2020年4月8日水曜日

百年前のパンデミク その3、特にワイの住む徳島はどうじゃろ

 大正十年の内務省衛生局の報告を見るとわが徳島におけるこの疫病についての具体的な数値を挙げている。その一部が次のようなものである。

 詳細に見ると各年(大正8~10年)の各月(それも前半期と後半期に分けている)の患者数、死者の数を一の位までとっている(ただし初発の10月から1月15日までは患者の爆発的な増加のため統計の初動が間に合わず、後にまとめて合算したから3か月分の統計となっている)。これを見て極めて正確である、と言いたいところだがこれは内務省が後になって各県から報告された数字に基づいたもので、それではその報告がどこからどのようになされたかが正確さを知るうえで問題になる。これは報告書でも言っているように各地の警察署による調査、各地の医者への調査などにより県単位に集計されたものである。当時は今のようにDNAあるいは抗体による検査などないが、わずか1~2ヶ月で爆発的に増えたかなり激越な流行性感冒様の症例患者である。短期間に徳島では、あの横丁、この町々、村々で、同じ高熱症例の患者が多発したのである。その総数をとればおそらく実体(本当にその新型の感染症にかかっている人)と大きな違いはないものと思われ、さすがに一の位まで正確に信用せよとはいわないが、おおむねその数値は外れていることはないと思っている。

 さて内務省衛生局の報告ではこの新型の疫病、終息した大正十年にはその一般名称が「スペイン風邪」といわれていたことを述べているが、その初発は決してスペインではないことを断言している(今日の知見でも全く正しい)。そして大正7年春頃より欧州で流行りだしたことを述べ、その始まりの春は(重症化率死亡率など)普通の風邪様で良性であったのち、同年夏から秋にかけてだんだん変化し電撃的な重症化傾向が増したと述べている。
 わが本邦に最初に渡来したのはいつ、誰によってか気になるところだが、報告書はそれに対して断定を避けている。しかし、大正7年5月上旬南洋より横須賀に帰った軍艦に同病の患者がいて上陸し広めた可能性、そして同年9月北米より横浜に入港した船舶に多数の同病患者がいてやはり上陸後広めたという具体的な事例を挙げている。なお初春頃、国内で同様の風邪様の病気があったが報告書に書かれているがこれがいわゆるスペイン風邪かどうかは疑問を呈している。ともかくも早ければ初夏、遅くとも晩夏には日本でも流行が始まったことは確かである。

 いよいよ次はワイんくの徳島である。初発は?ちょっと見にくいが上にある報告書の一部写真を黄色線に沿って見てほしい。一番上欄、徳島の次の欄が初発月である。これで見ると十月であることがわかる。

 ここで注意して見てもらいたいのは徳島県の人口と患者数の比である。10月流行から翌年の1月15日までのわずか三か月の間に罹患した人がなんと総県民の54.1%に達していることである。当時の徳島県の総人口は約75万人である。〔おもっしょいことに(?)100年後の今日とほぼ同数である。もっとも当時は若年層の人口が多く、老年人口が少なかった。またこの頃のモラエスさんの日記を読むと徳島市の人口が7万余りとある。大正期は郡部、今でいう過疎地に人々が多く住んでいたのが違っている。〕

 そのわが全県民の約6割がたった三ヶ月の間に罹患したのである。驚くべき蔓延の速さである。しかし、これ、まさに今、我々がリアルタイムで見聞きしていることである。今から一か月半ばかし遡ってみよう。欧米諸国はこの疫病の感染者はほとんど顕在化しておらず、日本のダイヤモンドプリンセス号における武漢ウィルスの防疫を第三者的な目で見ており、感染などどこ吹く風と日本の当局の不手際をいろいろあげつらっていた。ところがわずか一か月半で、欧米では感染爆発でイタリヤやスペイン、米国ニュヨク州などは大変なことになっている。

 そう考えると大正期の徳島で3か月の間に全人口の三分の二近くが罹患したのも何ら不思議ではない。大正期の疫病と今の武漢ウィルスの感染・蔓延の素早さはほぼ同じであるといえる。もう一度上記の表に戻ってみてほしい。次は死亡率である。徳島での初発から3か月でこの疫病で亡くなった人は第三欄の太字の数字で示されている。4.279人である。五千人近くの人がなくなっている。死亡率こそ1%強だが、全県民の6割が罹患し、総数が多いのでこれだけの数になったのである。これも今現在、パンデミックで欧米の人がたくさんなくなっているのと同じ理屈である。

 なんぼう、平均寿命が今より低い大正時代とはいえ、阿鼻叫喚とまでは言わないが、世の中は疫病パニックになったのではなかろうか。もし今、県内で新種の感染力の強い流行病で五千人近くが三ヶ月で亡くなったら、どうだろうか、と思うと身震いが止まらないくらいの怖気が生じる。

 では実際に当時の徳島の生活でこの疫病はどのような影響をもたらしていたのだろうか。それを知る手掛かりの一つに大正期を通じ昭和初期まで徳島市内の長屋で暮らしたポルトガル人モラエスさんがいる。彼はなかなかの文筆家で随想、日記、あるいは手紙などを残していて、当時の徳島の庶民の暮らしを知るうえでのよい資料となっている。その中から、ポルトガルにいる妹に出した絵はがき書簡がたくさんある。それを見てみよう。左は絵はがきの表の絵である。

 徳島の流行が始まったのが十月(大正7年)とある。隣の県の香川、愛媛などを見ると上旬から下旬ころだろうと推測される。まず
 10月12日の絵はがき書簡(・・・は省略)


