2019年3月27日水曜日

向麻山の枝垂れ桜

向麻山の枝垂れ桜、まだ若干早い気もするがご覧のようにほぼ満開の豪華なピンクの滝のような枝垂れ桜が見られる。




2019年3月22日金曜日

春の彼岸

 昨日、切幡寺に行ってきた。朝は雨がパラついたものの昼からは気温がぐんぐんあがりほとんど初夏のような陽気になった。おかげで切幡の坂で汗だくになった。

 上る途中、山間に切幡寺の大塔が見えている。

 山門まで行ってそこで合掌、上にはいかなかった。

 今日は一転、十度以上気温が下がり、曇りのうすら寒い日となった。

2019年3月13日水曜日

3月16日、列車ダイヤ改正で本数減らされる

 車に乗るのもやめて8年目、どこか行きたいところには自転車かうんと遠い場合は汽車にしている。その汽車も田舎の大赤字線であるため本数は少ない。だいたい一時間に一本あるかなしである。ところがその少ない本数が三日後の16日にまた少なくなる。以前より二本、午前八時台と午前十一時台が減らされる。他の牟岐、鳴門、板野線でもおなじようだ。ますます不便になる。奇しくもこの16日はワイの誕生日、歳ぃいくとなんもかんも不便になるわ。そのうち歩くんも不便になるやろな。

 ヤフーブログでアップしていたワイの小学校低学年時のウチンくの近くの写真、消えるかもわからんのでここにもう一度貼っておく。なつかしい写真だ。

まず、我が家のすぐ近くにあり、毎日見なれた『有楽座』。でも私が小学校三年の早春頃(35年)全焼してしまった。

次は鴨島駅前風景、小学校の帰り、ここをよくとおった。なぜならここに『紙芝居屋』のおじさんが来ていたからだ。この紙芝居屋、自転車の荷台に引き出し式の駄菓子の箱と紙芝居の木のフレームを固定してあり、紙芝居を見せながら、子供に駄菓子を売るのが商売であった。70歳以下の人はこんなの知らんでしょうなぁ~~。
2枚続き。下は上の写真の右側続き。今でも同じ位置にあるのは四国銀行のみ。


そしてこの当時(テレビなどはまだ普及してない!) めったにつれては行ってくれない娯楽が『映画』(さすがおいらの時代はもう、活動写真とは言わなかった)何かの拍子に連れて行ってもらえるときは前日くらいからうれしくてウキウキしたものである。
 その映画館、鴨島には2軒、多いときは三軒あった。その中の一つ『文化座』、子供料金15円で入ったのを覚えている。



2019年3月12日火曜日

文学賞、映画、翻訳、雑感

 今年の話題の映画に『天才作家の妻 -40 年目の真実』というのがある。一月から封切られているので多くのシネコンでは今はもう打ち切られており大都市の周辺館で若干まだ上映しているのみである。だからDVDリリース解禁も近いだろう。そうなれば借りて鑑賞しようと思っている。少し紹介すると次のようなあらすじである。

 『現代文学の巨匠ジョゼフ(ジョナサン・プライス)と妻ジョーン(グレン・クローズ)のもとに、ノーベル文学賞受賞の吉報が届く。ふたりは息子を伴い授賞式が行われるストックホルムを訪れるが、ジョゼフの経歴に疑惑を持つ記者ナサニエル(クリスチャン・スレーター)から夫婦の“秘密”について問われたジョーンは動揺を隠せない。実は若い頃から豊かな文才に恵まれていたジョーンだったが、あることがきっかけで作家になる夢を諦めた過去があった。そしてジョゼフとの結婚後、ジョーンは彼の“影”として、世界的な作家の成功を支えてきたのだ。
 ずっと心の奥底に押しとどめていたジョゼフへの不満や怒りがジョーンの中でわき起こり、長年共に歩んできた夫婦の関係は崩壊へと向かう。そして授賞式当日、彼女はこれまで通り慎ましく完璧な“天才作家の妻”を装うのか。それとも本当の人生を取り戻すために、衝撃的な“真実”を世に知らしめるのか……。』

