2021年10月11日月曜日

酔生夢死や人生劇場ということについて

  一度しかない人生だから一日も無駄にすべきでない。と言われる。それでは何が有意義な人生の過ごし方か?と問われれば、そんなことは一般的に言えるものではない。人により価値観は違い、あるいは宗教的な意義を大きく認める人もいるし、そうでない人もいる。何が有意義な過ごし方かと問われれば千差万別で一概には言えない。しかし反対に、人生を無駄にする生き方というのはどんなものか?と言うのはそれに比べれば答えやすい。

 中学の国語であったか高校の古典であったか、知った古典(漢文)の四字熟語に『酔生夢死』というのがあった。元気あふれる十代である。将来の夢も抱き、学力能力をつけ、なにかすごい大人になってやろうと考えていた時期である。その四字熟語を(教科書の説明もそのようであったと思うが)否定的な人生の過ごし方として受け取り、こうなってはいかんな、と思ったものである。

 しかし今、人生の終着駅が近づくこの頃になって考えてみると、若い時とは違った受け取り方をするようになった。若い時なら、のんべんだらりと、そしてぼんやりと日々をすごし、気づいたら死だった、人に評価されることもなく、なにものも残さず、生きているうちから忘れ去られる、そんな大人になり一生を生きるなんてまっぴらだった。しかし、高齢になった今思うのは、ほろ酔い気分で日々すごし、夢をみつつ、死ぬ、のが『酔生夢死』だとすると悪くはないのではないかと思えてくる。

 というのも70歳を過ぎた今、できることもなすことも少なくなっている、今の時点で将来の夢は?などと問われるのは質の良くない冗談であろう。そして子孫も含め何か形あるものを残すことも不可能である。持病もあり、近々、多病質になることは目に見えている。落ち込むことも多く、苦痛が怖いし、死も恐い。もし『酔生夢死』の意味が、ほろ酔い気分で日々を過ごし、(いい)夢を見つつ死ぬ、のなら残された私の人生は悪くはない。

 若い時の自分であっても、『酔生夢死』をそのように解釈されれば、生来ぐうたらな性格だから、ちょっといいかな、と思うかもしれないがたぶんすぐ否定しただろうと思う。というのもほろ酔い、夢気分、はうっとりして楽しいかもしれないが、頭脳の働きは極度に低下し、理性の透徹さは失われることを意味する。若い時から何かを成したい、なにかすばらしくイイものを形として残したいとはあまり考えなかったが、知力を働かせ、なにか生きている以上、生きることの深淵な「何か」を知りたい。そして知的満足感を得たうえで、頭、心の中でなにか「悟る」ことができればいいと考えていた。そうだとすると理性の透徹さのない酔生夢死は幸せ感があっても、やはり嫌である。でもいろいろな「苦」が多くなる人生の終着駅手前はそれがいいかな、とも思うし、やはり苦痛はあっても、死の間際まで理性はよく働いてほしいとも思う。

 人生を大劇場にたとえる例があるかどうかは知らないが、言い古された言葉に、「人生で晴れの舞台に立つ」とか「スポットライトを浴びる」、「人生の回り舞台がガラッとまわり」のような言葉がある。

 何で人間ってこの世に生を受けてきたのだろう、何のために生きているのだろう、そもそも人ってなんだろう、というような「人」の本質なんかは私も含め多くの人にわかりはしない。そんな時、「この世」とは、大劇場に詰まっている人々のことを言うのではないのだろうかと思うのである。その大劇場の人々は二つに分けられる。一つは「舞台上の人々」(俳優や裏方、演出、脚本家、大道具小道具の裏方も入る)である。これらの人は大劇場の中にいる人々の少数である(5%もいるだろうか)そしてもう一つの人々は劇場内の大多数を占める「観客」である。

 ここでちょっと「この世」を大劇場にたとえるため、ある前提条件を付けようと思う。そんな複雑な条件ではない。それは中にいる人はすべてこの劇場に入る前の記憶が全くないのである。この劇場に入る前どこから来たのか、どこの何兵衛か、頭に少しも残っていないのである。そして劇場がはねたあと、どこへ行くか、どこへ帰るかも全くわからないのである。人々(二分された人々)はただ劇場にいる間のみ自分の役を演じるか、あるいは暗い観客席にジッと座って明るい舞台を見て楽しむのである。

 少数派だが舞台上の人々は自分の役をしっかり演じ、観客に楽しんでもらおうとする。舞台上では全身全霊を尽くし役を演じる。見るからにすばらしい役を演じてはいるが、それが果たして、その人本人の本源的なキャラ(性格)か、と問われれば当然それは違うだろう。大喝采を受けてもそれは役をうまく演じきったことによる。本源的な本人は何処にいるのだろう?「役」という仮面を脱いだ素顔は、そして本当の「こころ」は。

 そのほかの大多数は観客である。ほとんどの時間は仮構の上に成り立った舞台上の「世間」を眺めてじっとしていて、ひたすら見ながら、筋についてあれこれ考えたり、演技の妙を楽しむ。短い時間だが、時々、幕間があり、トイレに立ったり、ロビーでタバコやコーヒーを飲む時間はあるだろうし、お隣の人と少し話をする時間もあるだろうが、話すのは舞台を見てどうかということだろう。その人も本来の自分はどんな人間か知らない、ただ人生という舞台上を眺めている、ひたすら見るだけである。

 このように世間を大劇場にたとえると、私なんかは人生の終わりが近づいてみると、自分は「観客」だったんだなぁ、と思う。時たまの幕間に少し動くくらいで、ひたすら世間という舞台を見て過ごしている。だいたいは楽しい演技が舞台上で展開され、それなりに満足した時を過ごしている。しかし舞台の終わりが近づくにつれ、「自分は何処から来て、どこへ帰るのだろうと」の不安が萌してくる。そもそも自分か何者かわからないのはすごく不安である。そう考えだすと本来は大団円で満足感充足感を与える舞台の終わりを見るどころではなく、席にいて大きな不安に沈潜してしまう。

 しかし物は考えようである。大劇場にいる全員がどこから来たか?も、どこへ行くか?も知らない。そうなら、この大劇場に今現在いる以上は、最後まで世間という舞台を見切ってやろうというのが正解かも知れない。舞台上の役者は仮構のキャラを全身全霊で演じているため演じつつ別のことを考えるのは難しいが、幸いなことに観客はそうではない。舞台を見ながら批評もできるし、別のことだって考えることもできる。暗い静かな観客席にジッと座って見ているだけだからできることである。もうこうなれば舞台の隅々までしっかりとみて、自分なりに批評をし、世間という舞台にかかっている劇の意味を考える、というのがいいだろう。もしかすると観客の中には「なぜ、自分はこの大劇場にいて、このような舞台を見せられているのだろう?」という本源的な問いに、自分なりの解答を得る人がいるかもしれない。もちろん自分も最後はそうありたいと思うが、無理だろうなぁ。

 さてそこで『酔生夢死』という言葉にまた帰っていくが、昔の歌舞伎の小屋なら、酒をちびちびやり、ほろ酔いのいい気分で、夢のような舞台を見る。本来の客の楽しみとしてはそれが最もいい楽しみ方かもしれない。しかしそこに存在する理由がわからない本源的な不安が常にうずく観客ならば、少なくとも、何故かを考える力、批評する能力は衰えさせたくないものである。たとえそれが無駄な努力ではあっても。

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