2019年6月3日月曜日

ケンプェルはんもゆうてはったわ熊野はエロスやな

20181217

 熊野信仰の広がりとそれをになう人々
 この間、県立博物館主催の戦国時代の阿波の武士の熊野信仰の講座を受けたが、古文書が残っている関係でその信仰者は戦国大名の被官クラスの有力武士が中心であった。この時代熊野信仰が全国的に広がりを見せていたことが講座の古文書からわかる。また他にも全国に張り巡らされたネットワークの重要な結節点には「御師」「先達」が存在していたことが古文書に書かれている。御師も先達も近世江戸時代の各種信仰の講の主導者として有名であるが、少なくとも中世後期には江戸時代と変わらぬ職能を持つ人々が存在し熊野信仰を支えていたことがわかる。

 古文書には残っていないため支配階級より下の庶民などの熊野信仰についてはよくわからないが上の信仰するところまた下も習うのは当然であり、貴族、武士、そして土豪、名主とその信仰が広がるにつれその被支配の人々にも熊野信仰は広がっていただろうと推測される。しかし信仰は心の中の話である。支配者が信仰したからと言って庶民が心の底から信仰する動機には弱い。根こそぎ信仰に取り込むには、構築した有力者の信仰のネットワークを利用した神社側からの庶民への働きかけが重要になる。

 日本には八百万の神々がいる。みんな平等と言いたいが有力な神のいれば、それこそイワシの頭のような取るに足らぬ神もいる。これは神自身の力というより支配者や有力者にどれだけ信仰されているか、また信者はどれくらいいるかということによる。それだけに寺社のがわでもウチの神さんはこれだけご利益があります、とまあプレゼンを積極的に行うし、寺社関係者を各地に派遣して宣伝広報活動もやる。この場合、ウチの神さんの御利益だけでなく、ウチの参詣道にはウチの神さんの御眷属ちゅうような親戚の中小の神さんもあっちゃこっちゃに社を構えてますから参詣ついでに拝めば、一度の参拝だが多くのお神さんも拝むことになりまっせ、一つ口に放り込めば何度もおいしいちゅうやつですわ、と上手い口で述べる。ほかにも参詣道の風景の美しさや、途中にある温泉が霊泉でウチの神の御神威との相乗効果で無病息災ま違いなしとか、本殿近くの宿舎もよろしおまっせ、なんせ近くが黒潮洗う海岸ですから魚がとび切り美味い、とかゆうのも重要な宣伝広報活動である。

 この広報宣伝活動に派遣される人やそれに持たせるグッズも重要である。勧進に派遣されるのが若い美男美女ならば申し分ないが、自分の顔を鏡で見てもわかるようにそううまくはいかない。見た目の美醜は努力してもどうしようもないが宗教的オーラとそれに妙にまとわりつくとみられている色気は努力次第で身についてくる。よぉ~宗教的法悦と性的エクスタスゥィは不可分で混然一体となっているといわれているが全くその通りである。そっちのほうなら訓練と経験でモノになる。

 熊野比丘尼
 ここで熊野信仰の広報宣伝活動はじめ教宣、御祈祷、参詣勧誘、代参、そしてグッズ販売まで手広くやる「熊野比丘尼」と「熊野の山伏」が登場してくる。前者は比丘尼という言葉からわかるように女性、後者は男性である。男性の場合、山伏と呼ばれるが熊野に限らず修験道で山岳修業する宗教者をこう呼んでいるから別に熊野には限らず、その職能は熊野もほかの山岳宗教のそれも共通している。しかし女性の熊野比丘尼のほうはこれは熊野のみの特異な職能集団であるといってよい。他の修験の霊地にはこのような女性はいない。

 実は熊野信仰は女性と親和性の高い信仰である。下に示す地図は全国修験の霊場である。ご存知のように修験の霊場は山岳がその中心である。各修験の霊場はそれぞれの山岳が対応している。その多くは女性の立ち入りを禁止する女人禁制が多いし、常時でなくてもある期間は禁制である(現代はその大部分は解除されている)。神事も女性は参加できない。そんな中にあって熊野の修験霊場は珍しく女性の立ち入りは禁止していない。地図で熊野那智山と書かれているのがその霊場であるがこの那智山は西国三十三ケ寺の観音霊場第一番であり女性の参詣は大昔から一般的で、何度も参拝する人が多い。熊野古道にしても金峰山や大峰山の修験の道と比べると峻険ではなく山道とはいえ女性には優しい道である。途中、王子と称する社も多いし湧水、そして温泉も多くある。熊野三山巡りは体力的にも精神的にも女性が踏破できるものである。

