雨が残るのは朝のうちだけとネットの天気予報でみていたが、なんのぉ~~、一日終わってみれば暗ぅなるまで降ったりやんだりの気温の上がらない時雨もよいの一日だった。もう死にかけのジジイとしてはこんな日はオコタにでもはいって安楽にといきたいが、家におったら電気のメートル代もばかにならへんし、オコタに入るとすぐ横になりぼんやりと無為に過ごしてしまう。特に最近はそうである。意識して外で動き回らにゃ、ホンマにボケが来て体も動かんようになってしまう。
きにょうみたいに天気よければ山頭火はんの後を辿りアッチャコッチャへ自転車や汽車に乗っていけるんだけんど、しぐれもよいの今日はそんなに遠くへうろちょろできひん。現に曇りの状態が続くと思って自転車で青少年センタを出て少し城公園を走り出すとすぐ時雨が降りかかってきた。朝の最低気温はそんなに下がらなんだが時雨に濡れるのは冷たい。蒸気機関車の展示館でちょっと時雨をやり過ごす。
そんな時考えた、山頭火はんやったら、きっといい俳句、彼の場合は型にはまらない自由律俳句だが、つくるんやろなと。自分には詩才はない。でも鑑賞はちょっぴりできる。詩情を催すときもある。実をいうと芭蕉、蕪村、一茶などの俳句で気に入ったのはいくつもある。詩情を催すときは私は創作には向かわず、それにふさわしいそれらの俳人の一句を口ずさんだりしている。そんな程度のものである。今まで山頭火はんの俳句はその口ずさむ俳句の中にも入っていなかった。半世紀以上も前に高校の現国でわずか二句(わけいってもわけいっても青い山、と、うしろすがたのしぐれていくか、)を覚えただけで心に残るものではなかった。
しかし先日文学館で山頭火はんの日記や句集の展示を見て、山頭火の句も味わい深いものであることを知った。
例によって自分んで創作できひんから山頭火はんの一句に、自分の今日の時雨の日の詩情を同調させる句がないかと、彼の句集をめくってみると、あった。次の句である。
しぐるるや死なないでいる
普通に見て俳句とも思えぬ句ではあるが、これ気にいったなぁ~。この句、好っきゃわ。
かなり以前、私のブログで取りげたが、中世歌謡『閑吟集』に私のいたく気に入った小歌がある。
世間はあられよなう、笹の葉の、さらさらさっとふるよなう
おそらくは永遠に続く時間の中、100年生きたところで永久に流れる時の中ではほんの一瞬、刹那にすぎない。急にパラパラっと降りかかってくるあられが、笹の葉に打ちかかり、サラサラと音を一瞬音を立てたかと思うと、あられはサッと葉を滑り落ち、それで終わり、まるでこの世の生のよう、この生は悠久の中の刹那である、しかし老境で死の直前であろうと、現に自分はまだ生きている。外ではあられが降っている、今の刹那の生を確かめるように、ああ~笹の葉にあられが打ちかかり、そして滑り落ちる・・・・・
とは私の独断と偏見の解釈。
山頭火はんのしぐれの句に対する私なりに感じた詩情は、またこの中世閑吟集のこの小歌に感じた詩情と通じるものがある(あくまで私のみかもしれんが)。
まさに今日のしぐれに濡れそぼる私である。病多く、孤独で、これからのこと考えるとなんもええことないカスのようなジジイである。ワイの生まれる前も悠久の時間が流れ、そんなかからたった一回のそれも一瞬、ポコッと浮かび上がってきた。やがてまた悠久の中に入って無となっていく。そんでもなぁ~、しぐれにうたれるこの傷心のジッジイでも、まだ生きとんや!、生きとんやで~、だれも聞いてくれへんかてええわ、今を、今を、まだワイ生きとんやでぇ~。
そしてワイはつぶやく
しぐるるや死なないでいる
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