2020年1月25日土曜日

百年前のパンデミック

 今日のニュースなどを見ると中国発の「新型の流行性肺炎ウィルス」の感染が中国国内で広がり、そこから何か国かにも飛び火し、世界的に拡大する可能性が指摘されている。そうなればパンデミック(死亡率の高い伝染病の世界的大流行)である。なんとか水際で食い止めてほしいと願っているが、報道によると日本にも入ってきて数例の患者が出ている。

病原菌に国境を越えさせない「水際作戦」が重要であるが、これだけ大量の人モノが移動するグローバル化した世の中でかなりそれは難しい仕事になる。ましてや今、中華圏では「春節」で民族大移動といわれるほど中国人が海外に出かけるそうであるから、水際作戦が成功するかどうか不安である。そんな不安からかエドガー・アラン・ポーの有名な小説『赤死病の仮面』を思い出した。全身から血が噴き出す致死性100%の疫病から逃れるために山奥の何重もの頑丈な壁で守られた城に王侯貴族たちが孤立して暮らす話である、城中では無聊を慰めるためファンシーボール(仮面舞踏会)なども開かれ、バタバタ死んでいる世間を尻目に面白おかしく暮らしている。しかし死神の仮面をつけた疫病はやすやすと侵入する・・そして全員を屠るという、こわ~~~~いお話である。自分たちだけ助かろうとした罰なのか、それとも死神や疫病はどんなに防いでも必ずやって来て取りつくという教訓なのだろうか。

 直近でもっとも恐ろしかったパンデミックは百年前に流行ったいわゆる「スペイン風邪」今でいう新型インフルエンザであった。

 モラエスさんの著書「おヨネとコハル」には百年前の徳島のことが書かれている。文学作品としても面白いが一世紀以上もたった今、読んでみると大正時代の徳島の庶民生活や風俗を知る上でも貴重な資料となっている。その中の1919年9月の随想日記を読むと、前年重篤な流行性感冒が流行り日本各地で多くの死者が出ていることが書かれている。まさにそれがスペイン風邪・パンデミックである。

 人口密集地である大阪などでは悪性風邪による死者が多数出たため、火葬場の処理が間に合ず、大勢が順番待ちで、荼毘が追い付かないため多くの並べられた遺体が腐臭を放つ始末である、そのため悪徳な火葬仲介業者などが出てきて、金の多寡によって順番を早めることが行われ、金持ちはすぐ火葬され、貧乏人は放置されているとモラエスさんは書いている。

 またモラエスさんの住むここ徳島でもスペイン風邪による多くの死者がでた、ある日歩いていると横町から棺桶が5つも続く葬列が出てきたこと、また別の日モラエスさんが仕立て屋に注文しに行ったところがなんと店の家族9人全員が悪性風邪で寝込んでいたことなどがその随想日記からわかる。

 続いてモラエスさんはその悪性の流行性風邪が日本に流行るより前に欧米に広がりそれから日本を含む世界中に広がったこと、その死者数は最初の数週間で第一次世界大戦の死者より多くなったことを書いている。いまでいうパンデミックである。流行中にはそんなことはわからなかった。まだ20世紀の初めである、テレビ・ラジヲはなく、新聞が情報の主体である。モラエスさんがこれを書いたのは一年後のことで、世界中からかなりの情報が得られたためである。モラエスさんはこの病を「インフルエンザ、ネウモニカ」とギリシア語で呼んでいる(著書にはカタカナで書いてあるが)。直訳すると流行性肺炎である。

 そのあとモラエスさんは面白いことを書いている。日本の庶民はそんなギリシァ語も知らないし、詳しい医学的知識も持っていなかったが、その流行り病は、今から(1918年)200年前(ということは18世紀初め)に日本全国で流行った「お染かぜ」の再来に違いないと思ったらしい。この令和の御代からだと「お染風邪」は300年も前だからその病原菌がわかるわけがないのだが、多くの疾病史学者の見るところお染風邪は「新型インフルエンザ」が猛威を振るったものであろうという予測で一致している。とすると大正時代の庶民の予想も当たっている。この大正時代の悪性の流行性感冒も新型インフルエンザで後に「スペイン風邪」と呼ばれたのであるから。

 神戸、大阪、横浜などでは、その風邪に罹らないおまじないとして「久松留守」と書いたお札を戸口に貼ることが流行ったことも書いている。モラエスの徳島での生活から遡ること二百年前、西暦1708年(宝永5年)大坂である心中事件があった、店のお嬢様のお染と手代の久松が手に手を取って入水し二人とも死んだのである。ちょうどそのころ悪性の風邪が流行りだした。人々はその二つを結び付けた。お染はあの世で久松と添い遂げられず、お染の霊は久松を求めて家から家へと彷徨い、霊が訪れた家に「お染風邪」という災厄がもたらされたと信じたのである。そして200年たち同じような悪性風邪に見舞われた人々は「お染風邪」の再来ではないかと恐れ、お染の悪霊から家族を守るため、お染の霊が訪ねてきても戸口から引き返すように、そこに「久松留守」と貼ったのである。

 大都会でそんなまじないが流行ったことを書いているがここ徳島ではどうだったかモラエスさんは書いていない。しかし徳島でも多くの人がこの病にかかり、死者も多数出たのである。特効薬もなく決定的な治療手段もない当時の人々は神仏頼みとともにこの「久松留守」のお札もあちらこちらに貼られたのではないだろうか。

 

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