2019年5月30日木曜日

うちの先祖のいたところ

20180104


 戸棚の反故紙なんかが雑然と詰めてある古い箱からセピア色になった写真が一枚見つかった。見ると私の祖父である。坐って一緒に写っているのは祖母である。もう一人のお婆さんは私が4歳の時に亡くなった曾祖母である。すると子供は私の親父か、と思われようが、親父の子供の時とは明らかに顔が違う、別人である。写真には説明がない、おそらく親戚の子か親しくしていた近所の子だろうか、わからない。撮影された年代もわからないが、よく見ると右のほうに竹竿が立てかけてあり、その竹竿の先に叩きの様な布がぶら下がっているのが見える。これ実は火消し棒である。戦争中の空襲に備え、この火消し棒の先の布を水に浸し、焼夷弾攻撃で燃え上がった炎を早いうちにこれでたたいて消すのだ。焼夷弾をこの手製の消火棒で無力化しようというわけだ(実際の空襲ではほとんど役立たなかったそうだ、そんな生易しい焼夷弾ではなかった)。そうするとこの写真は空襲が現実になった太平洋戦争末期の昭和19~20年頃に撮影された写真のようだ。

 一緒に写った子どもや撮影年代の疑問のほかにも見ていると様々な疑問(というより、写真のじいちゃんやばあちゃん、ひいばあちゃんに聞いてみたいこと)がたくさん思い浮かんでくる。祖父が亡くなったのは私が35歳のころだから聞こうとすれば充分聞けたはずだが、残念なことにその時まで、こちらから質問することはなかった。

 うちの先祖はもと善入寺島(吉野川にある日本有数の面積を持つ川中島)にすんでいたと私が子供の時に祖父から聞いた記憶がある。祖父が子供の時、この善入寺島(祖父は粟島と呼んでいた、以下、粟島と呼ぶ)の小学校に通っていたそうだ。そのような話を聞いたが、祖父も成人して仕事をはじめ、それを機に私が30歳までいた家に引越ししたのだろう、というくらいに思っていた。

 しかし、祖父が亡くなり、その後、調べたら、この粟島(善入寺島)はたびたび吉野川の水害を受け、治水対策(築堤や分流工事)のため大正四年に粟島の全戸退去の命令が出て、翌年には全戸移転が完了したとある。つまり、強制退去を受けたのだ。この粟島には6つの村があり、戸数は500余戸、3000人余の住民がいた。先祖伝来住み慣れた土地を離れるのは嫌だったに違いない。

 祖父からはそんな具体的な話は全く聞いていない。全員退去したのが大正4~5年ころだから、祖父はその時12歳、子供ごころにもつらく悲しい体験だったにちがいない。祖父としては自ら進んで言うような出来事ではなかったのだろう。全戸500戸のうち100戸を越す家族はまだ原生林が残っていた北海道の原野に開拓民として移住した(その後の大変な苦労が想像される)。その他の家は周辺の村落に移住した。うちは粟島の南東に隣接する町へ移住した。その時のうちの戸主は私の祖父の、たぶん父、いやもしかすると祖父の祖父が生きていれば当然、祖父の祖父が戸長だったろう。

 先日、図書館に行ったときに「粟島史」という本を見つけたので読んだ。全島退去命令が出る前に住んでいた家々が地図上に載っていて、各戸主の名前が書いてある。小さい字で見にくいが約500戸の家々の名前を一軒一軒見ていくと、私の姓は一軒のみ、おそらくその家が私の祖父が生まれ、子供時代を過ごした家である。この指示されている地図上の位置にわがご先祖が住んでいたのは間違いない。


 ググルマップのビューで見るとこの辺りだろう。当然家は一軒もない、畑が広がるのみである。
 
上空から見た粟島ここに6つもの村があったのだ。

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