2023年9月30日土曜日

今日で九月も終わり 

  とはいえまだまだ昼間は暑い。一昨日、ここ徳島では真夏日(最高気温30℃以上)が78日間続き史上最高記録の期間更新したといっていた。これからも30℃以上の日が続けばさらに記録更新となる。さすがに夜と朝は涼しくなったが、締め切った寝室は、まだすこし暑苦しいので、寝付くまではタイマーをかけ、まだエアコンを動かしている。熱い夏の傾向は全国、いや世界的傾向であるようだ、いわゆる地球温暖化の影響の一環であろうか。近年の炭酸ガスの増加と関連付けられるが、実のところその因果関係ははっきりしない。

 日の短さや、夕づく日(斜めに射す赤っぽい陽光になる)で秋らしさは感じるが、今月は曇りや小雨、どんよりした蒸し暑い日が多く、秋らしい青空、澄み渡る秋の夜空はほとんどないようだ。

 そんな中、昨日は珍しく夕方から夜にかけて秋らしい澄んだ夜空になった。間のいいことに昨夜は旧暦の8月15日、仲秋の名月であるので都合よく美しい月が鑑賞できた。

 昨夕六時半ごろ駅を降りて駐輪場から東の夜空を見上げると、家並のすぐ上のほうに、びっくりするような大きくて真ん丸な月が出ていて、しばらく見とれていた。写真にも撮りたかったが、宵闇が迫る夕焼けの残照や月の出は露出やシャッター時間の調整が難しい、デジカメがカバンに入っていたが、見るだけの鑑賞だけで写真に撮ることはしなかった。

 今日の新聞を見ると全国的にいい「名月」が見られたようだ。昨日はスーパの食料品コーナーにも仲秋の名月にちなんだ菓子が何種類か並んでいた。シンプルな米粉の月見団子もあるにはあったが、ほとんどは月をイメージした形態に似せた求肥や餡、栗、芋などでつくられた和菓子類だった。

 さいごに新聞やテレビの報じないトリビアな知識を一つご披露しよう。「仲秋の名月は必ず仏滅の日となる」、知ってましたか?

2023年9月25日月曜日

勝浦町にヒガンバナの群生を見に行ってきた

  勝浦町の道の駅近くの勝浦川河川敷にヒガンバナが群生している。


 土手向こうの山には星谷寺がある。星の岩屋や石仏群で有名な寺だ。


動画

2023年9月24日日曜日

お彼岸の寺まいり

  墓参りは前日までに済ましていた。彼岸の中日にはどこかお寺へと思っていたが、昨日は長距離歩ける体調ではないため、寺参りはあまり歩かなくてよい寺にした。自転車で切幡寺へ行くことも考えたが、これもかなりな距離でしかも上り道であることでやめにした。

 そこで行ったのが大滝山のお薬師さん、今でこそ参拝者の少ない寺だが、明治以前はお四国札所参り(八十八か所)に出かける時には、一番に参る打ち立ての寺、いわば札所0番といってもいい寺であった。もっとも当時は「持明院」といい、今その大伽藍はなくなっているが、それを引き継いだといってもいい寺が、このお薬師さん(滝薬師)である。


 向かいに毘沙門さん(毘沙門堂)もあるのでそこも参拝した。


 大滝山全景

2023年9月17日日曜日

曼殊沙華が開花した

  別名ヒガンバナともいい秋のお彼岸頃に咲くが、近年は残暑が長く続く影響からか、その開花は早まっている。今朝、大輪に咲いた曼殊沙華の花をみた。見渡したところ、開花はこの一輪だけで、他はつぼみだが、やがて群れた真っ赤な曼殊沙華があちらこちらに見られそうである。


 この花を見ると「長崎物語」を歌ってしまう。 

2023年9月15日金曜日

昨夜から今朝にかけてのこと

 よんべ

黄昏の眉山

 午後8時くらいからワイは銭湯にいた。いつもなら微温湯の湯船につかったり、薄い蒸気の舞う洗い場の空いているスペースで足を投げ出し、ゆったりしているのだが、昨夜は、いわゆる「あれ(A.R.E)」の瞬間が迫ってくると、それが気になって洗い場から出て、脱衣場のテレビで野球中継を観戦した。リードした阪神巨人戦の九回表巨人の攻撃のころには、洗い場から脱衣場に観戦のため移動した裸のおっさんたちで、その場は満パイになった。9時ちょっと前、巨人の放ったフライをキャッチし優勝が決まった瞬間には、どよめきとともに私も含めみんなが大きな拍手。

