これまで私は熊野の神様あるいは熊野の神に関係される神様と呼んでいる。多神教で人格神ならチャンと名前を指定せんかい!といわれそうですね(ギリシア神話ならゼウスとかヴィナスとか名前を言えばわかりやすいですものね) その点、「熊野関係の神さんら(等)」と呼ぶのはあいまいで一体、どんなお神さんなんや?そもそもお一人か、それとも何人か熊野関係の神さんというグループになっていて複数の神さんなんか?それならだれだれで何人のお神さんなんや?と思われるでしょうね。
熊野の神関係の神社を巡るとたいていは主神とは別に複数の神様をお祀りしてある。名前もちゃんと神社のどこかに掲げてる。しかし、その一人一人の神さんは非常に複雑な面を持っていて一つの名前でお呼びしてよいものやら私にはどうも疑問なのである。ちょっと下世話なたとえであるがみなさんよく御存じのテレビドラマの「水戸黄門」で例えると、越後のちりめん問屋の隠居がエエもんの見方をするため田舎ジジイのなりをして、悪モンの中に現れた、しかし田舎ジジイなど悪モンは歯牙にもかけない、そこで実はここにおわすお方はさきの副将軍・水戸光圀公であらせれれるぞ、と身分を明かし、悪モンは平伏し、いつものように大団円となる。がさらに実は・・・が続き、それはエエモンがワルモンにいじめられるのを見るに見かねたある詐欺師の一団が水戸光圀御一行を騙ったというオチ話になる。
さて、ここでは一人の爺さんが、越後のちりめん問屋の隠居、田舎のジジイ、従三位中納言水戸光圀公、そして善の心を失わない詐欺師、となんと四つもの役割を持っていて、テレビの上でもそういった名のりをあげているのだ。ちょっと混乱しそうだが日本の時代劇や歌舞伎では、実は・・・といって全く別人が仮面をはぐようにサッと変わるのは何ら違和感がない(それも何度も)。なんやぁ~日本人ってこういうとこいい加減にあいまいにできているんやなと思う。こういうとこ日本の宗教にも言えるように思う。
最初に言うと熊野の神さん連中は、この水戸黄門のドラマのように3つから4つくらいの御神格(お神はんの性格)を持っている。最低三つの神が重なっているんじゃないか。
日本文化の最も古いものはご存じのように「縄文文化」である。この時の宗教はよくわかっていないところがあるが、発掘された土偶などの呪術道具類、あるいはついこの間まで文化人類学での原始宗教の研究対象となっていた太平洋諸島やパプアニュギニャなどの民族の研究から縄文時代の宗教がわかるようになってきた。一言でいえばアニミズム(精霊崇拝)である、いろんなものに精霊が宿るという考えで、その中で畏怖すべき自然現象や驚嘆するような自然物(深い森にある巨木、突然地上に出た大きな岩、大滝、峻険な山、急流でいわゆる暴れ川など)は崇拝の対象となった。それが原始宗教の神々、言いかえると縄文期の神である。
縄文以降続くこの日本列島の文化は、他文明や多民族からの侵略がなかったためほとんど途切れずに時代を進んでいった・・・と言いたいところだが(ワイなんかは縄文の原始信仰にスンゴク魅かれるが)、その後、二度ほどかなりな変成を受けている。といっても先にいたように大陸のようなおどろおどろしい侵略がなかったため変化は緩やかで決して断絶することなかったが、新しく加わったものが古い基層の上から緩やかに浸透していき少しづつ変わってきたのだ。
一度目は稲作の開始とともに稲作農耕の神々もうまれ、そしてムラからクニへ社会が変わる過程の中、神々も秩序正しい序列を伴いだしたことである。「古事記」の神々の世界の誕生である。これによって縄文系統の神々は圧殺はされなかったが序列化されたり、下位に置かれたり、また呼び名も変化したりして神格もかなり変性を受けた。
二度目は6世紀にはじまる仏教の受容である。これは従来の神さんにとってかなり大きな危機であった。なんせ同じころヨーロッパでは仏教と同じ世界宗教のクリスト教が入るが、元々ケルトの民やスカンジナビャの民の神々は縄文の神々とよく似た精霊信仰に基づく多神教だったが、クリスト教によって見るも無残にそれらの神々はブチ殺されてしまった。(細々と残る祭りや行事に今も残っていると称する、例えばハロウィンのように、それもどうだかね、クリスト教の多神教に対する獰猛さを見れば怪しいもんだ!)
