2020年4月16日木曜日

疱瘡地蔵と徳政

沈みがちな世の中、華やかに咲いた駅の八重桜を見てから、パッと明るく本日のブログをはじめませう

 前々回のブログでも述べたように江戸期には疱瘡(天然痘)は土着し、万遍なく小流行を繰り返したため誰でも罹る病気となった。この疱瘡は成人してから罹ったほうが断然死亡率が高いので子供のうちに罹るほうが良いといわれ、子供の成長の上でほとんど通過儀礼のようなものになった。それでも疱瘡で命をとられる子供が多く、親としては路傍の地蔵、お薬師さんに願をかけ、あるいはさまざまな疱瘡除けのまじないなどを行って軽くて済むように願ったのである。その親の願いの中に、この病気の固有名をつけた『疱瘡地蔵』があった。

 そこでちょっとオイラは想像する。もし今流行の武漢ウィルスによる疾病が江戸期に大流行したとして、はたして、この固有の名前を持った、例えば『殺路無地藏』(コロナじぞう)のようなものが作られたであろうかと。まず作られないだろう。江戸期にも流行性感冒は十数回大流行する(よく引用に出す内務省衛生局の報告にもある)、少なくともスペイン風邪くらいの悪性度があったものもいくつかあった。しかし風邪地蔵というのは聞いたことがない。疱瘡のほうが悪性度がダントツに高く、子供がかかったためであろう。それから考えると、軽い風邪様で8割が自然治癒し、また重症化して死ぬのは高齢者がほとんどということを考えると江戸時代に武漢ウィルスの疫病が流行っても『殺路無地藏』(コロナじぞう)は作られなかったであろう。

 明治生まれのバアチャンからワイのチンマイ時に聞いた疱瘡地蔵はまだ昭和30年には辛うじて残ってた。他の徳島の田舎でも疱瘡地蔵は何体かあったはずであるが、疱瘡は種痘の普及とともに事実上国内から姿を消し、地球上からも30年ほど前に撲滅されてしまった。だから疱瘡地蔵も用途を終わり別の名前に変わったり、また撤去されたりした。今現在、徳島で調べても「疱瘡地蔵」は見つからなかった。全国に網を広げて調べるとヒットしたのが、奈良県柳生町にある『疱瘡地蔵』である。下がその現在の様子、今は覆い屋の中にある。

柳生の里、疱瘡地蔵

 摩崖仏になっているためその彫られた大石の表面を見るとこのようになっている。

 まぁ~、よくまぁ~、疱瘡が撲滅されこの地上から姿を消して三十年もなるのに疱瘡地蔵という名が残ったものだなぁ。と感心する。地蔵そのものは残っいても、時代とともに変わる願人のリクエストに応じて、失禁地蔵(ションベンのトラブル)、ボケ地蔵(老人性痴呆)やポックリ地蔵(寝たきり老人)と名を変えてもよさそうなものなのにと、思うが・・・・・
 ところがこの疱瘡地蔵そんじゅそこらの地蔵とは違って超有名なのである。鎌倉期に作られた伝統のあるものであるが、超有名なのは、高校のどの日本史の教科書にも載っている疱瘡地蔵なのだ。注目されるのは疱瘡地蔵さんそのものではない。この横に短冊形にある文言である。大石にレリフした地蔵さんの横に文言が刻まれていて、それが高校日本史の教科書にも取り上げられているのだ。
 この部分

 この疱瘡地蔵の碑文は、室町時代に頻々と起った「一揆・徳政」の事件の生きた資料なのである。碑文の文字は素人(国人、農民など)が彫ったのだろう、たどたどしく拙劣な文字で漢字は少なくカタカナで書かれてある。次のように書かれてある。

『正長元年(1428)ヨリ、サキ者(は)、カンヘ(神戸)四カン(箇)カウ(郷)ニ、ヲヰメ(負目)アルヘカラス』

 どういうことか簡単にいうと、

 「この年から以降はなぁ、この神戸(かんべ)郷(村落)四か所にある負債・借金は全ぇぇん部、棒引き・帳消しやでぇ、これお上に正式に認められ、宣言されたもんやさかい、四の五の言うんはナシや、念のためこの疱瘡地蔵の横にしっかり刻んどくから、みんなよ~見ぃや」

 室町期は庶民ばかりでなく上層農民、国人といわれる土着の武士でさえ、金融業者、土倉、酒屋などから金を借りてその支払いに困っていた。困窮はさらなる別の負債を生み、悪循環で負債はどんどん増えた。そこで都、地方のそれら大勢の人々が一味同心(一揆という)し、わ~~っと集団で(たぶん武装もして)京都室町にある幕府の役所に押し掛けて、デモンストレーションし、幕府から公式に「借金・負債、全部棒引き・帳消し」という宣言を出してもらうのである。お上(政府の)正式な宣言だから法的実効性は保証される。困窮のもととなる借金負債は無くなったのである。

 この政策(下から強要されたものだが)は、庶民、地方人、借金に苦しむ武士などには福音だが、貸した者らにとってはたまらない。いくら前者が多数で後者が少数とはいえ、かなりな悪手である。でもこの時代の人はこの政策を「徳政」(徳のある政治)とし、その宣言を「徳政令」と呼んだのである。あえて解釈するなら多数派が喜ぶからだろうか、この「徳政」は文言どおりなら素晴らしい意味を込めている。確かに生活苦から借金を重ね、借金が膨らみどうしようも無くなった庶民から見れば徳政に違いないが、恐るべきしわ寄せを被る人がいる。

 今現在日本も含め世界でこのような徳政(負債借金帳消し)という政策をとることは可能であろうか?もちろん非常時・緊急時にはそのような選択肢もあろうと思われる。いま世界にある国家の中には国家は絶対的主権をもっているからどんな政策をも行使できると信じている国家もある(旧共産圏諸国など)、そんな国ならば躊躇なく可能だろう。だがこれはそうとうな劇薬処方である。ある症状を抑えるために用いるが、ひょっとして副作用で死ぬ可能性のあるような劇薬である。

 現在の日本でも政府がその負債を肩代わりするような負債帳消しならば、形を変えた「徳政令」として現在の日本でも認められるかもしれない。事実、このような形を変えた「令和の徳政令」を希求する声が多い。国民すべてに金を支給せよ、というのはその最たるものである(他にも休業、損失を遍く補償するというのもある)

 疱瘡地蔵を調べていて中世の正長の徳政令に注意を向けられた。そして今、疱瘡と同じ伝染病の蔓延の中、なすすべもない人が大勢いる、そんな人は『殺路無地藏』(コロナじぞう)でも作って拝む以外ないのだろうか。いや、素晴らしい徳政令が発布され、人々は救われるかもしれない。数百年後、記念碑的に建てられた『殺路無地藏』(コロナじぞう)の横には「令和の徳政令」が刻まれているかもしれない。
 
ここからはワイのつぶやき!

 まあ、酢だの蒟蒻だのといわんとなんでもぇぇ、10万ちょうだいな、ほかはしらんが、ワイは喜びのあまりお上に向かって
 
~うれしやぁな~、令和の御代の徳政令~、いよ~、(カッポン)、降るわ、降るわ、黄金の雨ぇ~~~、ちゃりちゃりちゃりんと、なりひびけ~、いよぉぉ~(カッポン)

 と令和の徳政を讃える翁の延年の舞を舞い踊るわ。

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