 このような女性の信仰を集める修験霊場には男の御師や先達または山伏とは違う女性の宗教関係者が登場する。それが熊野比丘尼である。(男の)御師や先達は参拝を進めるだけでなく講を組織・指導しまた参拝団を率いて往復のいろいろな手当てをする今日でいうツアーコンダクターのような仕事もしたが熊野比丘尼はそのようなことはせず全国各地を巡って熊野詣でを勧めたのである。その名からもわかるように(比丘尼)尼僧の姿で旅から旅への勧進であるが戸別ばかりではなく村の神社、寺の祭礼などの人の集まる所での勧進がより重要である。具体的にはみんなが期待を込めて見守る中、抱えている箱の中から地獄極楽の描かれたものや那智の滝熊野三山をかいた大絵を広げて掲げ、その絵を見せて説明する「絵解き」をするのである。中世、娯楽の極めて少なかった時代である。ハレの日である祭礼で、熊野比丘尼のこのような絵解きを見ることは、庶民にとってウキウキするような楽しい娯楽の要素があるのである。

 絵解きと紙芝居 
 中世、村の祭礼でこのような熊野比丘尼の絵解きをみる村人のウキウキ感というか楽しみは、今日の人にはちょっと理解できないんのではないだろうか、特に若い衆には。若い衆みんなが持ってるスマホをチョチョイと撫でるだけで様々なビジュアルな楽しみを享受できるのが現代である。映画やテレビの楽しみをも超絶したビジュアルな楽しみを求めてやまないのが現代である。中世のたまさかのこのような楽しみの場は想像できないだろう。しかしワイらのような昭和20年代に生まれ30年代前半にこども時代を過ごした70近いジジイはかろうじてそのような楽しみの一端を知っている。とはいってもワイらが熊野比丘尼の絵解きを実際見たわけではない。あくまでもテレビもまだ家にはなく、映画もごくたま、たいした娯楽のない時代の比丘尼の「絵解き」に似たある楽しみである。それは何か?子どもの集まる広場や寺社の境内前にやってきた「紙芝居屋」である。

 紙芝居屋は昔あった配達用の荷台の大きな自転車に紙芝居のフレムや菓子類の入った木箱を乗せやってきた。荷台に積まれた紙芝居フレム組み立て支度ができると拍子木をカッチカッチとたたく、とそれは紙芝居が始まりますよ~、見に来なはれよぉ~、という合図だ。三々五々やってきた子供は自転車の荷台を半円形に取り囲む。このように取り囲める子供には暗黙の了解がある。それは紙芝居屋のオッサンから菓子を買うということである。幾種類の菓子があったか今となっては記憶が定かではないが、よく売れていてワイも買ったのが大きな丸いセンベイと水飴である。といってもこれは別々に買ったわけではない。なぜか二枚の大きなせんべいに箸の先に掬い取った水飴を鳥もちのようにつけ二枚のセンベイの間にはさんでサンドイッチにし、箸の棒をもってそれをパリパリ食べるのである。ほかにはスルメ、毒々しい色のついた水飴単体もあった(これは二本の棒をに水飴をつけ自分で練りに練って色が変わるのが楽しみだった)。このように紙芝居はオッサンから菓子を買った子供がだけ見られものであったが、じゃあ全然銭を持たない子は全く除外されたかというとそんなことはなかった。紙芝居の始まりの時は買わない子たちは遠くから取り巻くように見ていたが始まると徐々に遠くから近づいてきた。といっても紙芝居の内容オッサンの解説がわかるギリギリの範囲までで、買った子との境界ははっきりしていた。紙芝居屋のオッサンもその境界をあえて踏み越えない限りは目くじら立ててどうこうとは言わなかった。優しい時代であった。

 当時の紙芝居である、今から考えるとおそらくその一枚一枚の絵は印刷ではなく安物の絵の具による手書きであったろう。どこの地方をどれくらい回ったか、絵の端は擦り切れたかなりの使い古しであった、おそらく戦前からのものも多数あったに違いない(当時は昭和30年代前半)。それを見せながらおっさんが塩辛声で、説明し、ある時は登場人物の女性や子供の声色を使い分けたりして面白おかしく、おそらくオッサンの脚色をくわえながら紙芝居は進んでいった。現代からみるととても想像できないが、この紙芝居の絵とオッサンの言い回しにワイら子供は強く引き込まれ夢中になった。その熱狂感ワクワク感はただことなかった。紙芝居のストリは勧善懲悪的なものばかりでなく、露悪的なもの、グロテスクなもの、そして何よりワイらの心を強く揺さぶったのは、幽霊、怪物、異星モノ、霊験譚なのである。(この点後の昭和40年代から始まる少年モノのテレビ番組のほうが妙な倫理観に規定され、激しいものはなくなっていた)。

