2021年5月6日木曜日

スィッチバックの駅、坪尻

  60年以上たったが、汽車の旅の楽しみはガキの頃と変わらない。車窓を眺める楽しみは全行程を通じてのものだが、ガーッと音がして鉄橋を渡るとき、そしてトンネルに入り抜ける時は、この歳になってもいささか興奮するというかワクワクする。小ンマイ頃、家族に連れられて汽車にのるとき、乗車距離が短く、トンネルも鉄橋も通過しない時はがっかりしたものである。

 ワイんくは徳島線に沿ってある。この徳島線は残念なことにトンネルはごく短いのが一つ、長い鉄橋は鮎喰川橋梁くらいのもので、この路線沿いにある親戚を訊ねるためよく汽車に連れられて乗ったが、いささか物足りない気がした。しかし一年に一度あるかないかだが金毘羅はん(これは土讃線)や八栗はん(こちらは高徳線)にお参りに行くときは、多くのトンネルや、長い橋梁を渡るため、遠出の楽しみ以上にトンネルや鉄橋を渡る楽しみがあった。特に土讃線は谷や山すそをめぐり、阿讃の山脈を突貫するためトンネルが多い。子どもの頃、金毘羅はんへ行くため土讃線に乗った時は大興奮したのを覚えている。

 その土讃線は徳島線の終駅一つ手前の駅・佃で乗り換える。60年たってもこれは変わらない。5月3日の朝、乗り換えのため久しぶりに佃駅のホームに降り立った。


 琴平行きに乗り換え出発するとすぐに吉野川橋梁を渡る。小ンマイ時は外界の認識も幼稚で鉄路が通っている地勢や地理的条件などに関心はなかった今は地勢や路線の地理的条件に関心が向くようになった。車窓左を見ると阿讃の山々が見えているがあの山裾の結構高いところまで汽車は登り、谷筋を走り、阿讃のトンネルのいくつかを抜け、讃岐の国に下りて行くのである。


 左へ大きくカーブしながら汽車は山の中に入っていった。キキー、キュキーと車輪と線路がきしむ音がする。ディゼル機関の音が一段と高くなってきた。線路の勾配がキツクなった証拠である。速度も当然おそくなった。周りをみるが深い山の中を走っているような感じで緑の木々しか見えない。60年も前のワイの子どもの頃は蒸気機関車が喘ぎ喘ぎ登って行ったのだろうと思うが、子どもの関心はトンネルや周りの景色に魅了されてか、そんな記憶はない。だから全国の鉄路の中でも珍しい「スィッチバック方式」もその時は全くしらなかった。

 汽車はバスや自動車と違い、坂が苦手である。バスが難なく登れる勾配でも汽車は無理であることが多い。限界の勾配があってそれに近い鉄路を上るときは空回りしないよう、砂を鉄路に振りまくこともあった。限界以上の勾配を汽車が登る手段は、二つあった。一つは二本の線路の真ん中に歯のついた鉄路をもう一本敷き、そこを特別の機関車の歯車をかみ合わせ列車を牽引しながら登らせる方法、アプト式といわれるが、この場合は結構な急こう配でも登れる。

 もう一つは急な坂を一度に登らず、ジグザグに前後ろに行きつ戻りつしながら登る方法でこれが「スィッチバック方式」である。理論的にはたくさんのジグザクを組み合わせ何度も行きつ戻りつすればどんな急坂でも上れるが、地勢の制約もあり、限界はある。外国のアンデス山脈の鉄道のスィッチバックは十回以上行きつ戻りつしながら、かなりの高度まで上がるが、日本ではせいぜい1~2回ほどの行きつ戻りつである。

 前者のアプト式はワイの子どもの頃は軽井沢あたりの信越線の急こう配にあったが、今はなくなった。そのため急こう配を登る手段として残るは「スィッチバック方式」だけである。

 そびえる阿讃山脈の手前にその「スィッチバック方式」の駅『坪尻』がある。汽車のとまっている右横にもう一本線路が走るがこの高低差を汽車が行きつ戻りつしながら登るのがスィッチバックである。


 この坪尻駅、実は地元の生活駅としての使命はすっかり終えてしまっている。というのもこの阿讃の山ふところ深いこの駅周辺、民家はすべて廃屋になっている。だから地元住民の乗り降りは全くない。このため今は普通列車が特急をやり過ごす待機駅としての使命しかない。しかし駅舎はコジャンとしていて、待合室も整備されている。これは最近、秘境駅としての観光価値が出てきて、ここで乗り降りする観光客が増えたためだ。



 汽車は20分ほど停車したのち、バックして右の線路に入り、長い阿讃トンネルを抜けて讃岐の国に入った。

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