2021年10月25日月曜日

博物館特別企画展を見に行った(一部紹介)

  特別企画展は有料なので、特に興味のあるテーマの時以外は見ない。しかし今回は主テーマが「徳島のおふだ」副題が「~はらいたまえ きよめたまえ~」なので図書館で企画展のポスターを見たときから見学のつもりだった。歳ぃいくといいことはあまりないが65歳以上の入館料は半額になったのでこれはよかった。

 入り口で早速立ち止まり、まじまじ見る(ちなみに展示品はすべて触るの禁止、しかしフラッシュなしの写真撮影は一部を除いてOKである)。おおきなポスターの下に置いてあるのは幾歳月を経たであろうか古い神棚二つである。


 小さいのと大きい神棚である。どちらも神社正面のミニュチュァになっている。小さい方はひさし屋根なのに対し、大きい方は唐破風のついたものである。二つとも同一の家のものかわからないが、大昔、私を育ててくれた祖父母の家にも確か二つの神棚があった記憶がある。やはり大と小の神棚、大きい方はこの展示ほど立派ではない一回り小さいものだが、このように白木のミニチュァ神社建築の正面のようであった。小さい方は文字通り、小さな棚にお祀りしたもので本体は何であったか覚えていないが、前にはカワラけの皿やミニ三方、小さな花立などがあり、それには松か榊かさしてあった。小さいほうの神棚は釜屋(今の台所)にあったからなにかそれに関係した神だったのかもしれない。


 大きいほうの神棚はお正月(ウチは私の小学校高学年くらいまでは旧正月で祝っていた)にはロウソクが灯り、神棚は新しいたくさんのお供え物がおいてあり、横には松飾などもあり派手であったのを覚えている。こちらは本体は何であったか覚えていないが複数だったのは間違いない。木札や紙の札でも熨斗のような形をしたものがいくつもあったようである。

 ここを抜けるといよいよお札(思っていたよりずっと多様で多量のお札が展示されているのに驚くとともに喜んだ)の展示である。一応、ほとんど網羅する形で、どれかの写真の一枚には必ずどのお札も入るように撮影したが、たくさんありすぎるので、特に昔のウチに関係あり、それで目に留まったものだけ紹介する。

 まず、ウチの宗旨は古義(高野山派)真言宗であるが、昔はほとんどの家がそうであったようにいわゆる神仏混合であり、仏壇もあれば神棚もある、宗派の違う寺にも非氏寺にもお参りするのは当たり前、ある寺社に御利益があるといえば出向いて拝んだ。展示室の一部には、ある一家が保存してあるお札類を集めてあったが、寺、神社、宗派、阿波内外を問わず多種類のお札があった。一神教の外国人が見たらなんと無節操なとおもうが、昔の日本人の心情としては、多くの神仏の信心はむしろ信心深さ、敬虔さ、のあらわれと思うのが普通であった。

(ここからのウチ、という話は私が小学校時代の祖父母の家の話である)

 ウチに氏神神社からの持ち回り役の人が、毎月か数か月ごとか期間はよく覚えていないが、ともかくそれほど頻繁に「お日待ち」と称して神社のお札と小さな切り餅を配布してきたのを覚えている。子どもの耳に「おひまち、でよぉ~」という言葉が残っているがその時は何のことかわからなかったし、もちろん何やら難しい漢字で書いてあるお札の文字も覚えていない。しかし次の展示をみてその言葉と意味がよくわかった。おそらくウチの「お日待ち」もこれと変わらなかったのだろう。


 ウチでは特にジイチャン(明治中期の生まれ)が信仰していた神仏習合の「権現」さんに「高越大権現」がある。麻植郡の霊峰高越山の標高1000mにある高越寺である(寺だが鳥居もある)、幼稚園の時から小学校低学年にかけてこの御山に数度上った。山頂付近のあっちこっち小さな社を回ったようであるが、そのことは全く覚えていない。子どもの時高熱が出て寝ているときに、祖父がその話をして、お前ぃはジイちゃんとお山巡りをして神仏の加護を受けているから心配ない、とか言っていたのでそうだったんだ、と思い出す。下はその高越大権現のお札(真ん中)、ウチも神棚に木札かお札があったに違いない。


 それからウチでは春秋のお彼岸には必ず連れて行ってくれた札所の寺がある。川向うなのでバスで行った。「切幡寺」である。その切幡寺に登る途中に母方の先祖の墓があるのでそこへお参りし、そこから石段を登るが、途中の小堂で必ず、そげ木に祖父母が文字を描き、経木流しというのをやった。(経木に柄杓で水をかける)展示の多量のお札の中にはその切幡寺のお札もあった。


 阿波国内外の多種の寺社のお札があるとはいえ、まさかウチの檀那寺(そんな大寺ではない)のお札の展示はないだろう(そこまでやれば阿波国全部の寺の札を展示しなければならなくなると思うので)と思っていたが、見ていくと、なんとウチの檀那寺のお札もあった。


 祖父が結婚してからは鴨島に住んだが、先祖は阿波郡内にいた。吉野川の川中島である善入寺島(大野島)に住んでいた。ここには三ヵ村もあったが、吉野川の改修と洪水予防のため大正年間に全村退去した。その関係でウチの檀那寺は阿波郡にあるのである。

 このほかにもいろいろ紹介したいお札(珍しいものも含め)がありますが、今回のブログでは昔の我が家にあったであろうお札を紹介しました。

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