 この泥絵の具の絵の夢幻的な視覚、おっさんの、ワイら子供の心をある時はふるえさせ、ある時は慨嘆させる声音、テレビもないそして映画もめったに見られない時代にあってこのような視覚聴覚の刺激経験は、時代は数百年もの隔たりはあるが熊野比丘尼の絵解きと通じるものがある。どのような点で?ちょっと見てみよう。

 まず、どちらも人の集まる場所に出てくる。場所は広場や祭礼の境内地か隣接したところ。紙芝居屋は自転車とその荷台でそれとわかり、そしてカッチカッチの拍子木で知らせる。それをみて人が集まりはじめる。比丘尼はんの方はこれは女のボンさんで丸坊主あるいは被布で旅装束、笈や箱を持っているから極めて特異な格好である、見ただけでわかるし、その恰好だけで人集めになる。そして比丘尼はんは箱や笈からゆっくりと曼荼羅と称する大絵を取り出し掲げる。紙芝居屋もゆっくり用意するのは変わらない(自転車の脚立を固定する、紙芝居の木枠を組み立てるなど)、ぞろぞろ集まり始めた観客の期待は徐々に高まっていく。いよいよ始まりである。紙芝居の場合はタイトルがあり、物語に従って各場面場面のシーンが絵をめくる(これも鏡と自然に紙が落ちる力を使った仕掛けがあった)ことにより切り替わり、焦点化され物語に没入させていく。一方比丘尼はんの曼荼羅大絵は畳数畳の広さもあり、様々な人物、風景を含んだ場面がぎっしり一枚に詰まっている。もちろんそこは地獄極楽の世界あるいは熊野の世界で、ある秩序を持った宇宙(コスモスといっていいだろう)が広がっている。ちょっと見ただけではその意味は理解しがたい。しかし紙芝居のように場面が切り替わらない代わり比丘尼はんが指し棒や手で大絵の各部を示し、焦点化し説明を加えていく。

 紙芝居屋のオッサンは登場人物の声音を変え、説明を加える。当然セリフが多い。比丘尼はんの方はセリフはまずない。説明のみであるが、紙芝居屋のオッサンと違うのは持っている楽器(簡単なものでササラや小型の打楽器)などで拍子をとり、美声で歌ったり、御詠歌を唱えたりして人々にうったえかける。対する聴衆は昭和30年の子どもと中世の庶民との違いはあるが、どちらも信じやすく感動的な人々である。特に中世の人々は心底から地獄極楽、神々の世界があることを信じている人である。曼荼羅図を見せて感動させるのはむつかしくない。比丘尼はんの歌、伴奏付きの説明に、ある時は笑い、様々な風景や登場する人々の様を見て楽しみ、また地獄を見ては震え、比丘尼はんの説く神や仏の救いを欣求したのである。

 江戸時代までは街道にあふれんばかりにいた熊野比丘尼は今はもう断絶・絶滅してしまっている。しかし主に観光用に熊野のあたりで再現されている。どんな格好の尼さんか、どんな曼荼羅図か、その観光用に再現された熊野比丘尼の絵解きの写真を次にあげておく。

