2019年5月30日木曜日

咲く花の にほふがごとく今盛 りなり

20180424

 先の土日に奈良に行ってきたが、古い都あとは今藤の花が真っ盛り。それを見ながら奈良時代における藤原氏の繁栄に思いをはせた。その氏族名からもわかるように藤原氏のシンボルの花は「藤」、家紋が生まれるのはもっと後だが、中臣鎌足が天智天皇から藤原の姓を与えられた時から藤はこの氏族を表す花となった。後世の姓で、藤原以外でも、近藤、斎藤、内藤、権藤、安藤、遠藤などなど藤の名前の入った姓は多いが、これらの家の家紋も藤の花をデフォルメしたものが多い。これらの姓は祖先をたどると藤原氏に行きつくといわれている。このように藤の名の入った姓が多いことからもわかるように藤原氏を遠祖とする一族は大いに栄えている。

 古代氏族の中では藤原氏は新興の氏族である。それよりもっと由緒のある大きな氏族が奈良時代以前からあった。天皇家とも姻戚関係を持っていた葛城氏、物部氏、蘇我氏、大伴氏などである。だが時代が進むにつれそれらの氏族は没落していった。それと反対に台頭してきたのが新興の氏族藤原氏であった。そのきっかけとなったのはいわゆる「大化の改新」(今では乙巳(いつし)の変と言われている)で中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて蘇我政権に対するクーデターを成功させたことにある。この功により鎌足は藤原の姓を授けられ、天智天皇、そして鎌足の息子である不比等は弟の天武天皇の政権に参画し、勢力を伸ばすのである。

 平城宮が営まれたのは710年から784年までの約三分の二世紀間であるがこの期間は藤原氏が他氏族や藤原氏と関係の薄い皇族を蹴落とし、第一の氏族にのし上がっていった時期ともいえる。その勢力拡大のツールは武力によるものではない。では陰湿な陰謀によるものか、と問われる。確かに陰謀という手段を用いたこともあるが、それが主ではない。藤原氏が勢力拡大に使ったのは律令国家の仕組みである。藤原不比等などは律令制度のエスタブリッシュメントと言ってよいほど律令に精通し、その仕組みの上にのって合法的に勢力を拡大したのである。それに加えて勢力基盤を確かなものにしたのは天皇の後宮に娘を送り込み天皇の夫人としたことである。聖武天皇の夫人となった藤原光明子は「皇后」に冊立されることにより、藤原氏は朝廷第一の氏族としての地位が確立したといってよい。

 藤原氏の全盛時代はこれより250年もあとの平安時代の藤原道長の時であるといわれているが、この平城宮の営まれた時代には朝廷の第一の氏族としての勢力はすでに確立していたのである。その古都奈良には藤原氏の氏神をまつる春日神社があり、氏寺には興福寺がある。

 その氏神である春日大社の本殿前の藤棚の藤の花は今真っ盛りである。そして本殿を通してみる春日山の御神域の木々には藤蔦が絡みついており、やはり野藤が満開である。

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