しかしうれしいことに、仏教の生まれ故郷インドのヒンドゥ多神教世界の神々をベチャベチャひっ付けた仏教の仏は土着の多神教に対して獰猛ではなかった。仏は仏、神は神として、仏(ほとけ)ほっとけ!で混在することができたのである。しかし目を見張るキラキラしい仏像、豪壮な建築、美しい仏教美術、体系化された仏の教えを説く「経典」を伴う仏教は上層階級に支持され、信仰をひろげ深化されていったのである。やがて下層階級にも仏教は広がってくる。こうなると土着の神々は押され気味となり、衰微し、なくなるのか、何とか共存する道はないのか?
あるんだなぁ~、これが!さっき言ったテレビ水戸黄門の「・・・・・その人と思ってたけど実は・・・」っちゅういい手が。難かし言葉でいえば『本地垂迹説』、またまた下世話な言葉でいうと
「あのな、あんたはんが毎日拝んみょる、瀧のそばにある祠の神さんあるやろ」
「うんうん、ある、ワイ、がぃに信仰しよるでぇ、あれな、拝んみゃすいところに祠があるけんど、実は、ご神体は前にある瀧やでぇ~、知っとったでか?」
「知っとう、知っとう、ウチもたまにやけんど拝んみょるで」
「さぁ、その祠の神さんやけんどな、ホンマは、実は、仏さんの千手観音さんやて、それしっとったで?」
「えぇぇ~、ぜんぜん知らんかったわ、ホンマで、誰がホンなこといいよったんで?」
「この間都から来たえらい坊んさんがいいよったで、この祠の神さんは実は、ホンマは千手観音さんやけんど、遠い遠い西方からやって来て、ワイらのようななぁんも知らんもんでも、大慈大悲の救いの手を差し伸べるためこの土地のあの祠の神さんに仮に姿をかりて馴染みやすい姿になってるんやて、ほにゃけん、あの祠の神さん信じることは千手観音さんを信じるこつと同じや」
「ほら、ええこと聞いた、一度の信心で二度おいしいっちゅうこっちゃな、これからもよ~~~~ぉ、信心してこましたろ、ええ話、ありがとなぁ」
これがまあ中世の庶民が理解した「本地垂迹説」じゃけんど、こんなかで、「・・・実は」っちゅうのが二度出てきている、祠の神さん、あれは「実は」、神体は瀧、しかしその「実は」、千手観音さんじゃ、と、なんとこの中世の男が信じている神は、三つの神格を持っているのである。
まあごくごく簡単にいうと以上のようになるが、熊野の神さん連中はこんな複雑な面を持っているのである。一つや二つの名前では呼べないのである。いったいどんだけ重なっていることやら専門家でも一口では言えんていいよった。
それでは昨日行った石井町にある熊野の神様系の神社です。(神にまとわりついている上に述べたような多層な御神格についてはここでは推測を控える、以下は神社の公式発表によっている)
東王子神社
主神は「伊弉冉」(イザナミ)神、古事記の国生み神話に出てくる女神でイザナギ(男神)と柱の周りをめぐりつるんで国を産んだことで知られている。神社縁起によると延暦二年勧請すと述べられている。江戸中期のこの神社の別当は恐らく神宮寺でもあった少し北にある徳蔵寺にある。
東王子神社の境内のようす
イザナギ、イザナミは夫婦神であるため、夫の「伊弉諾」(イザナギ)神も祀られていないかと探すと以前7月にその神社に行ったブログを作っていた神社名は「中王子神社」、この東王子神社から西へいったすぐ近くにある。こちらの神社は江戸中期に書かれた神名帳によれば神社の別当は今は藤の名所である地福寺となっている。明治以前は神社、寺といっても神仏習合であって明確な区別はないところが多かった。
新宮・本宮両神社
三神、イザナギ(伊耶那岐)、イザナミ(伊耶那美)、速玉男神を祀る。
文治年間(12世紀末)、有名な那須与一(平家物語扇の的)の勧請とある。屋島の戦いの功によりこのあたりの荘園を領したためか。
境内には那須与一が上板大山寺より強弓を引き絞り中空に放った矢がここまで飛んでささった、と伝説にはあり、そのためその場所は矢神といわれ御神木の大銀杏がある。すぐ横に寺があるが昔はこの神社の神宮寺だったと思われる。
両所神社の境内のようす、神木の銀杏がある
神社から出て百メートル南に那須与一の廟がある。廟の覆い屋には五輪の塔が祀られている。一説には墓といわれる。
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