 熊野曼荼羅の絵解き、付録で補陀落渡海の絵解きもおまっせ

 下は「熊野観心十界絵図」である。

 この熊野観心十界曼荼羅は下のほうに地獄が大きく描かれ、上部には極楽浄土の阿弥陀仏が人を迎えに(救済)現れているので「地獄極楽絵」ともいわれます。その上部中央には「心」という字がありよく見ると十本の放射状の線が八つの鳥居と二人の敷物の上に座った悟りを開いた人に伸びている(十界という意味だろう)。その「心」を見つめよと絵解きするのがこの熊野観心十界曼荼羅である。上部のアーチは老いの坂とも呼ばれる。アーチの右下には生家があり両親がいる。生まれた赤ちゃん(ハイハイしてる)は最初の鳥居をくぐり人生を歩み始める。青年期~壮年期~老年そして死へとアーチは向かう。まわりの満開の桜、青々とした松、そして花は散り、枯れていく木々も象徴的である。そして死という鳥居をくぐると閻魔の庁があり、たいていの人は悲しいことには地獄へ向かう、しかしよく見ると地獄から救済する地蔵や救済される人々、また地獄の入り口の付近には幼子が地蔵の庇護のもとに遊んでいる図もある。他にも各所に焦点を当てるといろいろな絵解きができそうである。比丘尼はんの話術の見せどころである。人々はその絵解きに引き込まれ、地獄極楽を信じ、その魂の行方に感動したりあるいは慨嘆し、熊野の信仰をより固めたのである。

 次の図は「熊野那智参詣曼荼羅」である。

 熊野那智参詣曼荼羅は熊野の神社仏閣や人々の参詣の様相などを色も鮮やかに描いた宗教画である。これを人々の前で広げ開帳し礼拝させて、絵解きとしてその創建や神仏の霊験、主事にまつわる縁起伝承を説明したのである。那智の滝、那智大社、青岸渡寺などがみえ、貴賤上下の参詣人でにぎわっている。霊験譚や神社の縁起伝承などは熊野に限らずどこも似たり寄ったりであるがこの熊野那智参詣曼荼羅だけに特徴的な、もしできればワイにも中世・江戸期の比丘尼はんにぜひ絵解きして聴かせてもらいたいのがこの絵の右下部にある「補陀落渡海図」である。補陀落渡海は言葉だけ有名になっているがその実体はどんなものであったかよくわかっていないことが多い。参詣曼荼羅図の下部右をよく見てほしい。浜には四方に鳥居の付いた帆掛け船が泊っており、三角屋根の付いた板屋であり渡海船であるということがわかる。そうすると浜の鳥居の前面にいる赤い被布をつけた道者風の三人が渡海上人だろうか、そう思うのは右側にいる白装束の二人が座ってこの三人を拝んでいるし、また後ろの幡(はた)を翻した僧侶の一群は今も残る葬列の儀式のようである。送るのはもちろん渡海上人である。しかし実際に渡海するのが三人というのはちょっと多すぎる気もし、もしかしたら真ん中の一人だけかもしれない。渡海船の左の三人が乗る小舟は渡海船をひく曳舟であろう・・・などなどと推測できるが、できれば時空を超えて比丘尼はんに絵解きしてほしいと思う。

 これらの熊野曼荼羅を使って絵解きする熊野比丘尼(現代に観光か研究に復活させたようだ)
 どうでしょうか?ふぅ~ん、そうか、で終わるやろな。ストップモションのようなこんな写真を見ても中世の人々のワクワク感は伝わってこんやろな。このおばはんが比丘尼はんやけんど、なんや白装束で今もいる下北の恐山のイタコ風やな。そりゃぁそれでなんか霊的な威力も感じそうだが、あんまし目を引くような容姿ではない。はっきりゆうてばあさんやないか。このブログの題になった「エロス」は感じんわな!しかしこれは観光に再現されたもので中世から江戸時代熊野比丘尼がたくさん街道筋を勧進して歩いていた時は若い女性の尼僧姿だったのである。この写真からだけで判断しないように。そして尼僧姿とはいいながらかなりエロチックな存在だったのである。

 エロスとは
 ここで「エロス」と出てきたが熊野比丘尼はんが持っていたようなエロスってなんやろ?小難しい定義は哲学書にでも任せてこの場合は、皆さんもイッチョ先にイメジする「色気」「魅惑」、もっと言えば惑溺する何かであるから、それは性を連想させるようなものでなくてもよい。乞い求め熱望する何か、それは非合理性をもち、現世では普通に実現しないものである(浄土、極楽、あの世、異世界へいざなう熱情など)。理解するのに「エロス」と対極にあるものを考えると掴みやすいかもしれない。それは合理性や、証拠証明に基づく確かさ、激情を配した冷徹さ、簡素明快な説明、宗教を受け入れるにしても唯一絶対神を前提に置いた論理的な思考などが「エロス」の対極であろう。そう考えると熊野の多神教的で猥雑な神仏、山川に息づく霊とそれを感じる感性などはエロスを形作っている。とはいえ比丘尼はんは最初の一義的な(性や官能面で)意味でエロスを発散させていた。

