2019年5月31日金曜日

わが町の鎌倉時代 麻植保その2

20180629

 中世荘園の一つ「麻植保」は今日の鴨島市街中心地からみると南の方、四国山地のすそ野の方にかたよっている。それもそのはず、古代中世の鴨島の中心市街は暴れ川である吉野川の支流がまるで蜘手のように流れていて、近世になって大規模な堤防工事などで吉野川の主流を変えたり小河川をまとめたりして、沖積平野を排水、乾燥化しないことには、とても宅地や農地になるところではなかった。

 中世の大河である吉野川はおおむね現在の江川の流れの筋が主流であったと考えらるが、洪水のたび、流路は微妙に変わり、多くの支流も流れる筋がたびたび変化した。そんな支流が網の目のように流れる低湿地はいちめん水田に向いているように見えるが、洪水ごとに水浸しになり、頻繁に流路が変わる河川の低湿地は中世の土木技術ではどうにもならなかったから、水田にできるような土地ではなかった。


 そのため古代や中世のように大規模な土木工事を行えなかった時代はわが町の南方、四国山地の谷あいから流れる川を水田の灌漑に利用した。その谷川の水が平地に出たところの扇状地や洪積平野(比較的高い台地上の場所)などでまず水田の開墾が行われたと思われる。谷川を流れ下る小河川のため治水がしやすく、高地から階段状に水田を段々に作れば山の谷川の水を自然に落としながら水田の用水として利用でき、灌漑水路も小規模のもので間に合ったからである。だから中世にはこの辺りの農業生産性(米作中心)が高かったのである。ここに中世荘園「麻植保」があったのも頷ける。

 今でも当時とあまり変わらない地形や農村風景が広がっている。広く開けた谷に水田が広がる。


 少しずつ段差をつけながら水田が谷の下流に向けて広がる。


 動画


 前の『麻植保1』のブログで荘園麻植保の保司あとは春日免のあたりであるという一説を紹介したが、ほかの説では春日免よりもう少し高い場所の「壇」(地名)にあったのではないかともいわれているがこの「壇」はこの写真に撮ったことから少し西によったほぼ同高度の場所にある所で、康頼神社がある。ここには樹齢1000年を超える大クスがある。この大クスが人のように見聞きし、しゃべることができれば生きた歴史の証人になるのにと思うが。

 康頼神社の説明板(詳しくはまた次のブログで)


 樹齢千年を越える大クス(壇の大楠と名付けられている)


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