 幸多い1919年の新年を迎えるよう年賀の挨拶をまた送るよ。1918年の年末はよい予感がする。・・・




 これを読むと徳島ではこの時点で目に見えた蔓延はしていないようである。年末はよい予感がするとまで書いているので、まだ徳島は安穏であったことがわかる。絵はがきの絵は阿波踊りである。

 ところが次の絵はがき
 11月17日になると


 ・・・僕はここでインフルエンザの伝染病に抵抗している・・・





 と書いている。
 さらに
 11月23日には


 ・・・見ての通り僕はインフルエンザから免れている。さようなら





 と書いている。

 結局モラエスさん自身は第一回目の流行からは免れたか症状がほとんどないような感染であったようである。ポルトガルの妹にあてた絵はがきであるため、心配させまいとできるだけ抑制的に書いたのかもしれない。しかしこの大正期のパンデミックはポルトガルもほぼ同時期襲ったのであるから、詳しい説明はなくてもこの一文だけで妹には日本も同じように大流行になっていると通じたのではなかろうか。

 この時期の(大正7年末)地方新聞があればこの時の流行の様子を知るうえで最もよい資料になる。そう思って市立と県立の図書館の過去の地方紙のマイクロフィルムを調べたが残念なことに大正7年の地方版はどちらの図書館も欠けていてなかった。ネットで唯一手に入った徳島地方紙のこの疫病についての記事が下の写真である。11月6日の記事である。大阪朝日新聞四国版(11月6日)の記事
内容は 
「全県下を風靡し、各小学校、県立学校も閉鎖せざるは一部2~3校に過ぎず、総ての機関は殆ど停止せんとす。死亡者続出し、過日の如き徳島 附近の火葬場の如き一夜に五十棺以上を持ち込み、為に焼き尽くす能わざる状態なり‥」

 一日当たりの急激な死者の増加のため火葬場の渋滞が起こったことがわかる、荼毘が間に合わず深夜に積み重なる50もの棺桶、非常にゾッとする情景ではあるが、これは今現にイタリアやスペインなどで起こっていることである。なんと大正時代から百年たち医学や社会システムがこれだけ発展していても疫病の猖獗を防げずに百年前と同じ悲惨さを辿っているのである。

 このことについてはモラエスさんの随想日記「おヨネとコハル」の中にも書かれている。
 
 『・・・たとえば大阪にしろ神戸にしろ、大きい火葬場が用意している大きいカマドではほとんど火葬もできないほど、葬式も出せない始末である。死体は火葬場のそばで腐るにまかせて幾日も自分の順番が来るのを待っている・・・私が住んでいるこの徳島でもそれとよく似た情景を見ることができる。ある夕べ、はっきり記憶している、この市のある狭い横町で、ふと五つの葬列が次々に続いていくのに出会ったことがある。そしてその全部が見たところ長くうねった一つの行列に見えた。ある仕立て屋の店に注文にいったところ、その家族全体、九人、がその疫病で寝込んでいたと知らされた。私の近所の人々、知り合いの人々、日ごろ買い物をする店の人が相次いで病床に倒れて、助かるものもあれば死ぬものもあった。子どもの看護のためとか、父、母、夫、妻、つまり愛する誰かの看護のためとかでがっくりしていて誰の顔を見てもひどいやつれようであった。』

 モラエスさんがこの随想を書いた日付を見ると1919年(大正8年)の9月となっている。疫病の第一回目の蔓延は前年10月に始まり、徳島では約五千名もの死者を出し、この年の5月以降は死者0になっていて一回目の流行は終わっている。そして二回目流行が始まるのが11月下旬なので、この状況は一回目の時のことである。一回目流行時のピーク時には推定で一ヶ月に1500人くらいは徳島で亡くなっているので上のような状況になるのも、なるほどそうなるわなと頷かせるものがある。

 海外から持ち込まれ、ここ徳島でも蔓延し多くの死者を出したこの風邪様の疫病を人々は「スペイン風邪」と呼んだ(スペインが発祥ではないのだが)。大正7年10月から爆発的に蔓延し、数か月後には症状の見られたものだけでも全県民の6割ちかくを感染させたこのスペイン風邪は、徳島では翌年4月後半期に患者の発生は0となり、その後、5、6、7月とずっと患者0が続き、ようやく終息したのである。まさに感染症の専門家が言う「全人口の6割以上が罹患すれば集団免疫ができ終息に向かう」という通りの展開を辿っている。

 このように大正8年4月にはさしものスペイン風邪蔓延も急速に衰え、翌月5月には罹患者0を迎えた。集団免疫ができたためであろう。ところがなぜか同年の晩秋の頃には再びパワーアップして第二回目の流行が始まるのである。いったいなぜ?集団免疫は効かなかったのか、それとも病原菌が別物に変異して集団免疫が機能しなかったのか。なぞは残る。現在に至ってもそれに対していろいろな説がありはっきりしたことはわからないそうである。ともかく大正のスペイン風邪は一回目よりはるかに高い死亡率を伴って再び襲ってきたのである。

 これ、今のパンデミックに当てはめて大正のスペイン風邪と同じ経過をたどる仮定すると以下のようになる。自然の流れで大半が感染するか、あるいは有効なワクチンができて多数の人々に接種されて「集団免疫」ができ罹患者が0になった、ところが再び蔓延が始まり前回よりずっと高い死亡率となって広がっていく、ということである。もちろん実際に同じ経過をたどるとは言えないが、過去のよく似た呼吸器系の疫病パンデミックはこのような経過をたどったので、最悪そうなることも考えに入れておかなければならない。

 次回は徳島におけるその二回目の流行を見てみようと思っている。 

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