2020年7月19日日曜日

三谷寺

 先月の28日のブログに鴨島の地表水という題でブログを書いた。鴨島を源流とする中河川の「飯尾川」と用水の関係についてが主なテーマであった。(そのブログ、ここクリック) その飯尾川であるが町内のいくつかの小河川を集めて飯尾川となっている。その支流の一つである「三谷川」という河川がある。その三谷川を今日は少し遡ってみた。

 呉郷団地の南東に四国山地の谷の一つから流れてきた三谷川が平地に出て屈曲しながら小扇状地をつくっているところがある。そこに一つの橋が架かっている。橋を渡ると三谷川沿いに遡り四国山地の谷川まで続くのである。下がその橋のたもとの写真である。

 橋のたもとには地蔵が立っている。上の写真で見えているのは御影石で作られた新しい石像であるが、その横に古い地蔵と光明真言塔がある。
 下の写真は正面から撮った古い地蔵と「光明真言塔」である。江戸時代後期にこの光明真言塔はずいぶん流行したらしい。信仰の石造物を流行したというのはおかしいいい方でもあるが、それほどこの時期、阿波の各村、いや集落ごとといっていいほどたくさん建てられている。だいたい百万遍唱えたというものである(光明真言については何度もブログに取り上げたが光明真言とはマントラ、おん、あぼきゃ、べいろしゃなぅ~、まかぼだら、まにはんどま、じんばらはらばりた、うん、で一遍である)、中には一億万遍唱えたという石塔(井戸寺の近く)もある。この真言塔は上部が欠けていてかなり傷んでいる。相当ふるいものかと思われようが文政年間の光明真言塔である。(今から200年ほど前)

 光明真言の功徳を説いた人で有名な人に明恵上人がいる。この人は鎌倉時代の人でもちろん真言密教の教義についても詳しいお坊さんではあるが、この人はまた古くから奈良・南都伝わるいくつかの流派の教義全般についても深い学識を持つ碩学である。強いて言うならその南都六宗の華厳宗に属するといわれている人である。この時代から光明真言の有難い御利益が説かれているが、大流行したのは先にも言ったように江戸時代後期になってからである。なぜ鎌倉時代にすでにありがた~~~い光明真言の御利益が説かれているのに流行ったのが江戸時代後期かについては、またいずれ調べてみようと思う。

 この橋を渡り100mほど上流に行くと三谷寺がある。もう50数年昔の話であるが、私が高校一年の時、ちょっとしたことでこの寺の御住職さんと知り合いになった。もう代も変わっているが寺の庫裏、鐘楼などの様子は半世紀前の姿をとどめている。前に流れる川が三谷川。

 半世紀以上前、息子さんはまだ若く、たしか役所に勤めていたこともあって、法要や盆の棚経回りなんかはお母さんが袈裟をきて勤められていたことを記憶している。もれきくともうその当時の息子さんのさらに息子さんの代になっているそうだ。
 門柱を読むと真言宗・東光山・三谷寺となっている。東光山とあるから御本尊は「薬師如来」さま(薬師如来は、東方瑠璃光世界にいらっしゃるので、東と光が薬師を連想する)と思ったが、後で町史を調べると御本尊は「地蔵菩薩」さまであった。

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