 あらすじでは映画の結末は「・・・。」とぼかしてあるが、実は私もその結末は知らない。ノーベル文学賞を受賞予定の天才作家の対するある疑惑をモチーフとした映画であることはわかっている。各種の文学賞は日本でも海外でも多くあるがノーベル文学賞は当然ながら世界で最も権威のある賞である。その賞に対する疑惑とは?果たして彼(主人公)にもらう資格はなかったのか(奥さんが作品に実質寄与したことを匂わせているから)?、またその受賞を与えるノーベル文学賞委員会側の選考課程に不条理、不正はなかったのか?疑惑が公になったとき受賞者、その家族、主催者はどのようになったか、そしてエンディングは?興味をそそる作品である。そのためにDVDリリースを待っているのだ。

 物理、化学、生理医学賞などの自然科学系のノーベル賞に比べると文学賞は対象が文学であるだけに客観性に欠けるという批判は前々からある。平和賞ほどではないにしても、何であいつが?と陰口をたたかれる受賞者もいたことは事実である。また選考にあたって出身国が連年重ならないようにする配慮はご存じのとおりである。小国のように大文豪が少ない場合は選びやすい。またその国の言葉・文化を背景にしているため言葉・文化が違う他国が文句を言うことはあまりない。しかし日本や米英のように文豪がたくさんいる国に対してのノーベル文学賞授与はちょっとした騒ぎをもたらす。国内の多くの文豪の中から一人選ぶとその人に対していろいろ言われることが少なくない。こっちの文豪がすぐれているのになしてあんな奴がもらうんじゃ、とかそもそもアイツの作品なんどに文学賞に値する価値などない、と全否定する人も出てくる。

 日本では今までノーベル文学賞を受賞した文豪は2人いる(出身国で分類するためカズオ・イシグロを日本に入れる場合もあるが彼の作品はネイティブの英文学作品なので日本には入れない)。名前はあえて言わないが初の日本人受賞者に対しては大方の人は納得しているが二人目の受賞者に対しては発表された当時から、なしてアイツがぁ~、もっとふさわしい人がおるやろバカたれ!とか、あんな妙な文体で表現力もずば抜けて突出してるわけでないしノーベル賞なんかにまったく値せん!とバッサリ切り捨てる人もおおかった。もちろん当時の一流の文学者はそんなことあからさまに言って非難したりはしないが、その文学者の批評を読むとその端々から、あ、この人、この受賞を妥当だと評価してないわ、とわかった。また全く無視する人も多く、そのようなことから、どうしてあいつがもらうんぞぃ!おかしいやろぇぇ、という態度は十分わかった。嫉妬してそのような態度をとるのかとも思われたが、ノーベル賞受賞の後、私自身が彼の作品を読んでみて、確かに、これが世界のノーベル賞の作品かぇ~、と彼の受賞に大いに疑念を持った。ノーベル文学賞選考委員会はいったいどんな基準で選んでいるのか、また与える国々が偏らないように世界地図上である種のローテーションをしていると聞くが、今年はどの地域に絞るのか、国の選考、複数あるであろう候補者の選定、推薦などの扱い、選考委員同士での駆け引きなどなど、それらの裏事情を知りたくなる。そんなことからもこの封切られた『天才作家の妻 -40 年目の真実』を見ることを楽しみにしている。

 大文豪と文学賞をテーマにした映画作品は、今封切られている上記のもの以外にもある。2000年封切りの『小説家を見つけたら』というのもそれだ。こちらはピューリッツァー賞受賞しながらなぜか突如消えてしまった小説家と文学的才能を秘めながら誰にも認められていない黒人の高校生を描いた作品だ。この作品はうれしいことにワイの行きつけの図書館のDVDライブラリーにあるので借りて見た。ちょっと紹介すると