 ケンプェルはん
 このように多義的であいまいに「エロス」を使っているが、もし熊野比丘尼があふれるほどいた歴史時代に合理性精神をもち、一神教的な価値観、倫理観を持つ人が、神仏とエロスが結び付いている熊野比丘尼に出会ったらどのような感想を持つのであろうか。そんなことありえない?歴史時代に現代の人がタイムスリップでもしない限り無理、と思われるかもしれないが、その出会い。そうでもないのである。実際に現代的な合理精神と倫理観を持つ人がなんと熊野比丘尼に出会っているのである。時は17世紀、五代将軍綱吉の治世下での出会いである。その人はオランダ商館の医師としてオランダ商館の毎年恒例となっている江戸参府に随員としてつき従ったケンプェルはんである。彼は街道でたくさんの熊野比丘尼と出会っているのである。彼は欧州に帰国後『江戸参府旅行記』を書いてその時の様子、自分の感想を書いている。これは今、平凡社から出版されていて誰でも手ンごろ易く読める。それを読むとケンプェルはんの感性、価値観は現代のわれわれに非常によく似ている。むしろワイらの御先祖様でありながら17世紀(具体的にワイらがよく知っている歴史人物で思い浮かべると犬将軍野綱吉はんがいたころ、浅野内匠頭も青年大名としていた、敵役の吉良上野介とは街道でケンプェルはんはすれ違っている。もしかするとあいさつしたかもしれん?)の日本人のほうがこのケンプェルはんより感性、価値観では全くの異国人のような気がする。逆にいえば現代の日本人は近代化の過程でいかに西洋的なものをたくさん摂取してそれが我々の血肉になったのかがわかるというものである。

 ケンプェルのみたエロス
 ケンプェルはんは書いている。彼の出会いのはじめの書きぶりから熊野比丘尼はんはエロス満々で登場する。

 「彼女たちは、ほとんどが、我々が日本を旅行していて姿を見たうちで最も美しい女性である。」

 とケンプェルはんは断言している。最も美しい女性たち、とはただごとではない。そして

 「貧しいが若くて魅力的な彼女たちは、比丘尼として公に認められ、魅惑的な容姿で大変上手く布施をまきあげる術を身につけている」

 と言っている。美しく魅力的なだけでなく彼女らは求められれば胸を差し出す(胸だけですむはずないやろが!)とも言っているからまきあげる布施は対価であるとケンプェルはんは思ったのだろう。彼が売春婦の一種ではないかと思ったとしても不思議ではない。ケンプェルはんは彼女たちの一部は娼家で育てられたのではないかと推測している。それだけ色気や手練手管がそれらしいということだろう。付言して、彼女らには貧しさも出家らしさも感じられないといっているが、性的なものを忌避するキリスト教の宗教家を見知っているケンプェルはんからみれば出家らしさがないといえばその通りだろうが、その当時、彼女らも熊野信仰の一翼を担うれっきとした宗教者である。

 近代人に近いケンプェルはんはかなり公平に彼女らを観察し判断しているがやはりキリスト教的価値観から批判的に見ている部分もある。抑制された言い回しではあるが、こう述べている。

 「・・・尼僧のように頭を丸めていても、軽薄でみだらな女性の仲間から(売春婦の婉曲的な表現)彼女たちを除外するわけにはゆかないのである。」

 と結論付けてはいる。とはいえ、ケンプェルはん本音では熊野比丘尼はんのエロスにはかなり魅かれていることが言葉の端々からうかがえる。

 「剃った頭には黒い絹の頭巾をかぶり(うぅぅ~~、若い美しい尼さんの坊主頭、何とも言えん色気やでぇ~、あぁ、よだれが垂れたやんけ!)、着物をこざっぱりと着こなし(小柄で若い女性の着物姿、毛唐にはそそられるやろなぁ)、手には指のない手袋(手っ甲)をはめ、幅の広い日笠をかぶって、おしろいを塗った顔を外気から守っている。また短い旅行杖を突いているので、ロマンチックな羊飼い(ケンプェルはんの故郷のエロチックな思い出だろう)の女を思い起こさせる。」

 また

 「その言葉遣いや身振りには、厚かましさも卑屈さも陰険さも気取った風も全然なく(みだらな女性と結論付けているのは全く建前ということがわかる、こちらが本音じゃろ)、むしろ率直ではあるが幾らか恥じらうことも忘れてはいない。」

