2019年5月30日木曜日

「死線を越えて」に描写されている町

20180125

 徳島は城下町である。明治以前は、武家地、町屋、そしておおむね職能別になった職人町で区画されていた。しかし明治以後、徳島の様な中都市でも振り売り、行商の様な店舗を持たない零細な商人、特別な技術を持たない単純な労働者(土工、工場労働者)などが流入して住みつくようになった。それで藩政時代にはなかったそれらの流入した小商人、労働者などが集まって住む地区が生まれてきた。その劣悪な住宅環境から時として『貧民街』と呼ばれた。

 東京や大阪の貧民街は明治から有名であるが、はたして、徳島には貧民街といわれるような地区があったのであろうか。市史を紐解いてもはっきりとはわからない。しかし、賀川豊彦の『死線を越えて』という写実に基づいて書かれた小説を読むと徳島の貧民街の描写が出てくる。時は明治末年ころである。

 『・・・子供に導かれて福島橋を渡って、右に折れて半町ほど行かぬうちに長借家の下駄屋と芋屋の間に奥まった路地がある。この路地のところどころを折れてついていくとまず沢庵の腐敗した耐えきれぬ臭気に貧民窟の影を窺いえたのである。実に想像より予想外なところに舞い込んだ。子供は先に走って影は消えた。想像しなかった天地。屋根は低く家は小切って普通の家の玄関の土間だけもない。人間はこれほどまでも家を区切る必要があるのかと思った。多くは閉じられ光もなかったが、光の着いているところも豆ランプがせいぜいで、たいていはブリキ製の糸心の燃えだし・・・』

 想像できないくらい小さく区切った空間は貧しい一家の住まいである。それがようやく通れるような路を挟んで両側にびっしり並んでいる。続けて読むと、その区画の様子も書かれている。「三畳一間に一坪の土間」である。その一坪(畳二畳分)に用水甕(あるいは用水桶)、竃(かまど)などが置かれているのであろう。

 主人公はそのうちの一軒を訪問することになるが、その三畳に一家が暮らしているのである。五人家族とするといったい横になって寝られるのかと思うが、実際にそこで寝起きしているのである。そこの家族の夫は、鴨島に鉄道工事に出ていて、事故にあい、足を列車にひかれて寝たきりになっている。わずかな見舞金のみで保証は一切なし、暮らしは妻が機屋の管巻きに出てなんとか一家の生計を支えているのである。

 この場所は今はどうなっているのかちょっと気になって行ってみた。こんな様子である。明治末年に貧民街があったとは信じられない。普通の町である。

 

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