 決めた後は、銭湯ではそれ以上騒ぐこともなく平常の湯船、脱衣場にもどった。しかしそのころの「道頓堀」はどないになっとんやろ、さぞや大人数で騒ぎ、アバサカる輩もでてきとんちゃうやろか、と想像する。あとでニュスをみると数十人が道頓堀川に飛び込んだらしい。テレビ観戦からかえった湯船の中では、ここ徳島でも、新町川に飛び込んだんがおるやもしれんと、冗談かホンマかわからん話をしている人がいた。

 球団優勝を記念してワイのすきな「道頓堀行進曲(昭和3年)」を張っておく。100年近く前の歌だが、そのジャズの伴奏リズムはモダンですばらしい。

けさ

 朝、すこし散歩をした。野原では帰化植物が多いが、それでも秋を感じさせる古来からの草花が見られる。下は曼殊沙華のつぼみと露草の花、これから秋も深まるだろう。


2023年9月13日水曜日

歩き遍路どうする

  真夏でも遍路姿で札所参りをしている人をよく見かけた。すべての人が歩いてい参拝しているとは限らないが、それでもこの暑い中、大変だろうと思う。若い人ばかりか、というと、そう言うこともなく私に近い年配の人もいる。ちょっと驚くのは本来、日本の厳しい夏に弱い白人のお遍路さんを頻繁にみたことである。みんながんばるなぁ。


 ところで私である。真夏の歩き遍路はキツイし、最近の老化や体力を考えると、区切り遍路であっても途中で体調を崩し倒れてしまうおそれがあるので、少し涼しくなってから、とおもい真夏の「歩き」は控えていた。直近の歩き遍路は、まだ梅雨の開けていない7月8日、福井駅から旧日和佐街道、および遍路古道を通り、お水大師参拝の後、由岐まで約二十数キロ歩いたことだった。この時も、かなり蒸し暑く、吹き出る汗の処理と水分補給に難儀したが、それでも梅雨が明けてからの猛暑よりはよほどましで、なんとか歩けた。(もっとも終わりのほうで足がけいれんを起こし激痛に見舞われ困ったが)

 そして今や九月中旬、昼はまだまだかなりの暑さだが朝夕はかなり涼しくなった。猛暑でやめていた歩き遍路(区切り打ち)をボチボチ再開しようかなと思っている。目標は日和佐・薬王寺から高知室戸・最御崎寺であるが前も説明したようにこの間は約80kmある。そのためすぐにそこに向かうのではなく、日帰りの歩き遍路で体を「巡礼歩き」ができるような体をならそうと思っている。

 一応、考えている慣らしの日帰り歩き遍路は次のとおり。

① 17番井戸寺から18番恩山寺、約20kmあるが、道は平たんで市街地、人家の多いところを通る。

② 十か所参り、すなわち1番霊山寺から10番切幡寺まで、これも20km以上ある。1~10番までの区切り打ちは江戸期から大勢の人が遍路をした。

③ 23番薬王寺から鯖大師を参拝し、余裕があれば海部まで歩く、鯖瀬まで約20km、できるだけ海岸に近い古道を通る。

2023年9月7日木曜日

善根宿、そういえばうちの町にもあったわ、見に行くと・・・

  ワイの住んでる町にも八十八か所の札所が一つ存在する。その寺の近くにはお遍路さんのよく利用する民宿もある。そして近くには善根宿もあったことを思い出した。この歳になって歩き遍路をしようかと思い、遍路民宿とならんで善根宿も宿泊の選択のひとつにかんがえている。そういえばかなり昔、その近くを通った時見学したことを思い出した。その時デジカメで撮影していたと思うので、写真を探すとあった。時期は2011年2月とあるから12年以上前だ。

  12年前の見学の時撮影した善根宿の部屋、下が全景 左の木造小屋が男性用の部屋、そして右が女性用の部屋、宿泊費はいらない。ただ泊まるときには備え付けの利用者ノートに書くようになっていた。水道、トイレもあるし(左端)、コインを入れて使う洗濯機と乾燥機(男性部屋と女性部屋の間にある)も記憶に残っている。


  男性部屋の内部                    女性部屋の内部

  畳も敷かれているし、壁も天井もしっかり作ってあるので、隙間風や雨漏りの心配もないようだ。

 しかし上は12年も前の写真だ、今もやっているか、どうなっているか今日見に行った。すると、まるで犯罪現場のように立ち入り禁止と書いてある黄色のテープで建物を取り巻いている。善根宿はすでに廃されている。老朽化が進んだことが原因だろうか、このような無料の善根宿は建築するときは有志がボランティアで資材や資金、労力をだすが、出来てしまうと、今度は維持管理を誰かがしなければならないが、何年にもわたるとそれは難しくなるのではなかろうか。

