2019年5月31日金曜日

むかしの江川

20180608

 新開地はその名が表すように新しく開けた町である。どのようにして?それは河原の宅地化によってである。都会の小河川の場合は全面的に埋め立てたり、暗渠にしてしまったりして地上からはなくなる場合もあるが、鴨島の江川は小河川ではないので川そのものをなくすることはできない。それで河原を宅地化し、川自体を狭めたのである。そして新しく宅地化した場所を「新開地」としたわけである。

 大正期の新開地の様子が写真や地理院の地図で残っていればよいのだが、探してもなかったので三十五年前に古老の書いた絵地図を見るとこのようになっている。矢印の南北道路は現在鴨島西第二踏切の南北の道路とほぼ一致する。

 今現在の写真、絵地図で言うと下(南)から上(北を見ている)。川に向かって道路が下がり、橋を過ぎるとまた上っている。昔の江川の堤防の跡はなくなったが高低差は残っている。
 写真1
 こちらは上(北)から下(南)を見ている。
 写真2
 絵地図で見る江川の堤防跡は今は残っていないが堤防跡は今はだいたい東西に走る道路となっている。ところどころ急な坂になって昔の堤防跡がしのばれる。昔の絵地図の堤防跡で今に残る急な坂を探して写真を撮ってきた。昔の絵地図で言うとこの辺り。今は中学校の西を走る道路の北と南の部分になっている。

 坂道写真1
 坂道写真2
 この絵地図(大正時代)で唯一残っているものは北の堤防上にある石灯篭である。現在は二度移転して江川新橋の北詰にある青柳(飲食店)の東にある。

 このように江川堤防や河原もなくなり狭まったが、比較的昔の広い江川の様子が残っている場所もある、中学と吉野川医療センターの間の江川である。河川敷も広く、灌木や雑草が生い茂り昔の江川をしのべる。

 昭和の初めころの江川、まだこのように広かった。

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