 ってケンプェルはん、こりゃぁかなり比丘尼はんに参ってまっせ。エロスにかなりあてられてまんな。男が若い女性をこのように描写するってほとんど恋情でっせ。

 彼女らは一人で活動することは少なく集団が多い。熊野信仰を勧進する男の宗教者である熊野の山伏と共同行動を共にする場合も多い、比丘尼は彼らの妻であったり娘であったりすることもある。そんな一団は街道筋をミツバチの大群のように旅行者のまわりに集まり、一緒に歌を歌いホラ貝を吹き鳴らし、熱弁をふるい、ずいぶんと賑やかであるとケンプェルはんは書いている。街道は熊野のエロスの花、大満開である。ケンペルはんの建前として持っている価値観から宗教とエロスとの合体などとても認められないし、比丘尼たちが実に陽気に旅行者たちにケツや胸を差し出し、お股を開き、売春行為など宗教関係者としてもってのほかとおもっている。しかし、本音ではこのように極めて魅かれている日本の女性である。旅の一夜どころかもしかしたら数夜、比丘尼はんと乳繰り合って楽しんだこともあり得る(西洋人とはいってもイエスズ会のボンさんでないし丸山の遊女買いをする長崎の阿蘭陀はんである)、ケンプェルはんもドスケベな男の一人かもしれん。

 神聖さとエロス
 本音では比丘尼はんのエロスに肯定的(むしろメロメロ)であったケンプェルはんだが彼には絶対理解できないだろうことがある。それは宗教の持つ「神聖さ」と「エロス」は日本では容易に結びつくことができるということである。これはケンプェルはんはじめ西洋人には全く理解の埒外であった。西洋の価値観では神聖さはエロスとは対極で近づくことさえ否定される、もし少しでも近づけばそれは堕落となる。しかし中世や江戸時代の日本ではそんなことは全くない。女性器、男性器の御神体の神さんもあるし、法悦と性的エクスタシーを不可分に結びつける宗教もある。性的な惑溺に耽らないよう戒めはあるが、それも山ほどある各宗派のそれぞれである。聖(ひじり)が女体を近づけないのはそれはそれで高潔といわれるが、新義の戒めを立て、妻帯してもよろし、相手が幸せになるなら大いに性交したり愛撫しなはれ、といっても日本では別に不思議とは思われない。女体を近づけぬ高潔な聖でも若い男のケツにエロスを感じ、お気に入りの侍童として肛門性交するのは何ら不思議ではなかった。これなど西洋ではソドミーといってもっとも忌むべき行為である。聖者がそんなことをするなんどということは彼らには卒倒もののありえないことであるが、日本では聖(ひじり)の神聖さと侍童(若い男)のエロスとは共存し、文字通り聖のマラと侍童のケツが合体することもあり得るのである。

 宗教的サービスに西洋では性的なものは絶対禁止だが日本では宗教的サービスとして性の提供はあり得る。比丘尼はんがよ~~信心してくれてお布施もたっぷりくれる信者(一時的でも構わない)に性的なサービスをしたとしてもおかしくはない。というか布施をすればこの時代これを含めた何らかの宗教サービスがあるのは普通である。もちろん性的なサービス以外にも比丘尼はサービスは持っていた。広く言えば熊野曼荼羅の絵解きもそうだろうし、また熊野の護符(熊野牛王符と呼ばれる)を配ることも重要なサービスの一環であった。この熊野牛王符はお守りにもまたその裏面を誓詞(誓いや契約書)にも重宝されたから熊野比丘尼や山伏はこれを多量にもって配っていた(もちろん布施、寄進など対価と交換だが)。あ、そうそう、本業の御祈祷、信仰の相談事、参拝のアドバイスなども言わずもがなのサービスである。ほかにも長期保存の魚介類の干物や酢もの、また熊野神社にゆかりのあるところで調整された特効薬と信じられた「丸薬」類などもサービスの一つといっていいだろう。それらの多様なサービスの一つとして、歩く風俗嬢、露天のピンクサロンサービスが入ったとしても全然違和感ないし、実際、ケンペルはんが見たように江戸時代はそんなサービス花盛りである(興味ある人はケンプェルはんの江戸参府紀行を読んでください)。ケンペルはんはそれを見て建前では宗教者にあるまじき堕落と見、本音では少し道を踏み外したお茶目な娘くらいにおもっていただろうが、ともかく、彼は宗教とエロスの結びつきは神聖さを汚すものとして見ていた。


 左は熊野比丘尼や熊野山伏が配った護符「熊野牛王符」烏(からす)文字で「熊野山宝印」と書いてある。

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