2019年6月2日日曜日

白川神社へ行ってみた

20181129

 ググルマップでだいたいの場所の見当をつけ、探しながらいくとバス通りにこの神社の灯籠と案内の矢印があった。この灯籠と案内の矢印、そして神輿を載せるのだろう御旅所(台形のコンクリ)を見るととても寂れた神社とは思われない。


 行ってみると境内の敷地はそう広くないし、鳥居も大きくはないが、敷地いっぱいに神社の建物が何棟かぎっしりと建て込み、また集会所のような棟もあり、管理掃除も行き届いていてかなり充実した神社の様子であった。


 すぐ隣の寺の境内から神社を見るがいくつもの棟が続いて建てられているのがわかる。


 また道路の反対側は神社の敷地に変わらぬ広さの駐車場、神輿か何か納める神社の倉庫、それから石碑が二つ立っている。




 石碑の一つ、『御神徳感謝碑』、読んで私なりに現代的な意訳をすると。


 行者、白道さんは何十年もこの白川権現さんを信心していた(心魂を砕き、と表現している)が、ある夜、「身辺に示現現来あり」(夢に現れたとは言っていないことに注意!)、権現様があらわれ、汝(おまい)は常日頃信心かたく、不断の祈りに、ワシ(権現さん)も満足である。だからお前の家に現れたのである。この上はオマイの守護神となり、加護はもちろんのこと、家族の加護もしてやろう。また前年、オマイが大病したとき、ワシ(権現さん)は他の御嶽山の神々とともに『骨肉を引き裂く』がごとく、心配してやったぞよ(神慮を致し、と述べている)、「お陰で私は長命を保っている」☜挿入文、今後とも信心を怠るべからず、ゆめゆめ疑うことなかれ(これは神が示現して神意を述べた時の結語の決まり文句)、と神命を賜った。このあり難い神意を終生忘れず、ますますの信心を行い、御嶽本山と白川権現さん、そして講中の繁栄を記念してここにこの記念碑を建てた。とある。(神が示現された年代は書いていないが、碑の年代が昭和五十年となっているのでそのちょっと前であろうか。)

 駐車場の奥にあるもう一つの石碑は御嶽の神々を讃える発句(俳句)であろう。こちらは行者「白祐」とある。前の石碑の行者さんは白道さんだった。白川権現の神名にちなんで白川権現の行者さんは白〇と名のるのであろう。


 神社の社殿の一番奥に大きな石碑がいくつもあるが(新旧含め4つある)、そのすべてに木曽御嶽の神々、三十二座(32の神様)の御神名を刻んでいる。当然その一つに白川権現さんもいる。


 一番古い石造物を探したら、本殿の横の石灯篭の寄進年代が明治二十五年とあった。アメリカの天文学者ロウエルが阿波の御嶽信者の若者三人とあったのがこの前年の明治二十四年であるから、もしかするとこの若者が帰った後、その寄進に関係していたのかもしれない。

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