 無料のまま続けていると、さらなる善意やボランティアを募らねば維持するのは難しくなる(維持にも金がかかる)。維持管理を怠ったまま推移するといずれ老朽化が進み、このように「危険、立ち入り禁止」となるのだろう。無料の善根宿はありがたいが、存続しつづけるにはいろいろ障害があるのだろう、このありさまをみるとそう考える。

 下は今日撮影した廃された善根宿


2023年9月6日水曜日

巡礼・遍路(遊行)さんの大昔の野宿

  涼しぃなったら歩きの遍路をしようかなとおもっている(一定の区間を決めて行う「区切り打ち」だが)、とりあえずの目標は23番薬王寺から24番最御崎寺であるが、これがまぁ一区間としてはとんでもなく長い。約80kmもある。一回の区切り打ちで終えるとしても一日ではとても歩ける距離ではない。中間点で一泊するとしても一日に歩かにゃぁならん距離は40km、ジジイの初心者であるワイにはちょっと無理だ、二泊するとすると一日歩行距離は26~27kmとなる。これくらいならなんとかなるかもしれないと、机上の計算である。

 どこで泊まるか?足を痛め、へとへとに疲れながら一日を終え、次の朝それを回復させ出発するのであるから、一番いいのは二食付きの旅館・ホテル・民宿であろう。おいしい料理で栄養を取り、ゆっくりと風呂に入り、きれいなシーツの布団で眠るのは疲労回復に一番良い。民宿(遍路を多く受け入れている宿)ならば宿泊料も比較的低廉である。十年ほど前のガイドブックには遍路利用民宿の料金表が乗っていたが二食付きで6500円くらいである。しかし最近の諸物価の大幅値上げを受けて宿泊料も大きく値上がりしている。今現在一万円札を出しておつりがはたしてあるかどうか、というくらいの相場である。貧なジジイにはこの宿泊代は痛い!宿泊代の心配のため、泊りの歩き遍路を敬遠したくなるほどである。

 そこで金のあまりかからない宿泊方法を考えてみる、口コミで聞いたところによれば海陽町から室戸岬までの間には、遍路小屋、善根宿もいくつかあるようである。粗末な小屋だったり、また廃バスを利用したところもあるようであるが、料金はタダ、あるいは払ってもワンコイン(500円玉)、高くても1000円札一枚びゃぁである。ただ遍路小屋、善根宿の場合あらかじめ自分用の寝袋を持参しなければならない。

 粗末な小屋、寝袋持参というのは「なんちゃ、かんまん」が、見知らぬ歩き遍路の人と雑魚寝というのは、抵抗がある。ジジイの初心者遍路にとって、初めからいきなりこのような場所に放り込まれると他人とコミュニュケーションを取るのは億劫である。なんか変な信念をもっている人、あるいは強い思い込みのある人だったらどうしようと思ってしまう、折伏や説教などはされたくない。かといって挨拶のみで済まして、朝まで全然話をしないというのも、余計相手のことを気にして神経がすり減りそうである。慣れればそんなこと杞憂かもしれないが、新参の第一泊目を他人と雑魚寝というのは、私にとっては修業がきつすぎる。

 金も使いとうない、雑魚寝もいや、の場合、そうなると「野宿」という選択となる。どうせ寝袋をもっていくのなら、軽い折り畳みの「テント」を持参するのも同じことである。その用意があれば適当な場所を見つければ野宿ができる。

 日和佐から室戸岬までの歩き遍路での宿泊は ①民宿、②遍路宿・善根宿、③野宿の選択を用意している、さて、どれにしようか、まだまだ出発は先、ゆるゆると考えよう。

 以下、巡礼・遍路(遊行)さんの大昔の野宿を調べてみた。参考になるかな

 下に見る図は13世紀の「一遍上人絵伝」の一こま、中世の旅の様子、遍歴する人の様子が絵巻物にあらわされ、よくわかる史料である。まず最初に見るのは固定した家を持たない人が休息時あるいは寝る時はどのようなところに身を横たえていたか、がわかる図である。白の矢印がそれである。右矢印は葦簀(ヨシズ)あるいは蓆(ムシロ)のようなものを斜めにして二本の棒で立てかけ、三角形の空間を作っている。考えうる最低限の仮小屋である。今、仮小屋の住人は椀と箸で食事の真っ最中である。左矢印は唐傘一本がその仮小屋の代わりである。身を横たえて休息か睡眠をとっている。


 いざとなれば究極、露天で身を横たえることもありだろうが、安息をとったり寝たりする場合、陽光や夜露、朝露、雨などを凌ぐため覆いのある仮寝場所を設営したい。上図などはもっとも簡単な覆いのある組み立て式の仮寝小屋である。

