2019年7月5日金曜日

古代阿波の廃寺5 阿波国分尼寺

 今まで紹介した郡里廃寺、石井廃寺、川島廃寺は白鳳時代から奈良時代前期までに創建された寺であったが、この国分尼寺はそれよりはすこし遅くなる。創建は奈良時代中期以降であると推測されている。ご存知のように尼寺創建のきっかけは天平13年(741年)2月14日、聖武天皇から出された「国分寺建立の詔」である。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどであった。

 詔が出されてすぐに全国に国分寺や国分尼寺ができるわけではない。資金、技術、労働力、本尊、仏具、各地の寺ごとに必要であり、また各寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められたためその員数(足りない場合はその養成)も必要であった。そのためここ阿波でも国分尼寺が実際建立されるまでには10~20年はかかったであろうと思われる。この少し南にある阿波国分寺が文献上現れるのは天平勝宝8年(756年)であるので、尼寺もやはりその少し前頃に開山されたのであろう。

 その尼寺発掘跡に見学に行った来た。(7月4日)

発掘は昭和時代にかなり進み、左地図のように赤線部が史跡として指定されたあと敷地は荒地として保存(放置?)されていたが徐々に史跡公園として整備されつつある。とはいっても平城京跡のように建物まで復元しようというような計画ではない。尼寺跡に整備後の完成予想図が出ていたが次のようなものである。




 現在、尼寺の伽藍の一部である「講堂」の基壇部分が作られている。次の写真がそうである。(そのほかの場所は草ぼうぼうのまま)

 その「講堂」の説明板

 ところで先に挙げた史跡指定の地図の赤線内を見ると尼寺の伽藍配置が示してあるが、これには「塔」がない。今まで見た郡里廃寺、石井廃寺、跡には(川島廃寺跡は定かではないが塔部分もあったと思われる)「塔」の基礎部分や礎石などがあり伽藍には塔がそびえていたことが確認されているが、この尼寺には「塔」ないのだろうか?しかし聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔には『各国に七重の塔を建て…』とある。これは国分寺のみのことで国分尼寺には当てはまらないのであろうか。そこで各地の国分尼寺跡の史跡の説明図を探してみる。

 まず下野の国分寺と国分尼寺の想像図、手前の大きな伽藍が国分寺、なるほど七重の塔があり、金堂、講堂など七堂伽藍がそろっている。そしてはるか向こうに見えるのが下野の国分尼寺、これを見ると「塔」ない。

 次に三河の国の国分尼寺史跡にある尼寺想像図を見てみる。今度は先の想像図とは反対で尼寺のほうが手前で国分寺が遠くにある。これを見るとやはり尼寺には塔はない。

 これで尼寺の標準仕様に「塔」がないことがわかる。一般的な国分尼寺の伽藍配置図は次の図のようになる。阿波尼寺跡の史跡の説明板の配置図とも一致する。

 出土物

 国分尼寺礎石(この跡になく石井駅前の地福寺境内に展示されている。

 国分尼寺廃寺全景(動画)

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