  『ニューヨークの下町ブロンクス。文学の才能を持つ16歳の黒人少年ジャマールは友人たちにそそのかされ、忍び込んだアパートの部屋にリュックを忘れてきてしまう。後日、戻ってきたリュックの中にあった創作ノートには赤字で批評がされていた。
 部屋の持ち主の老人は、フォレスターという小説家だった。処女小説でピュリツァー賞を受賞し、次回作を期待されながら姿を消した謎の人物だ。ジャマールは彼に興味を持ち、作文を持ち込んで強引に添削を頼み込んだ。
 成績のいいジャマールは、有名私立高校へ学費免除で転校したが、教師のクロフォードはジャマールを嫌い、急速に上達していく文章力を疑っていた。学校の作文コンテスト用にフォレスターの部屋で書いた文章を提出するジャマール。だが、その文章は練習用で、タイトルと冒頭部分が、フォレスターの古いエッセイの写しだったのだ。それに気づいたクロフォードは盗作と決め付け、ジャマールは退学の危機に追い込まれた。
 作文コンテストの当日、学校に現れるフォレスター。ジャマールを友と呼んでその危機を救ったフォレスターは、故郷のスコットランドに旅立つと宣言した。やがてジャマールの卒業が近づいたある日、弁護士がフォレスターの訃報と遺品を持って現れた。フォレスターは新作の小説を書き残したのだった。』

 予告編も(といっても18年も昔のだが)ウェブで公開されているので見てみよう。

 隠遁の老文豪はショーンコネリ、偏屈だが知的な爺さん役としてピッタリだ。意地悪な教師が「アマデウス」の敵役サリエリをやってた俳優であるのもはまり役だ。
 徳島図書館で貸し出しているので興味のある人は鑑賞されてはいかがでしょうか。

 ところでこの作品中に、この鋭い文学的批評眼をもつ老作家のさほど広くない本棚に並んでいた小説がありました。背景でしかもシーンがゆっくり流れていくためチラリとしか見えませんが、私はしっかりと確認することができました。引きこもりの老作家であり、またチンマイ部屋に籠っているため、そんなに多くない蔵書は超一流の、老作家にとっては読むに値する大文学作品であるに違いないでしょう。その背表紙を見ると、なんと!日本の作家・三島由紀夫の作品がズラリズラリ・・・確認できただけで
「After the Banquet」「The Sound of Waves」「The Temple of Dawn」「The Sailor Who Fell from Grace with the Sea」、これは「宴のあと」「潮騒」「暁の寺」(豊饒の海四部作)「午後の曳航」の英訳本である。上に貼った予告動画の中にもそのシーンがあるのであらためて静止画で見るとそれが確認できる。


 たしかドナルド・キーンさんが三島は数世紀に一人出るか出ないかの天才作家であるといっていたのを記憶していますが英語圏の人から見ても三島は偉大な文豪なのです。そうするとこのニューヨークの引きこもり文豪も三島作品をそのように評価したから孤独な書斎を彼の作品で飾っているのでしょう。私の独断と偏見かもしれませんが彼こそノーベル文学賞い値する作家だと思うのですが残念ながら45歳で自決してしまい受賞はされませんでした。もし生きていれば必ず彼が受賞したはず・・・と思うのは私の贔屓なのかなぁ。

 文学は当然その国の言葉によって書かれています。しかしノーベル賞の対象となるためにはどうしても外国から特に英米の文化圏の人々から高く評価されなければなりません。そこで重要になってくるのはネイティブの言葉を英語に翻訳して広く流布させることです。日本語の小説を英語小説に直す翻訳者はどちらの言語にも堪能でかつ両文学に造詣の深い人でなければなりません。それは日本人の場合もあるだろうし、英語国民の場合もありますが、三島の場合(彼自身も英語は得意で小品などは英訳していますが)本格的な長編小説の翻訳はほとんどすべてが英米人です。そうなるとその作品が本来持っている日本での評価以上にその英訳の良しあしが海外での評価につながります。川端康成氏は、E.G.サイデンステッカー氏の名訳があったからこそ自分が受賞することができたのであり受賞は半分以上彼のおかげであるといっていたのを思い出します。

