2019年7月17日水曜日

今日から祇園祭

 蔵本の祇園神社(八坂神社)の今日の様子、日中なので誰もいない。賑わうのは日が沈んでから

 この参道に夜店が並ぶ。

 本殿横には特設ステージもできている。今夜から奉納大演芸会が開かれる。今夜は地元中学生のブラバン演奏と地元のオッサンオバはんらののど自慢大会がある。ステージの紅白の幕の後ろは共同墓地、賑やかな夜のお囃子に一か月早いが亡者の霊も浮かれ出てくるかも。
 今夜から21日(日曜まで)いろいろな催しがある。土曜日は古武道の「剣舞」たら言うのがある、見たことないので見にこようかなぁ。

 最近、古代のインド史をお勉強しているがこの祇園祭の名のいわれとなったのは古代インドでお釈迦様やその弟子そしてつき従う大勢の修行者のため、ある長者が土地と建物を寄進してつくった修行道場『祇園精舎』に由来しているということを最近知った。この「祇園精舎」という名はほとんどの人は聞いたことがあるはずである。もちろんワイもそう。高校古典で必ず習う平家物語の一節「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり云々」というのは誰しも頭の片隅にインプットされていよう。

 祇園というのは古代インドにあった修行道場いや僧院といっていいかもしれない祇園精舎が語源だったのである。でも千年近くもの大昔の日本でどこにあるのか定かでないはるかかなたにある天竺国の祇園精舎ってどれだけイメージできたのだろう。平曲に取り入れられるくらいだから何らかの仏教施設としてのイメージはあったのだろうか。当時の人の祇園精舎に対するイメージを知りたくて同時代の文献を探すと、その「祇園精舎」に関する由来の話が見つかりました。平曲より少し古いが有名な「今昔物語」にありました。高校の古典ではこの今昔物語は本朝部の世俗の巻が有名で扱うのはこちらばかりなので知られていないのですが今昔物語の第一巻は天竺部なのです。その一巻の第三十一話に祇園精舎を寄進した長者の話が述べられているのです。『須達長者祇園精舎を造れること』というのがそれです。大昔に遡れば遡るほど仏教信仰は盛んで特に仏教説話はもてはやされます。中世の日本人のほうが「祇園精舎」については高校の古典で名前だけ知っているわれらよりずっとよく知っていて、その何たるかをしっかりイメージできていたのである。その今昔物語の説話には祇園精舎には大伽藍や多くの堂舎、もちろん生活に供する建物も含んで建ち並び、そこにはブッダをはじめ多くの弟子が起居し、そのほか500人以上の修行者もいたとあります。もちろん衣食も長者によって供養されていました。その長者(インド名はスダッタというが今昔物語の日本風の発音では須達・すだっ?になっている)がこの祇園精舎を造るにあたってその土地を手に入れるいきさつが面白いのだが本題とは関係ないので興味のある人は巻一、三十一話を読んでください。

 このように中世人には直接知らなくても超有名だった祇園精舎には当地の(インド)の多神教の神様の一つが守護神としていました。それが日本へ伝わってきたのが「牛頭天王」、これがまさに祇園社の神さまでした。そこで別名祇園神とも呼ばれていました。ここから祇園神社となり、祇園祭という名になったと考えられています。下が「牛頭天王」、左は日本に江戸時代来たケンペルが描いたもの

 こんなに中世以来名前だけは有名だった「祇園精舎」ですが、江戸時代が始まる近世になっても誰一人として「祇園精舎」を見に行った人がいません。お隣の中国なら1500年以上も前から法顕だの玄奘(三蔵法師)だのがはるばる天竺まで行って「祇園精舎」を見てます。日本人も見たかったに違いありません。特に仏教を篤く信奉する人ならね。でも天竺ははるか遠い。中国なら地続きだから理論的には這ってでも(?)行けるが、海国日本では海は歩けない!でも待てば(500年びゃぁも)・・・とうとうチャンスは訪れます。江戸時代のごく初期、まだ鎖国令が出されておらず、南海貿易に大勢の日本人が船を仕立てて南方の海に勇躍していきます。貿易の利だけ求めたのではありません、もちろん大部分はそうでしょうがチョッぴりロマンもあったはずです。「祇園精舎」に行くという夢もその一つでしょう。しかしその場所といっては天竺にあるということ、それと玄奘の「大唐西域記」や法顕の「仏国記」の紀行文しかありません。当地のインドでも仏教が廃れて500年以上たちます「祇園精舎」は荒廃して廃墟、埋もれているかもしれません。地元のインド人に聞いてもわかりゃぁせんのに果たして日本人が「祇園精舎」にお参りできるのかはなはだ疑問ですね。

 しかし、この近世の海外雄飛期に「わいは祇園精舎に行ってきたわ!」という人がぞくぞく現れます、いやもとい、ぞくぞくは言い過ぎ、何人かが行きましたと体験談とともに話し始めました、ホンマやろか?まだ20代だった徳川三代将軍家光も「祇園精舎」にロマンを感じたのでしょう、自らが(行けまへんが)命令しています。長崎のオランダ語の通訳・島野兼了(嶋野兼了)に仏教の聖地「祇園精舎」の視察して来いと。島野兼了はおそらく行ったという日本人の体験談をもとに天竺(インド)の「祇園精舎」といわれるところまで行って視察してきます。別の日本人は「わい、行ってきた証拠に、自分の名前石壁に彫り付けたわ」とかいう人もいました(ずっと後その落書きが発見されている)。この島野兼了は祇園精舎といわれる遺跡に落書きは残しませんでしたが行った証拠に「祇園精舎」の絵地図を残し、その模写が今に伝えられています。それが下の図、『祇園精舎図』です。

 しかし明治になってどうもおかしい、ということで詳細にこの図や当時行った人の話を調査した結果、彼らが「祇園精舎」と思い込んでいたのはインドではなくカンポチャにある「アンコールワット」であったことが判明しました。南海の向こうにある天竺の大伽藍ということでカンポチャの「アンコールワット」をそれと思ったのでしょうね。でもそれはそれですごい仏教施設探求の冒険じゃありませんか。

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