2021年2月6日土曜日

明恵上人に贈られたペルシャ文字

 大昔から、今の中東地域(アラビア・ペルシャ)の文物は日本に入ってきていた。有名なものに正倉院御物がある。ササン朝ペルシャで製作されたものかあるいはその強い影響下で作られたものが正倉院御物の中にある。しかし、今、私がその地域(中東)の文化や文物と日本の遭遇、あるいは受容で私が問題にしているのは、その時代である。興味があって調べているのは7世紀後半以降のイスラム社会との文物の遭遇・受容である。

 ササン朝ペルシャは、イスラムが生まれその結果できたイスラム共同体にペルシャが征服される前の王朝である。宗教は有名なゾロアスター教(拝火教ともいわれる)で文化、言語、文字も違っている。時代でいえば7世紀中期以前となる。これ以降、ペルシャの支配者はイスラム教徒となり、ペルシャの一般人にも徐々にイスラムの教えが広がり10世紀を超えると大半がイスラム教徒となる。またイスラム教の受容と同時に聖典クルアーンの文字であるアラビア文字の使用ががペルシャに浸透していく。

 そのことを前提に次の古文書を見てみよう。

 紙本墨書南番文字(したが全図、上は一部を拡大したもの)



 古文書だから漢字ばかりの羅列はいいとしても、何やらミミズののたくったような曲線の列が漢字の列とは直角に違って描かれている。現代人が見ると、これアラビア方面の文字じゃないかと推測がつくがこの古文書の作成されたのは西暦1217年である。当時の日本人が見てこれがどこの文字か推測はつかなかっただろうと思われる。この古文書もとは京都・栂尾高山寺支院の方便智院に所蔵されていたものである。実はこれは南宋に仏教修行のため大陸に渡海した僧・慶政が京都高山寺にいた師・明恵上人のために持ち帰ったものである。来歴をもっと詳しく言うと次のようになる。

 「慶政が、渡宋中の南宋嘉定10年(1217年)、泉州の船上において3人の異国人と出会い、彼らに「南番文字」で「南無釈迦如来 南無阿弥陀仏」と書いてもらったものである。慶政の師である高弁和尚(明恵)がインドに深いあこがれを抱いていたことから、土産とするために揮毫してもらったものだという」

 出てきましたね。明恵上人、私が最も魅力を感じる中世の坊んさんです。左が明恵はんといわれる同時代の肖像画です、なかなか写実的に描かれています。これを見ると明恵はんかなりの男前ということができますね。生没年は鎌倉前期(1173~1232年)これについてはブログにかなり詳しく書きましたのでそちらのほうも読んでみてください(ここクリック)。
 この明恵はん、お釈迦様のふるさとインドが大好きで、玄奘三蔵はんのように日本からインドの旅を企てました。もう身も心も準備ができて出発瞬前までに至りますが、結局断念してしまいます(これについては先のブログをご覧ください)。このインドに焦がれ焦がれたお師匠はんのために南宋に渡海した弟子が、インドまでいけなかった明恵はんにインド人らしき人に梵字を書いてもらって土産にしたものと思われます。

 さて、上記の古文書の文字、果たして梵字か、来歴のいわれとしては南蛮(蛮が番となっている)文字であるとされている。インド大好きの明恵はんに土産に持って帰ったのはいいが、梵字にも当然詳しい明恵はんが見ればこれは梵字でないことは明らか、しかしそれでもどこか南蛮諸国の国の文字らしいということで「紙本墨書南番文字」の古文書の名称になったものと思われます。

 このようにしてもたらされたいわゆる南蛮文字、鎌倉初期(1217年)から、どこの国の文字やらわからず秘蔵されていました。注目を帯びるのはそれからなんと700年もたってから明治も末になっていました。
 「どうも、こりゃぁ~、ペルシャ文字らしいでぇ~」
 と学者はんが気づき解読作業が始まります。

 和風漢文のほうは当然初めから解読されています。以下のようなものです。

此是南番〔ママ〕文字也」南無釋迦如來」南無阿彌陀佛」也、兩三人到來」船上望書之、
尓時大宋嘉定」十年丁丑於泉洲〔ママ〕」記之、
南番〔ママ〕三寶名」ハフツタラ ホタラム ヒク
 
 西暦1217年に南宋の泉州で僧・慶政はんは3人の南蛮人に会います。泉州は南蛮貿易(遥か南海から来るというので地域は東南アジア~インド、ペルシャ、アラビア半島)でやった来た南蛮の人たちの拠点です。そこで3人の南蛮人に会いますが、どう誤解があったのか(たぶん言語がわからず意思疎通に困難があったためでしょう)、この3人をお釈迦さんの故地の人と間違えたようです。その国の文字で南無釋迦如來、南無阿彌陀佛、と書いてくれと頼み書いてもらったのですが、明治以降に解読されてみると、仏さまの名前でも仏教の術語でもなく、ペルシャ文字でペルシャの詩を書いたものだったのです。僧・慶政はんはその3人の名前も自分の耳で聞いて聞こえた通り、ハフツタラ ホタラム ヒク、と書いていますが、今のペルシャ・イスラム圏の人のよく似た名はイメージとしてちょっと浮かんできません。強引に推察すれば、「ハフツタラ」と聞こえたのは、「アブドゥーラ」(アラビア風でありそう)かなと思いますが、どうでしょう。

一部を紹介すると

第1文前半(ペルシャ詩『ヴィースとラーミーン』より)

جهان خرمى با كس نماند فلك روزى دهد روزى ستاند

訳、歓びの世は誰にも永続きはしない/天は(それを)ある日与え、ある日とり去る

第1文後半(詩『シャー・ナーメ』より)

جهان يادگارست و ما رفتنى به مردم نماند به جز مردمى

訳、世は思い出、われらは去りゆく者/人に残るのは善き行いのみ

(岡田恵美子訳)

 前の私のブログ「回教徒との遭遇」(1月30日)で、史実で確かめられる回教徒と日本人の初遭遇は鎌倉中期、フビライが日本を脅すために派遣した回教徒の元使であると思っていましたが、それよりは70年近くも古いイスラム教徒との遭遇、そして彼らの手で直接書いてもらった文字が日本の古文書の中にあったんですね。驚きです。

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