2019年5月30日木曜日

海に面しているわけでないが平城宮跡で遣唐使船を見たこと

20180426

 4月21日奈良平城宮跡で遣唐使船を見たこと

 平成の御代において中国への旅ならば格安ツアーで行けば5万円台からあります。もちろん安全な飛行機で一っ跳び、数時間の旅でしょうか。こんな旅ならほとんどの日本人は行こうと思えば難なく行けます。中国どころか地球の裏側だろうが果てだろうが、銭と暇とその気さえあればどこへでも行けます。
 しかし時代は平城宮の営まれた時代、8世紀のことです。手ンごろ易く海外に行くことは大変難しい時代です。いっちょ近い海外は朝鮮半島にある新羅ですが、貿易はともかく、文化の面でいやぁ、あんまし学ぶところはない、一番見たい、勉強したい国は当時の世界を広く眺めても「大唐」、大難を侵してまで生きたい国は中国。唐ってあの世界史で確か習ったあの「唐」のこと?そうその唐です。唐の時代っち言やぁ、日本史の時代だと、飛鳥時代から~平安中期までにわたります。そんな大昔のこと、もし日本から唐へ渡ろうとすればずいぶん大変ことだろうと予想されます。
 旅行社もない時代、いったいどんな便を見つけて行くんじゃろ?漁船?まさか!じゃあ商船?おいおい!8世紀に中国大陸と日本(いっちょ近い九州でもかんまん!)の間に貿易なんてあったのかしらねぇ?どうじゃろ、わからん!が、そもそもそんな商売の便じゃない。日本という国家が組んだ大プロジェクトの便なのです。
 これも世界史で習った記憶があるでしょう。そのプロジェクト名は『遣唐使』です。目的は外交(中国からすれば朝貢と見るんだろうな)だけでなく、唐の進んだ制度や文化、仏教をお勉強し、それを日本にもたらす留学生、留学僧の派遣、そして唐の文物の輸入です。そのためだけに国家によって計画され仕立てられた事業なのです。
 中心となる正使、副使がまず任命され、数年かけて派遣される組織が作られます(留学生、留学僧もその時選ばれます。もちろん最優秀で若く体力のある者です)。そして船もそのために造船されます。船は4隻と決まっています。そのようにして遣唐使は第一回が派遣されたのが630年、それから894年に正式に廃止されるまで20回近い遣唐使が派遣されています。
 さあ、正使、副使も決められ組織も整い、新造船も4隻でけた。船の旅は楽じゃわ!じぇんじぇん歩かなくていいもんな。船酔いするかもしれんが、ま、しゃあない、慣れななぁ~、それにしても船の上の旅、何日くらいで日本の最西端(九州博多か五島列島あたり)から大陸(どこにでも着けたら、あっちは広い国だものどこもかしこも唐の国土じゃ)まで何昼夜かかるんやろ?江戸時代の中国ジャンク船なんかはスイスイ行けたら3か4昼夜くらい、という記録もありますが、古代の船で帆も発達してないし、だから帆走できない時は水夫の手漕ぎなんかで補うから、順調にいっても7昼夜くらいはかかっただろうと思われます。
 でもまあ甲板にでも寝っころがって喰っちゃ寝で・・・・・・何日かすごし、ある朝目ぇ覚ましたら唐じゃ、って、そんな安穏なものやおまへんで!19回の遣唐使の記録を調べて、ぞぞぞぞぞ!!!もう半数くらいの人は海の藻屑!海難、事故率は驚くべき高さ。まず海難、事故にあったら助かる可能性は非常に少なくなります。正使や副使は都の貴族が任命されるのですが、自分から行きたいと思う人はまずいません、任命された時点で生きては帰れないことを覚悟しました。でも任命されたらしゃあない、でも、この19回遣唐使の副使に任命された小野篁はんなんぞは自分に割り当てられた船が気に入らん(ホンマは行きとうなかったんやろな)っちゅうて、ブンむくれて行くことを拒否しました。おこった朝廷は罰します(平安初期から末期まで刑罰に関しては全くいい時代で日本には死刑がありません)、で、島根県・隠岐の島へ流罪、でも海で死ぬよりよかったでんなぁ~小野篁はん。
 こんな死亡率の高い遣唐使船ってどんなのよ?オスプレイが事故率が高くて飛ぶ棺桶だの未亡人製造機だのと陰口叩かれてますが遣唐使船に比べればその事故率なんか低いもの、オスプレイの事故率を一万倍以上にしたのが遣唐使船の海難・事故率です。いったいどんな恐ろしい船だったのか。その船を見てみましょう。当時の遣唐使船の様子がよく描かれているといわれている「東征伝絵巻」より

 
 そして「吉備大臣入唐絵巻」からは
 なんか、優雅な船のような気もしますが、優雅だけじゃ困る。船上に楼閣や屋根付きの家がのっているのはどうなんでしょうか?素人目ながら重心がずいぶん高くなって不安定な気がします。この当時の船の構造を調べますと竜骨がなく、復元性、安定性はよくありません。また板の寄せ集めのような構造の船だったので耐波性もよくなく、嵐、大波でバラバラになる可能性があります。まさに時の運でたまたま10日位の間に嵐がなく、波も静かでその間に何とか大陸に着けば・・・というもの。ほとんど命を懸けた博打ですね。
 でもどうしても小嵐や中波くらいには逢います(大嵐や大波だとまず船が解体、全員死に絶えて記録も残せない)。小嵐や中波でも遭難します。上記の東征伝絵巻にも吉備大臣入唐絵巻にもどちらにも遭難の図が出て来ます。
 
  なんとか流れ着いたがはたしてこれ中国大陸だろうか?
 こんな船旅、誰も嫌ですよねぇ、しかし国家が任命した正式使節、内心嫌と思っても喜んでいかにゃいけませんよね。でも嫌な人ばかりじゃありません、そんな人は使節や遣唐のお役人より、留学生や留学僧の中に多かった。命を懸けてまで、唐の進んだ文化、学問、仏教などを学びたいと強く思った人もいたのです。
 いよいよ出発です。遣唐使船の航路は大まか3通りありました。図を見てください。
 できるだけ海路を短くと考えれば北路をとり朝鮮半島沿いに行くのがいいのですが、この19回遣唐使は一気に東シナ海を横断する南路を取ります。順風が吹いて波が穏やかだともっともはやいコースですが・・・・・  平城宮の営まれた時代、往路は上図の南路をとった場合が多く、帰りは南島路、北路もとって帰ってきています。

 その遣唐使船、上の絵巻物や写真で見たことしかなかったのですがこの平城宮跡でようやく実物の遣唐使船を見ました。この21日、散策した後、朱雀門の近くのレストランで昼飯をたべたのですがその横に池があって中に実物大の遣唐使船が細部にわたって再現され、展示されていましたので見学してきました。


 船べりを見るとテラスのようなものがあります。その下に竹の束が結わえてあります。これは帆走できないとき(竜骨もない、三角帆もない、竹で編んだ屏風のような帆では、順風以外は帆走できにくい)、このテラスの上に人が立って長い櫂を使い漕いで船を進めるのです。下に吊るしてある竹の束は補修材(帆布でなく竹で編んだ帆だから竹が材料となる)として、また遭難時の浮きとしても使われたと思われます。


 映画「空海」より(1984年公開)


 艫の舵


 甲板上に三つの部屋があるが真ん中は火を使う「賄い部屋」である。そのほかの部屋は動画をご覧ください。


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