2019年6月28日金曜日

古代阿波の廃寺4 川島廃寺

 今回は川島廃寺をとりあげる。実はこの廃寺跡は私の家に一番近い。そのため昔から(まだ若かったころ)古代寺院があることは誰に教えられるともなく知っていた。10年ほど前古代史に興味があったころその場所や遺跡、遺物を調べたことがあった。しかしその時はまだ発掘調査も進んでいなくて廃寺跡の位置も特定されておらず、遺跡遺物もほとんどなくわずかに川島神社から岩の鼻へ上る石垣にその廃寺の礎石が利用されていているらしい(もちろん運んできたため旧場所ではない)というだけのものであった。旧廃寺の場所でもないし、石垣に使われている礎石ではあったがそれでも一応見に出向いて行った。それが下の写真。ただの石垣の石にしか見えず、石碑は立っているがどれが礎石やらわからなかった。

 しかしその後、ウチの教育委員会も「ワイんくの郷土に古い寺院跡があるのに、それがはっきりわからへんて、こんなことで委員会!」と発奮し、ちょうど某新興宗教の教団が廃寺跡と思われる土地を購入して更地にする機会があったため発掘調査を行った。その結果、かなりのことがわかった。

 それで先日(6月20日)その発掘場所を見に行って来た。発掘はすでに終わっていて、掘り返されたところは覆い土で更地にされているが、その場所にはかなり詳しい写真、地図、伽藍配置、構造図などを含む説明板が立っている。いま我々は廃寺、廃寺とアルプスでペーターがハイジを呼ぶように呼んでいるがこの川島廃寺も郡里廃寺(立光寺)と同じように伝承ではあるが『大日寺』と名がついていたようである。

 まず川島廃寺の位置を鳥観図と地勢図から見てみよう。

 鳥観図(奥が南となる)、北から南を見ているのに注意、鉄道線路がわかるがそこに阿波川島駅があり発掘場所は駅前である。駅から歩いてわずか1分の距離、右下隅に湾曲して流れる吉野川が一部見えているが駅付近は微高地となっていて水害は少なく大昔から砦、小城、官衙などが置かれていた。これに対して吉野川対岸(北)の善入寺島や大野島が遊水地帯で水害がおおかった。

 地勢図で見ても微高地というのがわかる。これは鳥観図と反対で上が北になる。赤線で囲ったところが廃寺跡推定地である。

 近年駅前の衰退は著しいがそれでもこのあたりは家が建て混んでいる。なんぼぅ地元の教育委員会が発掘したくても個人の敷地を掘り返すわけにはいかない。しかし某宗教団体が御教祖様御生誕の地ということで駅前に教会を建てているがその施設を建て増しするようになった。そのため駅前の一部が更地となったのである。そこで宗教団体の協力もあり発掘作業ができたわけである。

 その敷地、発掘作業は終わり表面土は均されている。

 説明板を詳しく見てみよう。まず概要の説明を読む。

この発掘あとは建物跡とみられ、金堂の可能性が高いようだ。約10m×10mだから100㎡、30坪の建物だから現代の寺の本堂(金堂)と比べても相当大きい。具体的な伽藍配置の詳細は発掘もすすんでいなくて分かっていないようだがそれでも法起式伽藍配置ということはわかっているらしい。左図がそうであるが、そうであるとすると寺全体の敷地は50×50m以上あったのではないだろうか。





 次に具体的な発掘についての写真、図、説明を見てみる。

 まず発掘の場所と発掘の結果の図である。左上の地図と発掘作業の結果わかった出土物分布の地図とは90°北の位置が違っているので注意。まず金堂(推定)とみられる建物の礎石は残っていないようだが、図で見ると淡緑色の部分が金堂建物の整地土として発掘の結果わかっている。そして金堂の建て地は太い黒の実践部分である。この上に金堂が建てられていた。淡緑色の部分がパッチ(つぎ)状態になっているのは発掘がトレンチ(ある幅の溝を掘って発掘)したためであり、太線内の白い部分は直接発掘はされていないがすべて淡緑色(整地土)とみてよい。

 金堂の建物、そしてその基壇、整地土の関係がちょっとよくわからないが、親切なことにその関係も説明板に図示していたので下にあげておく。これを見ると整地土と金堂の関係がよくわかる。基壇部分は幾星霜立つ間に削られてほとんど確認できなくなっている。

 発掘時の各部分の写真も展示してあったので見ていこう。上の発掘出土分布地図を参照しながら写真を見ていく。

 まずA方向から撮った写真、基壇はほとんど後世に削られたとあるが基壇の外装部分が一部には残っていた。それがこれ

 次にB方向から撮った写真、発掘出土分布地図を見ると砂利敷となっている。金堂の外周部を砂利で敷いたものだろう。今日でも家の外周に砂利を敷き詰める場合がある。よく見ると確かに砂利が見える。

 C方向から撮った写真、金堂から少し離れている場所だがうれしいことに出土物があった。いろいろな手掛かりになる貴重な遺物だ。鬼瓦がはっきりと確認できる。周りも瓦の断片のようだ。

 D方向から撮った写真、Cに近い部分であるためか、こちらの発掘も瓦ケが多いが、慎重に発掘していくと瓦以外のものも発掘される。目を凝らして瓦以外のものを探すと・・・

 E方向から撮った写真、ワイが写真を撮った時、説明パネルが反射していて白く光っている部分があり見にくいが、縦に二筋の溝があるのをよく見てほしい。これは発掘出土分布地図を見てもらうとわかるが、溝の跡である。給水か排水かはたまた別の用途か、ともかく何らかの溝である。途中横に堰止めたように壁のようになっているのは、先にいったようにトレンチを掘り調べているが、この部分はトレンチを掘っていないのでそのまま残っている。だから縦長にまっすぐ溝が走っているとみてよい。

 F方向から撮った写真、建物の跡

 次は発掘の出土物、次のようなものが出た。須恵器、瓦などは文様・様式などで年代を推定できる貴重な資料である。砲弾型の小さなものは螺髪といっていわゆる大仏頭のパンチの一部分、51個も出土した。

 土製の螺髪がでたことから金堂に安置されていた本尊(あるいは脇仏かもしれないが)は塑像製であったと思われる。仏像の材質は 5種類(木彫, 乾漆, 塑像, 鋳造, 石仏)あり、塑像(そぞう)は粘土で造る。塑像は中国伝来のもので、奈良時代のものが多い。塑像の特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。塑像製は、天平仏に多い。

 これらの出土物からこの川島廃寺(大日寺)の創建年代は早い場合は7世紀後半、遅くても8世紀前半であると推定されている。

 発掘出土分布地図を見てもわかるように発掘は廃寺のあった敷地の一部である。もっとこの川島廃寺(大日寺)について知るには、廃寺の敷地全体の発掘ができればいいが、残念ながら周りは家が建て混んでいて容易には次の発掘作業はできない。しかし10年、20年いや100年のスパンで気長く待てばやがて更地にする家々も出てこようから、順次発掘を進めればよいが、何世代にもわたる長期事業になる・・・・・ワイはもう生きとれへんわ!

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