先週末文化の森博物館で特別展をやっていたが、その特別展(テーマは那賀川流域自然・人文)のコーナーの一つに『古銭』があった。
この古銭、昔から続く家の蔵などから発見されたものではない。みんな発掘の結果出土したものである。コーナーのパネルを見るとその場所と量がわかる。
かなり大量の古銭が発見されている。海洋町の大里というところではなんと7万枚である。どのような銭かというとこれもこのコーナーに実際に展示されている。
非常に種類が多い。ところでこの埋蔵された時代であるが室町期が多い。この時代、我が国は銭の鋳造は事実上中止しており、流通銭は中国の銭がほぼすべてといってよい。中国の各王朝で鋳造された様々な種類の銭がある。この中で圧倒的に多いのは中国・明初期の「永楽通寶」である。上記のパネルの一番右隅のあるのがそうである。古銭は骨董的価値があり、いま高額の値が付くものもあるがこの永楽通寶はあまりにも室町期(また江戸時代も流通した)に多量に出回っていたため、今日でも古銭として出回っており価値はあまりない。我が家にもこの永楽通寶の古銭が何枚かあったくらいである。
こんな多くの種類が同時期に出回っていてそれぞれの価値が違うとすると計算も大変だと思うが、これ種類が違っても穴あき銭の場合みんな「一文」として数えたから多種類が混じっていても枚数さえ同じなら等価値となった。
室町期の一文って今の金に換算するとどれくらいの価値だろうか。江戸期の一文はかけそばうどんが十六文というからだいたい、1文=15円くらいだろうか。では室町期はというと、時代が下るにつれて同じ通貨単位だと値打ちは低減していくものであるのは明治以降の「1円」の価値と変わりない。室町期はだいたい50~100円の間であろうか。
この大量に発掘された銭、縄文時代の石器や土器であるまいしなんで土の中にあったのか、縄文時代の石器土器は時とともに自然と埋まったと考えられるが古銭はそうじゃない。皆さんもお察しのように人が土の中に埋めたのである。なぜ?いわずもながだが銭がある程度たまると秘蔵し人に見つからないよう、奪われないようにしたのである。中世に銭を貯めて残すにはこの方法が一番である。家だと家探しされたり、戦乱で焼かれたりするが土地に埋める場合は場所さえ覚えていればまず奪われることはない。銭は甕に入れて埋められた。そのため出土は甕に入って出てくる。
室町期この穴あき銭「一文」より大きな単位通貨はない。商取引で高額決済をする場合でも最終的には(室町期には為替、割符などの決済も始まったが清算決済はやはり銭)この穴あき銭一文のみしかない。そのため高額の場合はまとめて結束して一つにした。百文とか千文とかに、そのため銭は便利な形をしている。中央に穴が開いているため銭差しという紐に通して百文・千文とまとめて一本として高額の単位貨幣としたのである。千文を一貫と数えます。(中世の領主はワイは○○貫の価値の土地を持っているんじゃぞぉ、と銭千枚の単位に換算した価値尺度を使います) 下は一貫の銭
さてこの古銭の形態、その伝統を現代まで引き継いでいる貨幣があるのはよくご存じですよね。今の貨幣で思い浮かぶのは「五円玉」と「五十円玉」ですが、伝統を色濃く受け継ぐのは「五円玉」の方です。穴あき銭という伝統と他にまだ二つあるのですがわかるでしょうか?五円玉があれば裏表見てください。気づきましたか?
何でしょう?
まず五円玉はほかの硬貨と違い裏表どこにもアラビア数字はありません(50円玉やほかの硬貨にはある)漢字しか使われていません。中世に持っていたとしても変わった銭とは思われましょうが理解の埒外ということにはなりません。
そして五円玉の重さは、3.75gです。これは尺貫法で言う「一匁」つまり「文目」(もんめ)に当たります。いわばきっかり一文と同じ重さなのです。当然、五円は千枚集まれば一貫となり、室町期の銭一貫と同じ1000文となります。
まさに五円玉は古代から中世にかけての穴あき銭「銭」の直系の子孫なのです。
世界を見渡すと現在流通している硬貨で穴の開いたものはそこそこあるようですが、歴史的に銭が流布していた東アジアで穴あき銭が今流通しているのは日本だけです。よく中国は四千年の歴史、韓国は半万年の歴史と誇っていますが、穴あき銭の伝統を引き継いでいるのは日本だけとなります。そしてさらに付け加えると硬貨に刻む元号(これは来年確実に変わりますね)も残っているのは日本のみです。このような伝統は誇ってよいと思います。
この文化の森博物館の特別展は今開催中です。このブログでは出土銭のコーナーしか紹介できませんでしたが他にもいろいろお勉強できる展示がありますので見学に行かれてはどうでしょうか。うれしいことに無料となっております。
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