 三島作品の場合、かなり長くて複雑な比喩(暗喩も含め)や修飾の文節がある。戦後作家ではあるけれども旧字体がどしどし使われ、もはや死語ではないかと思われるような漢字熟語もズラズラ出てくる。小説に使われる語彙の種類範疇はおそらく漢字検定1級以上であろう。成句や言い回し句にしても相当古い日本文学の作品を知っていなければ出てこないようなのがサラッとして使われる。ハッキリ言って精読・熟読するにはかなり難解である。そのうえ三島作品は文章の難しさもさることながら美に対してかなり深い、ある人にとっては異質とも思える感受性が要求される。日本人でさえ深く読むことはむつかしい三島文学であるのに、はたして英訳本でそのそもそもの味わいが変質されずに転写され得るだろうか。

 そこで『金閣寺』英訳本(The Temple of the Golden Pavilion)を読んでみた。比喩や修飾、言い回し、成句、難解な語彙などみごとに英訳されている。しかしやはり上にのべたようにある人には異質ともいえるだろう美の感受性に対する英訳文章には物足りなさを感じた。2例だけあげる。(この二つの文章は同章同節にありほとんど近接している文章である)

1例目
 原文
 『鶴川の頭へまわした腕は、外側が可成日に焦(や)けているのに、内側は静脈が透けて見えるほどに白かった。そこに朝日の木曳れ陽が、草の薄青い影を散らしていた。直感で、私には、この少年はおそらく私のようには金閣を愛さないだろうということがわかった。私は金閣への偏執を、ひとえに自分の醜さのせいにしていたからである。』
 英訳
 (His arm was bent round his head and I noticed that though the outside was fairly sunburned, the inner part was so white that one could see the veins through the skin. The rays of the morning sun streamed through the trees and scattered light-green shadows on the grass. I knew instinctively that this boy would not love the Golden Temple as I did.  For my attachment to the temple was entirely rooted in my own ugliness.)

2例目
 原文
 『鶴川はうるさそうなほど長い睫を押しあげて、こちらを見た。』
 英訳
 ( Tsurukawa looked at me, brushing up his eyebrows, which were so long that they seemed to get in his way.)

 ここで、異質ともいえる美の感受性に対する物足りなさとは、主人公やその友である15~16歳の少年の持つ「美」(内面も外面も含め)に対するその描写である。原文では(腕枕をして草の上に寝転んでいる)少年の腕の外側が日にやけているのにその内側は驚くほど白く、青い静脈が透けている、そこの部位に木漏れ日を通った光が草の薄青い影を散らしているのである。ところが英訳では、なんと影を散らすその部位は草の上となっている。原文のように少年の腕の白い内側だろうが英訳のように草の上だろうがどちらも木漏れ日で影や光のパッチワークができてキラキラして美しそうだから同じように思われようが、そうではない。三島の場合は少年の肉体の一部にその影がキラキラしなければならないのである。そうでない英文では微妙な少年の美が無視されることになる。しかしそれはやむを得ないことかもしれない。そこである人には異質に思われる美の感受性といったのである。男女どちらの読者にしても多くの人は原文の描写で寝転び腕を枕にした少年の内腕の光と影の『riot』(光と影の多彩・乱舞)を少年の美としてすぐにイメージできる人は少ないのである。しかし、そこでその少年の美がイメージできなければ1例目の文章を丸ごと理解できない。後半でなぜ主人公(この草の上に寝転んだ鶴川を見ている)は直感で、この少年は金閣を私のように愛さないと思ったのか、そしてなぜ主人公は金閣への執着を自分の醜さのせいとしたのか、がわからない。それは、少なくともこの瞬間、少年は美を受肉化した存在であったからである。美の化身がなぜ他の美を渇望することがあろう。それとは逆に自分は醜いから、金閣に執着し、金閣に対して満たされぬ何かを渇望するのである。

