2020年8月4日火曜日

仏さんと米

 歴史上の仏さんはガゥタマ・シッダルタといわれていて現代のネパル国に当時あった釈迦族の国の王子といわれている。地理的に言うとヒマラヤ山麓からガンジス川平原に向かう途中にある。この地帯、山麓からガンジスにかけての最も主要な作物は「米」である。これはシッダルタ誕生の当時も変わらない。釈迦誕生の紀元前5~6世紀ころにはこの地域のコメを含めた農産物の生産が増大し、それに伴い鉄や綿製品の手工業品も作られ多く流通するようになった。またもっと南方の特産品(香料、香木、象牙)もこのガンジス流域(流路がそのまま交通路になる)に集まり、また移出されるようになる。これが商業、そして都市国家の生まれる土壌となった。

 都市国家は周りとの合従連衡を通じて国家に成長し、釈迦が生まれた前後は十六王国が存在したといわれている。釈迦族の国は弱小国で十六国の一つで大国でもあるコーサラ国に従属する国であったようである。もともと十六国の支配階級である王侯貴族(クシャトリア)や司祭階級(バラモン)はそのルーツをたどれば中央アジア西部から進出してきたアリヤ人たちである。アリヤ人はその故郷では牛、羊、ヤギなどを飼育しその乳、肉などで生活する民族であった。寒く乾燥した風土もあって米などは見たこともなかったに違いない。しかしインド北西部に進出し、やがてガンジス上流域に達し、徐々にガンジス平原に展開するにしたがって土地生産性の極めて高い水田を手に入れ、支配、経営(やがて自らも)したのである。

 紅毛碧眼であったであろう侵入当初(混血が進む前)のアリヤ人の生活手段は牧畜であった。しかしガンジス下流域に浸透するにつれ生産性の高い水田を手に入れたが、イメージとして(白人)であるアリヤ人が泥田に入って米の植え付け(田植え)をする姿は思い浮かんでこない。たぶん支配した原住民や戦争でとらえられた奴隷などにそんなジュル田んぼの仕事をやらせたのであろう。でも釈迦の生まれるころになるとかなり下層民・被支配民との混血も進み、見た目では支配・被支配の違いは無くなりつつあったと思われる。

 現代インド人(ガンジス流域地帯)は色は確かに黒いが、掘りの深い顔、大きな二重の目、カールした髪の毛、長い手足など、日本人から見ると我々よりずっと白人に近いように見える。今ではそんな人たちが当然ながら農村では米を作っている。ところで2500年前の釈迦族は果たしてアリヤ人との混血が進んだ現代インド人のように白人っぽかったのか?実はこれについては辺境に近い地域の釈迦族は実は日本人ぽい顔をしたチベット系の民族じゃないかという説が有力である。またもイメージを出して恐縮だが手足が短く、がに股の多い黄色人種は重心が低く、身を屈めた踏ん張りが白人よりずっと適しているように思われるので、黄色人種のほうがなんか田植え、米作りに向いていそうである。

 釈迦族はワイら日本人と変わらぬ黄色人種系の姿形をしていて田植えなど米作りにいそしんでいたのかもしれない。釈迦族と米の強い結びつきは釈迦のお父っつぁんの名前からも知れる。釈迦の父王はシュッドーダナ王というがこれは「清らかな白米」王という意味でそのため仏典では父王の名を「淨飯王」(じょうぼんのう)と呼ぶ。また親族にも「白飯王(シュクローダナ)」「斛飯王(ドロノーダナ)」「甘露飯王(アムリトーダナ)」というのがいて米とのこだわりを強く感じる。

 日本では昔、田植えを祭礼のように賑やかに行い、豊作を祈るというのがあったが、釈迦族ももしかするとそのような祈念を込めて支配者の名につけたのかもしれない。下は日本の16世紀後半の風俗図屏風に描かれた田植え祭礼の風俗図である。笛、太鼓、鼓をならし、祈念の舞を舞う一団のまわりで田植えが華やかに行われている。

 釈迦族が白人種か黄色人種かどちらに近かったかはおくとしてもガンジス平原に進出したアリヤ人の末裔たちは畜産から水稲農業に基盤をおく生活になっていった。しかし遠い先祖の牧牛生活のなごりか牛は多く飼育され、のちには神聖視され肉は食べなくなるが牛乳及びその生産物は米につぐ彼らの食料品の重要な部分となった。そのため牛と稲はインドの農村のどこでも存在する。一方、東南アジア、東アジアが米に基盤をおく農業であるのはインドガンジス平原と変わりがないが、こちらでは牛乳(牛肉)をあまり利用しない。東南アジアや中国南部の水田地帯でのタンパクの補給は家禽であったり魚である。

 仏典に象徴的な話がある。お釈迦様が苦行修行の末、中道を悟られ、衰弱した身に、村娘スジャータが「乳粥」を差し出されお釈迦様が元気を取り戻したという話である。これはまさにインドの重要な食物、「米」と「乳」で作られたものである。「乳粥」は今日でもインドの大切な食事のメニュである。暑さですぐに痛む乳製品は仏教でいう供養には向かないが米の方はインドでも東南アジア・東アジアで供養(お供え物として)用いられている。ウチラの地方ではもうすぐボニ(盂蘭盆会)だが大昔からお墓参りには供養三点セットがある。香(線香)、華(樒)、白米である。あとお供えするもののは随意、それらを用意して墓に供えたのである。

 ところで白米のことを銀シャリという、白米ご飯を「シャリ」と隠語で呼んだ寿司業界からきていると知ってはいたが、「シャリ」と聞いて思い出すのは仏舎利(ぶっしゃり)である。この場合シャリとは遺骨(白骨)をを指す。寿司業界のシャリもそもそもの語源はこの舎利(白骨)じゃないのかとネットで調べるとその可能性が高いと出ていた。仏さまが涅槃に入り、荼毘にふされ、その遺骨は後に八万数千に分けらえて各地に分配されたといわれている。そしてそれを納めた供養塔が作られた。それが仏塔(日本では五重の塔など)の起源であるとされる。当然、遺骨は数多くに分けられたため、その一つ分はまさに「米つぶ」のようなものだろう。そう考えると舎利(しゃり)が白米に見立てられるのは納得できることである。(建前としては五重塔の心柱の根元・礎石の下には仏舎利が容器に入れて埋められているとされる)

 昨日、暑い中、田んぼの横を歩いていると、米の花が咲いていた。目立たぬ小さな花で、開花時期も短く限られているため、現代人は案外見たことのない人が多い。写真に撮った。そういえば確か、江戸時代か、もしかするとそれ以前の篤農家、いや宗教家かもしれないが、この稲の実一つに如来さまのお姿が顕現されている。といった人がいたような、いなかったような怪しげな記憶がかすかに蘇ってきた。

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