりました。


 裏庭も花木のほか大きな自然石も配置して立派です。

 お家の中も見学できるので入ってみましたが、中はどの間も大勢の人であふれかえっています。最も広い座敷もいっぱいで床の根太が折れるんじゃないかと心配するくらいの人人人です。みんな座って有料で出されている抹茶やぜんざいをズーズー啜っており、中の写真を撮るのはひかえました。

 この原田家の武家屋敷の当主(江戸時代の藩士)はどれくらいの地位にあった人でしょうか。屋敷を見ましたがそのような説明板が見当たらなかったのでわかりませんがお屋敷の大きさから推測すると・・・

 まずこの原田家の家の見取り図


 これを幕府直臣の屋敷の規模と比べてみます。幕府と藩では職制が全く違うため、職制での比較はできませんが、知行・蔵米取の俸禄米で比較すれば、幕府でいうとどれくらいの知行取であるかわかります。まず家の大きさからみて旗本クラスではないですね。おそらく100石未満か、100表以下の御家人クラスじゃないでしょうか。それで同じような幕臣の屋敷規模を見ると、下のような御家人(御徒)、具体的には70俵5人扶持クラスの屋敷ですが、これが原田家の屋敷規模とよく似ていますから俸禄米規模はこれくらいじゃないかと推測します。徳島藩では決して下士(幕府だと70俵では下士だ)ではありません。中士の範疇に入るんじゃないでしょうか。 (今、ネットで調べると母屋は移築したもので、主屋は上級武士の家とありました。え、上級武士?それはちょっと?貧弱でないかい、もしかすると隠居とか・・・、上級武士でこんなもん?これだと郡部の庄屋のうちの方が立派じゃが、ホンマか)


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