 鶴川の少年美をイメージできればすぐ後に続く2例目も瞳の美しい美少年がイメージできる。「うるさそうなほど長い睫」とはよく言ったものである。もし長いまつ毛が美女の要素となっている女性やもともとまつ毛の長い白人などの描写であったら、いくら長いほうがいいといっても、うるさそうな、とはとても誉め言葉にはなりそうもない。しかし三島は15歳の少年にこの表現を使っているのである。これをあえて少年に使うことにより、うるさそうなというネガティブなイメージを並外れた美しい瞳を持つ少年のイメージに代えているのである。ところが英訳では、そもそもまつ毛になっていない。なんと眉毛になっているのである。まつ毛なら(eyelashes)とならなければならないが、英文では(eyebrows)、眉毛である。これだとオシャレにブラッシュアップした眉毛ではあるがそれが邪魔になるほど長くなってしまう。まるで眉毛の垂れ下がった仙人や昔の俳優左卜全さん、元首相の村山さんのような眉になってしまう。ちょっと吹き出してしまいそうな少年の顔である。これだと作者の強調したかった美少年イメージは完全になくなってしまう。「睫」を眉毛と誤訳したことからこんなおかしな表現になっているのだろうが、このような誤訳が起こるのは翻訳者が作中の鶴川少年が美少年であるという暗喩に重きを置かなかったためではないのだろうか。

 私は何もこの翻訳者にケチをつけているわけでは全くない。言いたいことは言語文化が違う(それもユーラシアの西と東で極端な隔たりがある)日と英がいかにうまく翻訳しようが原文の小説の持っている味わいをそっくりそのまま写すことは無理であるということである。それに加えて三島のような耽美的な小説の場合、同性愛とか少年愛とかまたほかの異質な対象に対する愛に対し多くの人は鋭い感受性を持っているわけではなく、作者の少年の美に対する暗喩を読み取れないのは無理もないことである。メジャーな読者に向けて翻訳される以上上記のような翻訳になるのは当たり前である。そこのところが上っ面な翻訳になったところでそれはしかたあるまい、しかし全体としてみれば小説の主題とされる吃音障害の青年僧と金閣の美に対する葛藤、苦悶の展開の翻訳は素晴らしく英語小説として日本人が読んでも面白い小説である。

 同じ図書館のDVDライブラリーにノーベル賞作家・カズオ・イシグロ原作の『日の名残り』という映画がある。原作は(もちろん翻訳本だが)読んだことはないが映画の方は図書館でDVDを借りて見た。それだけでカズオイシグロ氏のこの小説について云々することはできないが、すごいと思うのはイギリスの貴族文化の深奥を描いていることだ。貴族の館にいる執事を描写しているが、その独特の執事文化、そしてイギリス人執事にある意味共通するというか、理想の執事はこうあってほしいというような立ち居振る舞いを微細に描いている。謹厳忠実な執事ではあるが内面はまたいろいろな心の動きがある。原作は読まなくても映画を見ているだけでもそれは伝わってくるから実際の小説の描写にはそれ以上のものがあるだろう。ネイティブのイギリス人でさえそんな描写はなかなか手に負えないのに両親とも日本人、日本生まれのカズオイシグロ氏がそれをなしたというのはちょっと信じられないくらいの彼の才能だろう、それが評価されてのノーベル賞受賞である。でも4,5歳で渡英し、英語が母語になったと聞いたから、日本人が英語の小説を書いたというのではなく、日系英国人が小説を書いてそれが評価され賞を受けたのである。もし日英両語を母語のように駆使し、どちらの言葉でも小説を書けるような人なら自らがどちらの語に翻訳してもそれはかなり完ぺきに近いものになりそうだが、会話や日常文ではそのようなバイリンガルの人は見ても、日英両語を使う文豪は聞いたことがない。やっぱり両語を自由に行き来して小説を創作するのはかなりむつかしそうだし、翻訳もまたしかり。

 今、図書館のDVDライブラリーにある今日のブログに関連する映画を下にあげておきます。図書カードを持っていれば自由に借り出せます。

 〇 『小説家を見つけたら』 ショーンコネリー主演
 〇 『日の名残り』 アンソニー・ホプキンス主演
 〇 『炎上』(原作三島由紀夫、金閣寺) 市川雷蔵主演