 今だと折り畳み式のテントだろう、テントのように移動するときは畳む、あるいは巻いてそれを負って別の場所へ移った。下の図は上図の仮小屋をまとめ移動する人々である。右の矢印の人は、上図でいえば右の仮小屋を巻いてつっかい棒に括り付け背負ったもの。左の矢印の人は上図でいえば左の唐傘を畳んで背負って移動している。


 最低限の仮小屋(というより覆いといったほうがいいか)もない人がよく利用するのは、寺社の軒下、あるいは縁の下である。今でも遍路はお堂や神社の夜露の凌げるところで寝る人もいるようである。下の図は寺の縁の下で夜を過ごす人、表情を見る限り安眠しているようだ。持ち物といっては椀と箸、そして被っているのはムシロか、枕もしている。


 橋の下なども夜露を凌げる格好の場所となるが、13世紀のこの絵巻では遍歴する人々(乞食も含む)にその場所の利用は少ない。というのもこの時代はまだしっかりした構造の橋は京都くらいにしかなく、そもそも川に橋が架かっていることが少なかった。あったとしても簡単な橋で橋下で休めるようなものではなかった。川幅のある橋でも、下のような「船橋」(幾つかの船を杭で川の中に並べその上に板を渡して橋にする)で、これでは橋の下で休めようがなかった。


 中世の遍歴する人々(遍路・巡礼も含む)もいろいろ工夫して夜露を凌ぎ、寝どころを確保したのである。私も中世の、遍歴しながらたくましく生きる人々を見習い遍路すべきか。

2023年9月4日月曜日

大昔の巡礼遍路の移動手段あれこれ

 大正時代の風俗としての遍路・巡礼の姿が当時の新聞漫画に載っていた。下のようなものである。


 大正時代ともなると遍路・巡礼に汽車やあるいは自動車を移動手段として使う人もいたが、この時代でも主は「歩き」である。これは古代、中世も同じである。上の漫画でも大半の人は「歩き」であるが、車に乗って移動している人もいる。歩くより楽ちんだろうな、と思うが、そう単純なものではない。現代は遍路・巡礼する人は健康体、少なくとも歩きが苦にならない人が行っている。

 しかし大昔はそうではない人も多かった。治らない病を神仏に頼って治したいと願い巡礼遍路をする人もいたのである。当然四肢の不自由な人もいたためその人は「車」に乗って移動しなければならなかったのである。車と言っても箱に輪を付けた簡単なもので、介添え人に押すか牽いてもらう、あるいは手の自由がきく人は杖で地面を押し自ら車を動かす人もいた。上図右下の車の人は介添え人に牽いてもらっている。また足が不自由でも車に頼らずに上図の右上の人のように両手に履物を履き、いざりながら移動した人もいた。

 牽くあるいは押す車に乗って巡礼遍路する人は中世からいた。中世文学の説教節で有名な「小栗判官」の主人公は、四肢が動かぬ業病を紀州熊野の霊湯に浸かって癒すため、関東からいざり車にのって熊野までいくのである。下図は小栗判官がいざり車にのり、牽いてもらっているところ。


 足が不自由でも車を使わない人は手でいざりながら移動した。13世紀に作られた一遍上人絵伝の中には下図のように両手に履物を履きいざりながら移動する人がいる。


 また上図の大正時代遍路遍路風俗漫画の中に車輪付きの小屋の中にいる人が描かれている。車が移動手段仮寝の小屋ともなっている。これも中世から見られる。やはり一遍上人絵伝の中に同じものがある。下図がそれである。これなどをみると足が不自由だからというのではなく、仮寝の小屋が移動できるというメリットのため使っているのではないだろうか。どこまで長距離移動できるか、移動中壊れないかが気になるところだが、これらの人々は、だいたい寺社の門前で居る(乞食が生活手段であることが推測される)、そのため一つの寺社で長期滞在し、それから隣の寺社までゆっくり移動するため、このような車付き仮寝小屋でも十分な実用性はあったのだろう。


   中世から普通に歩けない人でもこのような手段で巡礼遍路(中世では遊行とも)を行ったのである。中には稀だが夫が動けない妻を、あるいは子が歩けない親を負ぶって歩くというケースもあった。

 そのほか、中世においても、巡礼のコースにもよるが、健脚の人でも歩かなくて楽できる移動手段があった。それは舟による移動である。紀州熊野の巡礼者は本宮から新宮へ向かうのは川下り舟を利用する人が多かった。四国巡礼でも高知の一部では船が利用された。下図は一遍上人絵伝の中の舟下りの図である。乗っている人は熊野詣の巡礼者である。


 大昔だからと言って歩いている人ばかりではなかったのである。